いつか夢見た自由の前に
森村直也
いつか夢見た自由の前に
一日目。
じりんじりんと耳元で急かす目覚ましを叩き止めて慌てて身を起こせば、ぐらりと世界が回った。1DKの狭い部屋の中、手を伸ばして掴んだ体温計は三八度を超えてとまった。
観念してTVをつけて、布団を頭から被りなおす。再び目を閉じ、目を開けたら勤務時間を迎えていた。職場への連絡と持ち帰っていたデータの転送を、気を抜けばさっくり遠ざかる視界の中でどうにか終えると、今度こそゆっくりと不安も心配も感じる間もなく布団の中へ倒れ込んだ。
次に目覚めた時には、TVは賑やかな午後のワイドショーを映し出していた。さらに熱は上がったようだったが、いつまでも寝続けているわけには行かない。まず、医者に行く。できれば熱冷ましの注射を打ってもらい、明日は出社したかった。医者に行くにも体力がいるものだと生涯何度目かの感想を抱き、徒歩3分の医院のドアをノックする。
いくつも設けられた通院用の入り口を潜る。瞬きするほどのタイムラグで目の前のタッチディスプレイに文字が並んだ。
――山本孝太様 男 三一歳 現在の熱は三八・五度 初診――
俺はOKのボタンを押す。それだけの仕草すらおっくうだった。
ディスプレイ脇を進んで指示された通り待合室に進む。平日昼間なんてどんなものかと思ってみれば、じーさんばーさんの集会場に泣きわめく子供が散っていた。目立たないが同年代も見られないことはない。仕事を休まざる得なかった不安とも後悔とも焦りとも取れる影がうつむいた横顔に例外なく張り付いていた。
待つこと暫し。診断は流行性感冒。熱が下がるまでは出歩くなと念を押される。
二時間待ちに十分の診察で無罪放免。薬を薬局で受け取ってお帰り下さいと厄介払い。
待合室のどこか静かな喧騒を横切って、広い出口へ向かっていく。熱などの初期診断、ID判定、治療費用の引き落としが自動化されても、ものの受け渡しは自分の足で行わなくてはならない。
薬は別棟の薬局から出る。さらに上がった熱に朦朧としてきた頭を抱えつつ、足を引きずって自動ドアの前へ立つ。ドアのボタンに触れれば、無機質な文字が行き先を指示する。
――山本孝太様、三番窓口へお進み下さい――
実は俺は見えないベルトコンベアに乗せられているだけではないか。熱のせいか背筋に薄ら寒い違和感を覚える。日常は感じている暇など無いが、エアポケットにはまりこんだような一瞬、ふっと浮かぶ感覚だった、この病院に来れば、提携するこの薬局で薬を受け取ることになる。しかし、処方箋を受け付ける薬局なら何処でも薬を受け取ることができ、べつの薬局に行っても同じように案内されるに決まっていた。別に操られているわけではない、のに。
指示通りの窓口へ進めばたいして待つこともなく小袋を渡される。最後の確認がてら書類に眼を落としたままで薬剤師が説明を始める。
「山本様はとくにアレルギーをお持ちではないようですので、こちらの一般的な薬を処方しておきます。睡眠薬などの併用は避けてください。……あ、ご自宅に在庫はないようですね。それと、こちらの錠剤は熱冷ましになります。熱が下がってきたら服用されなくても問題ありません。ウィルス用の薬はこちらになります。今日を含めて四日分処方しておきますので、こちらは全て飲みきってください。それから……」
形ばかりの説明を聞き流し、薬局を後にする。帰宅途中に寄り道をし、どうにか回っていた頭でレトルト食品とゼリー状食材を買いこんだ。
二日目。
会社への連絡の他は、ほぼ寝て過ごした。朝、昼、晩にレトルト食品を薬のためだけに飲み込む以外は、汗で絞れそうなシャツを替えることすらしなかった。そう言えば、携帯電話にメールが入っていた気がする。確かめることもしなかった。
三日目。
