第2話 在りし日の二人
アリシアは懐かしく思い出す。
彼と初めて会った時のことを。
幼い子供同士を引き合わせる理由が「親が仲が良いから」なんてことはない世界だ。
特に説明も受けずに、「我が家に恥をかかせないように」という注意だけを受けてアリシアは彼と席を共にしたが、その意味くらいは充分に理解していた。
ユージンは少しカールのかかる髪も相まって、かわいらしい天使のような少年だった。
この世界に天使なんて存在はないので、もちろんアリシアだけの感想だ。
黄金の髪と、スカイブルーの瞳。
銀色の髪と、バイオレットの瞳を持つアリシアと並ぶと誂えたように一対に見える。
そんな天使は両親によく可愛がられているらしい。
小さなおままごとのように、彼は客人であるアリシアにたどたどしい手つきでお茶を入れて自ら運んできたのだ。
アリシアの両親は「まあ、お可愛いらしいこと」と頬を緩めていたが、アリシアとしてはハラハラが先に立って天使ぶりを観賞なんてしていられなかった。
なにせ彼ときたら、緊張のせいか手が震えて食器がカタカタと音を立てていたりするし、歩くのも慎重で擦り足だ。
結末は、アリシアの不安が的中して、躓いた末にお茶をぶちまけたのである。
被害を被ったのは他の誰でもないアリシア。
盛大にお茶を服に飲ませる羽目になった。
ユージンがお茶を入れるのに時間がかかっていたこと、着ていた服が余所行きの分厚い生地であったこと、幸いにも肌にはかからなかったことと併せて火傷こそしなかったものの、アリシアは余所の家で着替えなければならないハプニングに巻き込まれた。
もちろん口では「気にしてない、大丈夫だ」ということを笑顔で、それはそれは丁寧に周り言って回ったが、内心はそれどころではなかった。
だって、ユージンの家には女の子がいない。
服が乾くまで出来ることがなかったアリシアを、ホストは必死にもてなした。
具体的に言えば、他人様の家の風呂に入り、隅々まで磨かれ、エステのように手入れされた。
身体の寸法を細かく測られたので、後日豪華絢爛なドレスの一つでも贈ってくるのだろう。
服が乾いて、「あとは若い二人で」なんて何事もなかったように段取りに戻られても、当時他人と接することに多大な心理的負担を感じていたアリシアの気は治まっていなかった。
「あ、あの、さきほどは……」
謝ろうとしていたのは知っている。
でも、アリシアはそれを遮っていったのだ。
両親に言われた台詞をそのままユージンに返した。
「私に恥をかかせないで」と。
――完全無欠の八つ当たりである。
やっかみもあったかもしれない。
自分はいつも最大限の努力を強いられているというのに、のほほんと愛されて育っているユージンを見せつけられて。
今は後悔している。
他に言い方の一つもあっただろう。
あれでは「あんた、私に相応しくないのよ! 努力が足りないわ! しっかりしなさい!」と受け取られても仕方がない。
そう、せめて「(こんな風に)他人に付け入る隙を見せないよう、(婚約者として、ゆくゆくは夫婦として)二人で支え合っていこう」とでも言えばよかったのだ。
そうすれば、
――こんなことにはなっていなかったかしら。
いまさらながら、アリシアはそんなことを思った。
天井に向けていた視線を目の前に下ろす。
揃って下げられた二人の頭が見えた。
繋がれた二人の手は、絶対に離しはしないというかたい意志のよう。
――全部、自業自得ね。
アリシアはため息を吐く。
二人の肩が強張るようにぴくりと動いたけれど、二人はそのまま頭を上げない。
