第3話 たった一つの、許せないこと
「婚約破棄、お受けしましょう」
アリシアはしっかりと二人を見据えながら言った。
正確に言うならば、二人のつむじを。
驚きにがばりと身を起した二人は目を見張ったまま固まってしまった。
当然拒否される覚悟だったのだろう。
何度でも、頼みに来るつもりだったに違いない。
そう言う男で、そう言う女性だ。
アリシアは苦笑した。
もちろん心の中だけで。
――アリシアが作り上げた、アリシアという人物像は表情を不用意に崩したりする人間ではないのだから。
ユージンが嫌いではなかった。
でも恋愛感情があったかと問われるとアリシアにも疑問だ。
同志にはなれると思っていた。
やがて夫婦となって、この厳しい貴族社会を乗り越えていく覚悟もあった。
その相手として、ユージンはこれ以上ないくらいの条件を揃えている。
それが現実となった時、絆し絆され、愛が生まれる可能性もなくはなかっただろうが、その未来は潰えた。
では過去は?
執着、嫉妬、独占欲。
振り返ってみても、恋に付随するはずのそれらの感情と彼とはとんと縁がない。
「お受けしますよ?」
故に、アリシア個人として答えは「イエス」以外になかった。
あまりにも目の前の二人が現実を認識してくれていないものだから、小さく微笑みながら今一度繰り返す。
意図が伝わったのか、ゆるゆると彼らの頭にもその答えが浸透していったようだ。
握った手は何かを伝えるかのようにいっそう強く、一瞬交わった視線だけで互いの感情を読み取り、頬に差す赤みが濃さを増す。
見合わせた目の中にはきらきらと輝く恋の星々が揺らめいていた。
二人の様子にふと頬が緩んで、慌てて目を閉じる。
まだ話は終わっていない。
めでたしめでたしで終わるにはこの先こそが大事だ。
「……ですが、一つだけ条件がございます」
アリシアの無造作な一言に二人の笑顔が凍り付いた。
二人は浮かれていた自分たちを恥じるようにアリシアに向き直る。
恐る恐る顔を向けるユージン、窺うようにみるリリィ。
そんな簡単にうまくいくわけがなかったとでも反省しているのかもしれない。
二人を祝福することに否やはない。
それでも、譲れない条件がアリシアにはある。
許せないものが、一つだけ。
当然、目の前でしっかりと手を握り合った二人ではない。
固い決意で自分に婚約破棄を願い出た
――自分だ。
もちろん自分の愚かさではなく、浅はかさでもない。
いまさら自分を嘆くような殊勝な人間ではないのだ、アリシアは。
ならば「自分」とは何を指すのか。
答えは一つ。
アリシア
病弱を超え、不安定な時期を過ごし、自分と他者とに折り合いをつけながら、長い間必死で育ててきたアリシアという立派な木。
完璧と謳われる王国きっての才女。
平凡な自分が必死に取り繕って作り上げた虚像。
何をやっても平均平凡、それが本当の自分だというのに。
そう言われるまで、そう言われる程になるまで、積み重ねてきたものが何か、彼らにわかるだろうか。
――自分よりずっと優秀な彼らに。
血の滲むような努力だ。
美しい白鳥が水面下で必死に水を掻くように、アリシアは血反吐を吐く思いでここまで泳いできた。
何度も何度も、自由を求める自分を殺してきた。
前世の記憶のせいで、ルールに縛られた貴族社会は人の何倍も苦痛だった。
アリシアの異質さが齎す苦悩。
それは誰にも理解できないもの。
嘆いているわけではない。
いまや人々が敬意と憧憬をもって仰ぐ「アリシア像」。
それを見るたび、それを聞くたび、広がるのは満足感。
メッキを何層も塗り重ね、ヒビの一つも見当たらない完璧なフォルム。
それは誰にも気付かせない程に美しく、本物にも負けない輝きを放つ。
アリシアの努力も、苦悩も、こうして報われた。
今となっては、胸を張れる成果。
アリシアは、アリシアの誇りだった。