落ち着いてきたとはいえ、まだ三七度を超えていた。ようやくシャツを取り替え、熱のせいと言うより栄養不足でくらくらする視界に外食を決めこむ。歩いて二分のファミレスにピークを外して入れば、待つこともなく禁煙席に通された。案内した店員はまだ若い。知らない顔だった。
「ご注文はそちらのパネルでお願いします。操作方法は……」
「うん。大丈夫」
「では」
何かあったらお呼び下さい、とは言わない。全てパネルへ入力するのだ。店員が去ってパネルへ向きなおる。画面を押せば、俺の好きないつものメニューの他に、お粥やうどんなどのさっぱりメニューも並んでいた。探すまでもなくお粥を選ぶ。オプションで溶き卵を追加した。
メニューを待つ間、ようやく携帯電話を開いた。目下の彼女からの素っ気ないメールは、終末の予定のキャンセルを伝えるものだった。リリース前に問題が起きたのだという。週末は出勤が決まったようだ。今頃は携帯電話を開く余裕もなく画面に向かい、鬼のようにキーボードを叩いているのだろう。似たような職種だから、痛いほどよく分かった。返信を出そうとして、止めた。着信音でさえ煩わしいかも知れない。そしてなにより細かいボタン操作をしたくなかった。
先ほどとは違う店員が持ってきた卵粥を胃に納めると、ようやくくらくらが止まった。血が戻ってきた気がして、三日ぶりに落ち着いた。自宅へ戻り、数日ぶりにマシンを起動する。まだ出社はできないが、状況は気になった。
少し面倒くさい機能の検討途中だった。本当なら、初日に資料を作ってしまい、昨日レビューし、明日の打ち合わせに提出する予定だった。果たして間に合うのか。サーバへのアクセスを待ちながら、間に合わなかった場合のリカバリを試算する。次回の打ち合わせは一週間後。しかし、その時期には設計書を作成していなければならない。薬の効きも考えると、明日もまだ出社は厳しいだろう。設計書を遅らせると、製造(プログラミング)担当から悲鳴が上がる。他の機能を先に回して三日遅れでいけるか……?
サーバを一回りし、回線を切断した。マシンを停止させ、そのまま布団に潜り込んだ。
少し熱が上がったろうか。体温計を銜える。計り終える前に眼を閉じた。
心配していた仕事は既に終わっていた。俺の替わりに入った担当は、入社三年目の後輩だった。
四日目。
熱は下がっていた。だるいのは寝過ぎだろうか。感冒用の薬はもう一日分出ていた。大丈夫だと思いつつ、念のためと自分に言い聞かせて休むことにした。幸い有給は余っていた。
寝ているのにもあきて、TVをつける。音だけでなく、意味もようやく頭に入ってきた気がする。放火事件、国会議決、裁判の行方、スポーツ情報、季節の話題に天気予報。世の中は動いていた。俺が寝ていても関係なく。動き続けていた。
会社からも彼女からも特に連絡はなかった。
五日目。
予定していた薬も全て飲み終わった。今日は土曜日。職場は休みで、彼女は修羅場のまっただ中。
俺は小さなカバンを一つ掴んで、ハンディマシンに情報エージェントソフトを起動した。病院や薬局での俺の情報も(熱だけはセンサーでその場で計測していたはずだ)レストランでの喫煙の有無、メニュー表示の優先順位も、俺という情報をエージェントソフトが解釈した結果だった。
情報に意味づけをし、有意な検索を行うソフトウェア。情報エージェントソフトの世間での一般的な認識だ。しかし仕事で、たまたま仕様に触れる機会のあった俺は、エージェントソフトの違う可能性にも気付いていた。
悪戯心で作った拡張機能を呼び出し、短いコマンドを入力する。
――ステラ起動します。
柔らかい女性タイプの音声出力を耳にし、体が軽くなるような気がした。小さなカバンを提げて、家を出た。
*
存在するとはどういう事だろう。現実に生きていることか。
