9     小さな望み

 翌日も、翌々日も、モナルダはビオラとパンジーの元を訪れた。


 表通りから少し入った場所にある宿屋と、ビオラの家とはそんなに遠くない。町で必要な物を買って行き、三人でずっと家の中で静かに過ごすことが多かった。特別に何かするでもなく、他愛もない話をしたり、パンジーが持ち込んだ手仕事を見るともなく見ていたり。あの日以来、誰も病の話はしなかった。穏やかで、のんびりとして、仕事らしい仕事もしない、お気楽にも思えるような日々だった。


 ビオラの様子も大きな変わりはないようだった。彼女は三人の中で一番よく喋り、よく笑う。仕事で色々な人と会ってきたからだろうか、彼女の話は面白く、語り口も上手かった。その上聞き上手で、話すのが得意とは言えないパンジーやモナルダも楽しく様々なことを話してしまっていた。何より彼女がいるだけで辺りが明るくなるような錯覚さえ起こすのだ。


 時折激しい痛みに襲われることと、疲れやすいことを除けば、その身を病が蝕んでいるとは思えないほどだった。


 出会ってから四日目の朝。またビオラの家を訪ねたモナルダのノックに、応えがなかった。


「……?」


 少し身構えながらノブを回す。鍵はかかっておらず、あっさりと扉が開いた。鍵をかけ忘れて留守にしてしまったのか、それともまさか何事かあったのかと慎重に室内へ進むと、奥の寝室から微かな声が聞こえた。


(……歌?)


「ねんねこ、ねんね、虹の上……」


 どこか懐かしいような節回しの子守唄だった。穏やかでゆったりとした、優しい歌声は聞いていて心地よい。


「揺られて眠る、星の御子……」


 繰り返される短い言葉。低く流れる旋律。親から子供へ、老人から赤子へ、幾度となく歌い継がれてきた歌には、一体どれほどの思いが込められているのだろう。


 ベッドの傍ら、横になったビオラの髪を撫でながらパンジーが歌っていた。少女のような顔で眠るビオラを見つめるパンジーの瞳は、その歌声と同じくらい優しさに満ちている。年の変わらない友人同士だと知っているはずなのに、今だけは、まるで幼い少女と愛情に満ちた母親とが寄り添っているように見える……そんな、不思議な光景だった。


「ねんねこ、ねんね……」


 気付けばモナルダも、その光景を見つめながら歌に聞き入っていた。


 やがて、歌が途切れた。そのままビオラの髪を撫で続けるパンジーの様子を伺いながら、モナルダは遠慮がちに寝室の扉を軽く叩いた。


「ま、魔法使いさん! やだ、いつからそこにいたんですかっ」


「ついさっき。表もノックしたけど、気付かなかったんだね」


 恥ずかしさに顔を赤らめるパンジーはすっかりいつもの様子で、先程の「母親」の表情はどこかへ消えてしまっていた。くすくすと笑うモナルダの背中を照れたパンジーが追い立てるようにして、二人は居間へと場所を移す。


「ビオラは調子が良くないのかい?」


「ええ、今日はなんだか朝から起きるのも辛そうで、食も進まないようだったから、ベッドに戻したんです。……やっぱり、ほんの少しずつ悪くなっているみたい」


 眉間に皺を寄せて溜め息をつく。パンジーはモナルダの顔を見上げ、しばらく躊躇ってから、ぽつりと呟いた。


「実は、昨日、家に手紙を出してきたんです。こんなに長くなると思っていなかったから」


「そうか、そっちの心配もあったんだったね」


「ええ。夫はわたしにとってビオラがどんなに大切か分かってくれていて、今回もわたしがここへ来るのを許してくれました。でも、わたしの家の仕事があることに変わりはないし、娘もまだ小さいし、長く家を空けるのは怖いです。だから最初は、何かあったならビオラを村へ連れて帰ろうと思っていたんです。でも、ビオラが本当にそれを望むのか……分からなくなってしまって」