だから、それを壊されるのだけは我慢ならない。
この名を傷つける事。
それだけがアリシアの絶対に許せない事だった。
「でも、たった一つです」
アリシアはにっこりと笑う。
柔らかな雰囲気を持つリリィには及ばずとも、できるだけ優しく見えるように。
――脅しを込めて。
『たった一つ』
つまり、交渉も譲歩も不可。
それは成し遂げなければならない最低条件なのだと、きっと伝わったことだろう。
アリシアが、いまユージンの隣にいるリリィという少女がユージンと惹かれ合っているという事を知ったのはつい最近の事だった。
平民出身だが希少な才を見出され学園に入学を許された、見目も麗しい、神に愛された娘。
それがリリィ。
平民と貴族では生活習慣も、常識も、大いに違う。
アリシアがリリィを知ったきっかけもまさしくそれ。
目を止めた時には、その齟齬が反発を招き貴族の子息息女たちに目の敵にされていた。
平均平凡な自分の前世を思えば、注意の一つもしてやりたくなるのが人の常。
他の娘たちのように彼女の態度に反感など抱けようはずもないが、『教え』の優しさくらいは知っているつもりだった。
槍玉にあげる前に言葉で話す。
できれば他者にもそう在って欲しいと、対話の重要性を示すためアリシアは行動していた。
貴族の模範として、きちんとリリィに注意できた。
……と、思う。
陰険な虐めと思われてはいけないから、人の目がある場所を選び、相手のプレッシャーにならないように取り巻きに口は挟ませなかった。
いけないことはいけない。
駄目なことは駄目。
なぜそんなルールなのか、知れば頭にも入りやすいだろうと滔々と貴族の歴史を語ったこともある。
誰もかれも平等という態度を見せながらも、彼女に肩入れしていた事実は否めない。
だって、リリィは努力家だった。
何事にも一生懸命で、諦めることを知らない。
努力を知るものは努力をする者に敬意を持つもの。
アリシアが彼女に好感を抱くな、という方が無理な話なのだ。
アリシアがそうなのだから、リリィに近づく立派な親を持った他の面々も同じだったのではないだろうか。
それが揃いも揃って顔のいい、人気が高い男連中ばかりだったというのは、どちらかというとリリィの不運だろう。
逆ハーレムのような彼女の状況が気に食わない者も大勢いる、というのは、まあ……ある意味セオリー通り。
立派な親は親であって、人気者の彼ら自身ではない。
アリシアからみれば、彼らは親のように立派とはとてもではないが言えなかった。
残念ながら闇雲にリリィに構ってくる、ちやほやされることに慣れてきた男どもは、他人の感情には酷く疎く、その辺りの空気を読まない奴らばかり。
やっかみが強くなっているのはどう考えても彼らのせいで、努力家リリィのせいではない。
度々見かけるのだ。
互いにぬけがけを牽制し合った末に複数人で、授業に急ぐ彼女の行く手を塞ぎ足を止めさせたり。
予習復習に忙しい彼女の手を止めて、無理矢理食堂で食事の供をさせたり。
困り顔の彼女を見れば、迷惑なのは一目瞭然だというのに。
仕方なしにアリシアは毎回律儀に彼女に声をかけていた。
「リリィ様、授業に遅れたらちゃんと彼らのせいだと先生にお伝えしておきますわ」
「まあ、お勉強もせずにのん気にお食事? 随分と余裕です事」
もちろん彼らに対する嫌味である。
面倒をかけるなという牽制である。
リリィには伝わっていたと思うのだ。
その瞳には申し訳なさと感謝とが浮かんでいたから。
……たぶん、きっと。
それらの行動はアリシアとしてはまったくの親切。
かつての自分を彷彿とさせて放っておけなかったということもあって、目をかけているつもりだった。
――取り巻きの一人にリリィとユージンの仲が急接近しているのだと教えられるまで。
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