では、例えば、何日も何ヶ月も何年も幽閉され忘れられたような人は存在すると言えるのだろうか。ある意味で「存在する」に間違いはない。けれど、ある意味では、「存在しない」に等しい。誰も知らず誰も気にされない状態は、限りなく「いない」に近しい。
現実に生きて、普通生活を送る場合であっても、「存在しない」に近い状況もあるだろう。「空気のような」とか形容される、周囲に影響を与えない行動をする場合だ。性格にも因るだろう。
例えば同僚の大滝など、どれだけ静かにしていても「いない」と錯覚することはない。文字通り存在自体が煩いのだ。その行動は落ち着かず、いつもどこかしらが動いている。黙っていることが少ない。会議中は言わずもがな。デスクワーク中ですら、独り言、愚痴、相談、提案、てんこ盛りで、口が休まる暇もない。
対して牧山先輩はまさに「空気のような」人だ。いつも穏やかに笑み、会議中も自ら手を挙げることはほとんど無い。しかし、判断に迷った時に相談に行けば必ず道を示してくれる。間違った方向に進みそうな時には恐る恐る手を挙げて、思っても見なかったリスクを上げる。どれだけ「空気のような」人であっても、彼女の存在を無視することはできない。
世間には無力と言われるニート、ひきこもりも、単体では居ても居なくても判らない存在ではあるが、集団ともなれば社会現象になる。彼等とて、「いない」わけではない。
では、死んでしまえば「存在しない」ことになるのか。死んだからと言って、即「存在が」無くなるわけでもないだろう。未だに昭和の歌姫、美空ひばりの名は大きな影響力を持つし、もっと時代をさかのぼっても、その子孫の行方すら知れなくなっていても、偉人の影響力は侮れない。
家を出た俺は手始めにファミレスへ足を向けた。入り口を潜ると素早く困惑顔の若い店員が出てきた。先日と同じ店員かも知れないし、そうでないかも知れなかった。
向こうも似たような感想を持ったろう。入れ替わりが激しく同じユニフォーム、均一のマニュアル対応では、お互い顔を覚えるなんてなかなかできることではない。店員はおずおずと口を開いた。
「いらっしゃいませ。えぇと、初めてのご来店ですね。おタバコはお吸いになりますか?」
俺は首を横に振った。内心してやったりと思いながら、口元の笑みを必至でかみ殺していた。案内される前に禁煙席へ足を出す。
「ご、ご注文の方法はおわかりですか」
慌てたような声に今度は縦に振った。空いた椅子に荷物を置き上着を引っかける。去っていく店員の背中があからさまに息を吐いて、今度こそ笑みが浮かんだ。
ディスプレイに向かえば、初めて眼にする画面が映し出されていた。用意はされるものの、まず眼にする機会がない、初期状態だ。成年、未成年の選択肢で成年を選択。肉料理、野菜料理、魚料理、軽食の選択肢で肉料理を選ぶ。セットメニュー、単品、定食の選択肢で定食を選び、ようやく見慣れたメニューが現れた。
食事を済ますと現金で支払う。また知らない店員が小銭を一つ一つ確かめながら、慣れない手つきでレジを打つ。釣りをしまいながらガラス扉を一歩出れば、ガラスを挟んでいてさえ、店員連中の騒ぎが聞こえるようだった。くくと声を立てて笑った。
荷物を持ち直すと、冷たい風に上着の前をかき合わせて、段の浅い階段を駆け下りる。そのまま地下鉄の駅へと足を向けた。少し、遠くまで足を伸ばそうと考えていた。まずは駅へ。温泉にでも向かうつもりだった。
改札のほとんどは生体認証有りの自動改札だ。それでも、隅の隅に切符の自動販売機は存在している。引き落としのための口座を持っていなかったり、借金がかさんでいる人などのためのものだと聞いたことがあった。通過する時にそんなものもあるなといつもぼんやり眺めていたが、自分がその前に立つことになるとは思ってもみなかった。やはり隅に追いやられた料金表で確認し、普段持ち歩かない財布を開く。人々の視線が何気なく俺の上を通過していく。