脅かしてしまったかしら。別にそういうつもりではなかったのだけど。
幼い頃は少しばかり体が弱かったせいで、家の中で本ばかり読んで過ごした。
おかげで賢い子供、というレッテルを得たが、異端というラベルよりは余程マシだったはずだ。
そう、本来ならアリシアはこの世界の輪廻の輪に紛れ込んだ部外者でしかなかったのだから。
そんなアリシアの前世の記憶の中には、自分と同じような経緯を辿った物語が数多く存在した。
いわゆる異世界転生、といわれるジャンルの創作。
娯楽に溢れた世界だったのだ。
おかげさまで、何とか世界に適合することが出来ている。
それにしたって思ってしまう。
前世に読んだすてきな物語の数々。
あの主人公たちなら、こんな道を歩んだりしなかったに違いない。
淑女たる者、人前で頭を抱えたりはしないものだから、アリシアは心の中でだけ行動した。
猛省である。
少なからず、アリシアにだって乙女心はあった。
もしかしてここは乙女ゲームの世界で、自分はその主人公かもしれないなんて想像だってした。
だが、それはないだろうと結論付けるだけの冷静さくらいは残っている。
だって、――婚約者は救うものであって、トラウマを植え付ける対象ではない。
アリシアは自分がしてきた努力を相手に求めた。
……つもりだった。
けれど、それも傲慢さが為せる業だったのだろう。
自分が出来たのだから、他人にできないわけがない。
アリシアはそう思っていたのだから。
自己評価が低すぎるのも考え物だった。
アリシアにとっての婚約承諾の挨拶は、ユージンにとって多大なるプレッシャーとなってのしかかったようだ。
完璧に立ち振る舞う少女からの激励。
会うたびに指摘される不十分な教養の数々。
卑屈になることも、攻撃的になることも出来ただろうに、ただ距離を置こうとした彼は、やはりアリシアよりずっと大人だったのかもしれない。
記憶と折り合いをつけるのに必死で、バランスの悪い子供だったアリシアとは大違い。
少しだけ言い訳をさせてもらえるなら、アリシアはユージンを仲間だと思っていた。
共に手を取って戦っていく相手だと。
戦うなら武器は多い方がいい。
隙はない方がいい。
けれど、口では伝えられなかったそんな傲慢な思い込みがユージンを追い詰めた。
せめて言えばよかったのだ。
言葉を尽くすことをしなかったアリシアのミス。
そこから広がった溝は果てしなく深い。
だが当時のアリシアには、相手を慮る余裕はなかった。
アリシアはやり過ぎたのだ。
世界に適合しようと足掻いていたら、その聡明さを、その立ち振る舞いを、褒めそやかされて、失敗の一つも出来なくなって、今や完璧が当たり前の自分に行きついた。
最初はよかった。
褒められてご機嫌になる程度で済んだ。
愚かにも自分の首を絞めていることに気付きもせずに、アリシアは際限なく高くなる周囲の期待に応え続け――、
やがてその日がきた。
「お母さま、これは私には少しむずかしいようです」
そう言った時の、鳩が豆鉄砲を食ったような大人たちの顔。
母の怪訝な表情。
「あ」の一言を漏らしてアリシアは自分の状況を察した。
「これくらい貴女ならできるはずよ。やりもしないうちから「できない」などと言ってはなりません」
にっこりと、有無を言わさぬ笑顔にアリシアはただ頷いた。
ハードルは上がり、アドバンテージは少しずつ消え去り、アリシアの努力は他者にとっての「当たり前」に。
だから、ユージンと出会った頃のアリシアは神童扱いに調子に乗って、天狗になって、やがて青褪めながら必死になっていた、まるで余裕のない時期でもあった。
なんで、どうして!