「そんなこと……ビオラ本人に聞いてみなけりゃ、分かるわけないじゃないか」


「本人に聞いたって、気を遣って本当のことを言ってくれないかもしれません。そもそも、来てと言われたわけでも、一緒にいてほしいと言われたわけでもないし、わたしは勝手にこうしてるだけ。ビオラの所為にしちゃダメですよね」


 茶化すように笑顔を作ってみせるパンジー。モナルダは返事の代わりに、ひとつ溜め息をついた。


「あんたたち……実は似た者同士なんじゃないのかい」


「え? そ、そうですか? そんなこと、初めて言われました」


(しかも、自覚がないのかい。こりゃあ厄介だね……まあ、私が口を出すことじゃないか)


 きょとんとした表情で自分を見上げるパンジーに、モナルダは呆れてただ苦笑するしかなかった。


「……まあ、ビオラ本人にちゃんと聞くのか、このまま続けるのか、それはあんた次第だけどね。どちらにせよ、自分がどうしたいのかはしっかり持っておいた方が良いと思うよ。相手がどうしてほしいのかとは別のものとして、ね」


「自分が、どうしたいのか……」


「そう。相手の望みを聞き入れるのか聞き入れないのか、もしくは妥協を探るのか、最後に決めるのは自分だ。相手にどうしろと命令されるわけじゃない。あんたたちはお互いに命令なんかしないだろうし、してほしいと言われたって嫌だろう。立場が違っても、そこは二人とも同じはずだよ」


 モナルダの言葉は、パンジーにとってよほど衝撃的だったようだ。目を見開き、口をぽかんと開けて、しばらくモナルダを見つめたまま微動だにしなかった。


「……それは、確かに魔法使いさんの言う通りかもしれません」


 パンジーは何度か頷きながら、長いことじっと考え込んでいた。


「わたしのしたいこと……ビオラの望みを一番にと思っていましたけど、もし、ビオラが本心からわたしに離れてほしいと望んでいるとしたら……やっぱり、素直には聞けないかもしれません。だからこそ、もし本当に離れてほしいと言われたらと思うと、怖いです」


「あんたは、ビオラが本心からそう言うと、本当に思っているのかい?」


「……」


 考え込むパンジーの頭をぽんと撫でて、モナルダは微笑んだ。さて、と少し勢いをつけて立ち上がり、自分が先程持ってきた荷物を開け始める。


「ちょっと台所を借りるよ。今日は大通りの屋台に掘り出し物の薬草が出ていてね、買ってきてみたんだ。これを入れて、野菜のスープでも煮てみよう。これならビオラも少しは食べられるかもしれない」


「あ……お手伝いします」


「ありがとう、頼むよ」


 さっと立ち上がったパンジーに野菜を手渡す。食材を洗い、固いものは剥き、食べやすく切り分ける。二人とも普段から慣れているだけに手際よく、黙々と作業を続けた。それらを鍋に入れて火にかけ、手が空いたところで、パンジーは唐突にぽつりと呟いた。


「魔法使いさんは、いつまでいてくれるんですか?」


「そうだね……私の役目が終わるまで、かな」


 鍋の中身をゆっくりとかき混ぜながら、モナルダは穏やかな口調で答えた。


「あんたたちは強い。ビオラだけじゃない、あんただって強いよ。じきに私の力なんか必要なくなる。そうしたら、これはあんたたちの問題だ。私の出る幕じゃない」


 淡々と、当たり前の事のようにいうモナルダを、パンジーは悲しげに見上げた。


「そうでしょうか。……わたしは、魔法使いとしての役目がなくても、もっと魔法使いさんとお話ししてみたいです。友達みたいに」


「友達みたいに、か。それは嬉しいね」


 嬉しい、というモナルダの口調は、普段と変わらず穏やかであっさりとしたものだった。しかし、パンジーは気付いた。魔法使いの口元がわずかに緩み、赤い目もいっそう細められていることに。


 くつくつと煮え始めた鍋の中から、微かな匂いが部屋中に広がってきた。野菜の匂いの中に、少し馴染みのない薬草の癖が強い匂いもある。スープの匂いと、あたたかく優しい雰囲気は、寝室のドアの向こうにも届いているに違いなかった。

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