認証無しの無人改札を切符と共に抜け、人混みに紛れる。数分待って乗り込んだ快速の車内は、立つ人がちらほら出るほどには混んでいた。運良くドア横のシートに座り、何気なく広告を眺める。賑やかな週刊誌の向こう側に、しっとりと訴えかける観光地の広告が並んでいた。湯気に包まれた東北、砂丘美しい鳥取、椰子とシーブルーの沖縄、雪像立ち並ぶ北海道。
俺の横に座っていたのは若い女性だった。カバンのフチを掴んだ体制のまま俯いて、丁寧に整えた髪をカーテン代わりに、おそらく寝てしまっていた。通路を挟んで向かいのシートには、腕を組み眼を閉じた男性に、じっと手元の活字を追う学生風の男。誰も彼もが隣も前も興味なしとばかりに、己の世界に閉じこもっている。
きゃいきゃいと頭上を通過した声にちらりと視線をやれば、ドアの前を陣取る少女達がおしゃべりに夢中になっていた。押しだまりうつむくばかりの周りの様子など気にも止めない。今、彼女たちにあるのは一緒に遊びに向かう友人達と、彼女らに座を空けない邪魔者達と、目的地に向かっているという事実だけなのだろう。駅に止まるたびに辺りを見回し、ため息をついている。少女の一人と眼が合った。彼女は石ころでも見るように視線を通過させた。……合ったと思ったのは一瞬だった。
俺も彼等と同じだった。今も、聞こえないふりをしながら、見えていないふりをしながら、ただ視線を広告に向けている。ターミナル駅をすぎ特急に乗り換えても、それは同じだった。
予定していた温泉宿に着いたのは食事時間が始まってからだった。予約できないのには少し不便を感じたが、連休を来週に控え、スキーなどのオプションも付かない場所で、幸い部屋は空いていた。幾度か来たことのある宿だった。イマイチ見覚えのない女将は「こんな何にもない温泉にようこそ」とか、「神奈川のどの辺なんですか?」とか、「どんなお仕事をされてますの?」とか、「お疲れの方にはかえっていいかもしれませんね」とか、長いばかりの廊下を歩く間、宿泊カードに書かれた内容書かれない内容を取り混ぜながら、話しかけてきた。俺は、「あぁ」とか、「会社員です」とか、当たり障りのない言葉を返した。
「申し訳ありませんが、少し狭いお部屋しかご用意できなくて」
「でも、とても静かなお部屋なんですよ」
部屋に着くと襖を開け先に立った仲居が暖房の様子を確認する。
上がった俺に振り返り、やや視線を落として申し訳なさそうに口を開く。
「ご予約頂ければお部屋を暖めておけたのですけれど」
「急に温泉に入りたくなったものだから」
「おつかれなんですのね。ごゆっくりなさってくださいませ」
下がり際、上着を取るとハンガーをとって、入り口脇の物入れに納めた。その間もずっと、俺を正視しようとはしなかった。
「お食事になさいますか? 先にお風呂になさいますか? お食事の場合は三十分ほどお時間を頂くことになりますが」
「先に風呂に」
「わかりました。それでは、一時間ほど後にお食事の準備をいたしますね」
「お風呂は受付脇の階段を下がって、地下になりますので」
対して女将は三つ指つきながらも正面から俺を見る。いや、俺の顔の方を見る。どこか焦点が合っていないように感じた。俺を見ていながら、俺を見ていない。そんな違和感。
「それでは、ごゆっくり」
丁寧に、形ばかりは丁寧に頭を下げて、女将と女将同様見覚えのなさそうな仲居は出て行った。
通された六畳間は初めての部屋だった。旅館の裏山に面した見通しの良くない部屋で、どこか遠くから賑やかな声が聞こえてきた。空き部屋の中で一番静かな部屋を選んだのだろうと見当をつけた。中庭や表側にも部屋があるはずだったが、おそらく埋まっていたのだろう。日当たりはあまり良くないかもしれないと旅館の間取りと方角を考えながらぼんやり思う。しかし、文句をつける気はなかった。そんな部屋でもすでに料金を払ってある。俺の部屋だ。