と、カリカリしながら過ごしていたものだから、周囲は敵ならずも当然味方なんて思えず、少し突けばひび割れるような不安定さ。
やがてそれを突き抜け、折り合いをつけ、心の安定を得て、立派なメッキを張り付け、その美しさを観賞し、満足感を得られるようにまで至った今、それはアリシアにとっては黒歴史。
そして、ユージンにとっては暗黒時代だろう。
申し訳ないと、振り返れば振り返るほどアリシアは反省の海に沈む。
顔を合わせる機会が減っていたユージンと再会したのは10の年。
優秀な次代を育成することを目的とした、実質貴族子女・子息たちで占められる学園に通いはじめた事が切欠だった。
再会の挨拶を交わしてやっとアリシアは自分の失敗を悟ったのだ。
「お久しぶりですユージン様。大過なくお過ごしでしたか」
それは何気ない挨拶のつもりだった。
だが返ってきたのは冷たい拒絶。
「君が心配するような『
「そのようなつもりで言ったのではございません」
「ではどのようなつもりだった? もう俺は君に監視されるような子供ではないよ」
主人公、という立場を諦めたのはこの時だ。
ないな、と冷静に察した。
「そのように、……思っておいででしたか」
青天の霹靂、というにはヒントは数多く撒かれていて。
見過ごしてきたのはアリシア本人だ。
いまさら、近付くと談笑が止まり表情が強張り、緊張に身構える彼に、一体どんな言葉をかければよかったのか。
失敗の挽回はついぞできなかった。
前世の物語の中では、ヒロインと婚約者は何だかんだあっても仲を縮めていったものだ。
アリシアもそういうものだと思い込んできた。
だからそもそも仲良くなれなかった場合、どうしたらいいかなんてわからない。
だって、彼らはがむしゃらに努力をしていれば、事態は好転したのに。
アリシアはもう長いこと、がむしゃらでひたむきで、ひたすらの努力を続けてきた。
けれど、事態は好転どころか悪化の一途。
最初がゼロで、やがてマイナス。
別の女性に心惹かれるのは当然だ。
アリシアの心に浮かんだのはそんな納得だった。
彼は自力で「アリシア」というトラウマを克服する方法を見つけたのだ。
言えばよかったのだろうと思っていた台詞。
機会があれば、いつか言おうかと思っていた台詞。
それはもう、言わない方がいい台詞になった。
少しの意地も、いや意固地もあったのだろう。
努力、アリシアの日々はただ努力という一言で表現できた。
けれど、結果を見れば明らかなことがある。
アリシアが凡人で、ユージンは非凡だという事実だ。
スペックが違うのだろうか。
天と地ほどあった差は、もう手が届く範囲になっていた。
ユージンは今もかつてと同じように、アリシアを手の届かない才女と思っている節があるが、アリシアから見ればとんでもない話だ。
ものすごい速さで追いつき、遠からず追い越される。
わかっていたことだ。
悔しいことだ。
ズルいとも思う。
スタート地点の優位性はもうない。
いや、この時点になると、貰えて当然のアドバンテージだったのではないかとすら思う。
二十歳過ぎればただの人とはよく言ったもので、アリシアの場合、十過ぎればなんとやらだ。
かつて幼いユージンは反発心を持ちながらも、懸命にアリシアの要求に応えようとしてくれていた。
アリシアには不満なんてなかったのだ。
むしろ、そんな真っすぐな彼をアリシアは好ましく思っていた。
けど、きっと彼はそれを知らない。
こうなったからには知られないままが正解。
遠からずやってくる、負けを認めなければならない日の覚悟はできていた。
その時はユージンに掛け値なしの称賛を送るつもりだった。
そして自分にも胸を張るのだ。
だって、自分が努力をしたことは本当なのだから。
非才の身のアリシアは心の底で思っていた。
上をいくあなた、超えていくあなた、私の努力など軽々と飛び越えるあなた。
――だからせめて、せめて一つ。
この意地の張り合いには、この程度の矜持くらいは、あなたから折れてはくれないか。
アリシアは自嘲する。
あまりにも独り善がり。
恥ずかし過ぎて、墓まで持っていく所存だ。
道は交わらず、もしもの未来は今やただの幻。
素直になれなかったアリシアが、言葉で伝えなかったアリシアが、自ら招いた未来は目の前の現実。
だから婚約破棄の打診に答える言葉は一つしかない。
「婚約破棄、お受けしましょう」
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