予約もなく、今時珍しくカード払いでもなく、身元は怪しい。それでも金さえ払えば泊めてくれるというのだから、今時の旅館としては太っ腹な部類だろう。……たとえ彼ら旅館の人間にとって、俺が「山本孝太様」ではなく「萩の間様」であったとしても。
荷物を簡単に片づけ、仲居が置いたばかりの浴衣を取った。教えられなくても知っている大浴場を目指す。
スリッパが示す先客の数は3人。うち一人は俺の父親と言うには若く、兄弟と言うにはだいぶ年の離れたいわゆる『オヤジ』だった。ちょうど上がったところのようで、真っ赤な顔して剛胆に水気を拭っていた。夫婦で旅行か、家族旅行かも知れない。一人で旅に出るような雰囲気でもない。けれど、例えば、ちょっいと悪戯心を起こして萩の間で女将と仲居を待っていてもらったとして、果たして彼らは気付くのだろうか。
鼻歌を歌いながら浴衣を身につけるオヤジを横目に温泉へと向かう。硫黄臭い湯気の向こうに計算通り二人の男性がいた。一人は洗い場に。もう一人、湯治客のような雰囲気を纏ったじーさんがのんびり湯船に浸かっていた。使用中の蛇口から少し距離を取って腰をすえる。まずは飛沫が邪魔にならない程度に景気よく頭から湯を浴た。
ちょうど食事時間なのだろうか。洗い場の男性も程なく出て行き、温泉に浸かるじーさんと二人きりになった。身体を洗い終え、じーさんから最も遠い湯に浸かる。ぴちゃりぴちゃりじーさんが湯をかけ俺が立てるわずかな音と、こぽこぽ断続的に響く湯口の音だけが響いていた。
「兄さん、一人かい」
「え、はい」
少しだけ驚きながら、初めてまともにじーさんを見た。タオルを禿頭にのせ、赤い顔をしながらのんびり手足を伸ばしていた。
「こんな場所じゃぁ、仕事ってのはないだろ。彼女はいないのかい?」
「いえ、まぁ……」
典型的な温泉爺の様相を呈し始めた。どう答えよう。じーさんは目を閉じ、呟くような声で勝手に話し続ける。
「ダメだなぁ、良い若いもんが。女も家も食べ物もみんな当たり前にあると思っている。ワシが若い頃は……」
話は長くなりそうだった。
適当な切れ目で、のぼせそうな気配もないじーさまに密かに感嘆しつつあがった。準備の済んでいた晩飯をTVを肴に舌鼓をうちながら平らげると、もうすることがなかった。布団に潜り込む前に携帯電話、ポータブルマシンを確認したが、予想通りどこからも連絡はなかった。
旅館での二日目/三日目も何ごともなく進んだ。昼過ぎから、多くの家族連れが荷物を抱えて去っていく以外は、新たなチェックインもない。「山本孝太」ではなく、「萩の間」となった俺に、数種の中から無くなった茶菓子、食事につけたビール、朝食のバイキングで選択したメニューなど、少ないデータから好きそうなものを選んで女将や仲居が持ってくる。判ってはいたが、つきまとわれるうすら寒さを感じ続けた。
独り身の寂しさというか、日に何度無く足を運ぶ温泉には、いつ行ってもじーさんが湯船に浸かっていた。さすがに同じじーさんだとは思えないが、いつも同じ話題を振られた。「一人かい?」「彼女は」「ワシの若い頃には……」俺は同じように適当に流した。
三日目の夜、全員が退社しただろう頃を狙って一時だけツールを停止した。二四時間止まることのない会社サーバにアクセスする。倒れてから一週間が経過していた。気にならないわけはなかった。しかし、やはり心配は杞憂でしかなかった。さほどの遅延もなく作業は線表通り進んでいた。アクセスログを丁寧に消して接続を切った。再びステラを起動する。……もう停止しないだろうと何となく思った。
四日目、火曜日になって、土産を買うでもなく量の変わらない荷物で差額の会計を済ませた。「萩の間」様は消えた。俺はどこか涼しい身軽さで旅館を後にした。
*
鳥取に行こうと思ったのは広告のせいだろうか。ただ地平まで埋め尽くす砂丘が脳裏に浮かび離れなかった。名前入りの特急券は煩わしい。持ち合わせた現金にも限りはある。ローカル線の旅をのんびり楽しむことにする。
朝の時間帯は本数が少ない為か、学生の姿が目立った。昼頃になれば病院にでも通うのか老人やら小さな子供を連れた同世代の女性が多かった。夕方はまた学生。
どれもこれも同じ顔に見えた。学生は皆制服姿で、校則で決められたわけでもないだろうに同じ髪型、同じスカートの長さ、着くずした感じもよく似ていた。女子学生なら、違反だろうに化粧の感じも同じだ。東京より気持ち素朴な感じがするのがせめてもの救いか。同じに見えることに違いはないが。俺の学生の頃もあんなに見分けがつかなかっただろうか。校則に触れない範囲、触れても文句を言われないギリギリで、皆懸命に工夫していたように思う。けれど、世代の違う大人たちから見ればこんな感想を抱く程度のものだったのかもしれない。
老人も女性も幼児達も皆同じに見えた。老人達はみなどこかくたびれ、女性達も都会の華やかさはみえず、生活感を漂わせていた。いつもなら職場にいる時間だ。昼間なんてこんなものなのかもしれなかった。
電車の中は概ね静かで、やはりそれぞれがそれぞれの世界の中で過ごしていた。学生達はグループで盛り上がり、老人達は知り合いとのおしゃべりに興じ、女性達は子供に目を光らせるので一杯だった。一番奥の座席を占めた俺は誰にも気に止められることもなく、時折会話を盗み聞きしながら過ぎる駅舎を眼で追っていた。
電車は山間のトンネルを抜け、時折市街を過ぎりやがて海辺に出た。海辺でしばらく進めば奇跡的に穏やかな波の向こうで陽が沈もうとしていた。終点と放送される駅で降り、諦めてビジネスホテルに現金でチェックインした。
次の日の旅程も似たようなものだった。違うのは車窓の景色。海側に座を占めれば、ちっぽけな人間など一飲みしてしまいそうな波を湛えた日本海が何処までも広がっていた。
ステラは正常に稼働を続けていた。認証改札を使用できず、入る店入る店で怪訝な顔をされた。今、俺は「山本孝太」であり、「名無権兵衛」だった。洒落じゃない。本当に氏名初期値は誰の趣味だか知らないが、この名前だったのだ。余りにばかばかしくインパクトが強すぎて、仕事が変わってもなおこれだけは忘れることができない。
生体認証システム。生体情報を使った偽造不可能な認証システムだった。俺が生まれる前に開発されたシステムは、改良を重ね、汎用化され、いまやこの国の隅から隅までを覆い尽くしていた。
さらに、エージェントシステムが開発、汎用化されたのが二十年ほど前だっと記憶している。エージェントソフトは溢れる情報を自動的に有機的に扱うことを目的としたソフトウェアだった。ありとあらゆる情報を意味付けし、有意で扱いやすい情報へ変換する。例えば「山本孝太」ならば、『食嗜好:肉食。がっつり型。アルコールOK』『喫煙習慣なし』『購入薬剤記録:流行性感冒薬(在庫無し)、熱冷まし(残り2日分)』『定期券所持あり、区間情報あり』など。単一のデータベースに入りきらない情報であっても速やかな検索を可能にした。今では、医療、飲食、服飾、図書……様々な専門店がデータベースにアクセスし、個人に合わせたサービスを逐次行うまでに発展した。
そして人々は「覚える」事を忘れた。
エージェントソフトを使えば、欲しい情報は直ちに手に入る。言葉を一つ入力するだけで、辞書的な意味から、最近起きた関連ニュースまでなんでも手に入る。例えば、『金』というキーワードだけで、金相場から、貴金属関連会社の株価、デパートのイベント情報に、近所のスーパーの特売情報まで、ありとあらゆる情報の検索が可能だ。検索結果の優先順位は個人の嗜好で重み付される。(主婦ならば特売情報、サラリーマンなら株価、といった具合だ。もちろん、実際は個人単位でもっと細かく設定される)検索した情報の記憶も、過去情報の比較も思いのままだ。専用の家計簿ソフトも流行っていると聞く。
エージェントソフトの活用は個人単位に留まらない。生体個人認証と組み合わせれば、認証と共に趣味嗜好も付加情報として手に入る。人間の不確かな記憶に頼る意味など何処にもなくなってしまった。
友人をネットワーク上で見つけることも珍しくない。友人は文字記号と同意で、相手が高度AIであっても気付かないかも知れない。会社だって例外ではなかった。在宅勤務も可能になり、顔も知らない同僚が増えた。年に三度の集会で会い、声とのギャップに驚くこともしばしばだった。俺の勤務形態は社内勤務だったから、さすがに顔も知られていないと言うわけではない。しかし、所詮、規格物の歯車の一つでしかなかった。
ステラは「ステルス」。対象となる情報の意味づけを行わなくするソフトウェアだった。ウィルスソフトではない。あくまでも通常発信する情報のかわりに『意味づけを行わない』という信号を発信するだけで、停止すれば直ちに元の状態に戻るものだった。ファミレスで俺に適したメニューがでないのも、個人認証改札を通過できないわけもここにあった。ファミレスは俺という情報を見つけられずに初期画面を映し出し、認証改札を通ろうとすれば、銀行口座からの引き落としができず入場を断られるハメになっただろう。「俺」を指定した携帯電話も通じない。番号を直接入力するならまだしも、十五桁にものぼる番号を覚えている人はそうはいまい。
その証拠を見ているように彼女からも職場からも連絡はない。そもそも連絡しようと考えたかどうかすら怪しい。もう一週間もすれば、俺なんて存在がいたことすら忘れてしまうのではないだろうか。朝覚えていた夢を朝食を済ませ出勤し仕事に追われる中ですっかり忘れてしまうように。それこそ「俺」など、記録の何処にもないのだから。
鳥取砂丘に着いた頃には、厚い雲の向こうから差し込む僅かな光も消えようとしていた。
電車を降り、タクシーをつかまえる。運転手の忠告をよそに適当な場所で降り、足元の湿った砂だけを見て砂丘を登った。白い息が風にながれる。風が強く、小雪が舞い始めていた。中国地方は暖かいイメージがあったが、想像とはまったく違っていた。
砂丘の山の一つに立ち、海を望んだ。白波で縁取られた荒い波が寄せては返し、雲の向こうまで続いていた。時間が悪いのか乱天が悪いのか、そもそも平日のこんな時間に観光客など寄りつかないのか、砂の他は俺一人立ちつくすばかりだった。
俺は自由だった。文字通り、何にも縛られない。行く先々で情報を取られ、蓄積され、いつの間にかできあがったデジタル社会の「俺」は消え、正真正銘ただここに立つ「俺」だけになった。自分の足で砂を踏みしめ自分の足で立っている。ただ、それだけの。
会社組織の歯車でもなく、仕事のないときの暇つぶし程度の彼氏でもなく、肉料理好きな常連でもなく、毎年ふらりと現れる常客でもなく。
自由だった。後ろ髪引かれるしがらみもない。何をするにも。何をしないにも。
例えば。
死ぬことも。
風に逆らって、一歩、踏みだした。
「……た!」
人の声を聞いた気がした。風が強い。声は風下……後から聞こえた。
「やい、山本孝太! ……寒いじゃないかっ!」
「え、なんで!?」
振り返った視線の下、砂に足を取られながらも、風を真正面から受けながらも、決して歩みを崩さない……ある意味男らしい影があった。態度は男らしくとも、本人の前で言ったなら右ストレートが飛んでくる。絶対に口が裂けても言えない。
「なんでじゃないわっ! 五日も行方不明になりやがってっ! 探しただろうが!」
目下の彼女、玉野井塚志摩だった。寒くはないかと周囲に言われながらもにこやかに大丈夫だと言い放つ冬物とは思えないトレンチコートをばさばさとはためかせ、出勤途中に寄りましたといわんばかりのビジネススーツに身を包み、足元はなんとヒールの高いブーツだった。小脇に抱えるカバンは、これまた出勤用のもの。
「具合が悪いなら具合が悪いと言えばいいだろう!? あたしだってチームの面子だって鬼じゃないわ! 一時間早上がりして見舞うくらいできるわ!」
「あ、あぁ、悪かったよ、でも忙しかったんだろ?」
「病人がそんなこと気にするんじゃない! それに……」
白い息が絶えず溢れては流れるその靴で砂はきついだろう。けれど志摩は歩みを止めない。
「昨日リリースしたさ。おかげさまでね!」
「そう。お疲れさま」
「で!?」
「え?」
志摩はもう、その形相が判るほども近くまで登ってきていた。正直……逃げたかった。
「なんで行方不明になろうと思ったわけ!?」
「え、いや……なんとなく?」
「何となくで警察要るか! あんたの職場もパニックだったんだからね!?」
耳を疑った。俺の職場が? 仕事の進み具合は確認済みだ。俺がいなくなっても、俺一人いなくたってちゃんと進んでいた。確かに一人欠けるのだからパワーは多少減るだろう。しかしそれが決定打になるわけじゃない。そこまで体力のないチームだとは思えない。俺がいなくても、影響なんてあるはずが……。
右ストレート。避ける暇もなかった。よろけながら志摩を見れば、真っ赤な顔で力一杯眉をつり上げていた。……この上もなく、怒っていた。
「ばっかじゃないの!? アンタ、何様!? 山本様じゃないの!? 山本孝太様じゃないの!?」
この上もなく怒って、くりくりと大きな目にぶわりと涙が盛り上がった。
「何処探しても出てこないし、電話通じないし、何処に問い合わせてもそんな人物いないって言われるし。ようやく職場に電話かけて、先週から休んでるって言われて……」
つつと盛り上がった涙が、風に攫われて頬を流れる。柔らかそうな頬に筋が生まれた。
「心配、したんだから。本当にいなかったんじゃないかって、わかんなくなったりしたんだから。でも、やっぱり、心配だったんだから」
一度零れれば、堰が崩れたように後から後から盛り上がり零れた。ハンカチも使わず、手の甲で乱暴に拭う志摩を、遂に抱きよせた。
負け、だった。
「あ……んたの考えてること何て、お、お見通しなんだか、ら。じょ……情報がなくなったって、仕事も、アタシも、なかったこと、何て、できないんだか、ら」
悲鳴のような声を聞きながら、安心する自分が、いた。
「ここにいる。それだけじゃ不満なの!?」
「……ごめん」
うわぁっと、最後に声を上げて、志摩は俺の肩で泣き続けた。
*
「消えたいなら、何処に行きたいかなんて言ってちゃだめだからね。」
帰りの飛行機の中で志摩は呟いた。
「それと、帰ったら玉野井塚になってもらうからね。家族ができればそんな馬鹿なこと考えないでしょう?」
「だから、婿養子は嫌だって、何度も言ってるだろ」
「問答無用。こんなヤツ、野放しになんかしておけるわけがないでしょうが」
怒ったような口調で、志摩は続ける。
「名字替えて引っ越して一緒に暮らして家族もう一人増えたりしたら、『俺じゃなくても』なんて甘っちょろいこと言ってられないでしょう? 玉野井塚孝太としてがんじがらめにしてやるんだから」
真っ直ぐ前を向いた頬が、ほんのり色付いていた。俺はといえば、がんじがらめも悪くないかなとその頬を見て、思った。
いつか夢見た自由の前に 森村直也 @hpjhal
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