10     魔法使いの役目

 ビオラが寝室から出てきたのは、結局、日が一番高くまで昇った頃だった。


「おはよう。調子はどうだい」


「……あ、魔法使いさん。今朝よりは良いみたい。ありがとう」


 モナルダが手渡した水を美味しそうに飲み、ビオラは少し笑みを浮かべてみせた。歩いて椅子に座る様子も普通で、特に苦しそうでもふらついてもいないし、顔色も特別悪くはない。様子を確認してモナルダの表情も少し緩む。


「少しでも食べられるかい? スープを作ってあるんだ」


「ありがとう、いただくわ。パンジーは?」


「買い物。もう出かけてしばらく経つから、そろそろ帰ってくるんじゃないかな」


「そう。……今朝は、なんだかずいぶん心配かけちゃったみたい」


 肩を落とすビオラ。モナルダはスープの器をビオラの前に置きながら、小さく肩をすくめた。


「そんなに気にすることじゃないよ。調子が良くなって、パンジーもきっと安心するさ」


 ビオラは黙ったままスープを口に運んだ。


 朝より少し強くなった風が窓を揺らしている。雲間に見える太陽は、今にも隠れてしまいそうだった。冷え冷えとした空気の中、あたたかいスープの湯気だけが揺蕩い、ビオラの頬を撫でていく。


 スープだけの食事を終えた後。何か物思いに耽っている様子だったビオラは、ふっと顔を上げ、モナルダに声をかけた。


「ねえ、魔法使いさんって、恋人いるの?」


「なっ……何を唐突に。いないよ。いるわけないだろう」


 思わず動揺して声が裏返ったモナルダに、ビオラはくすりと笑った。


「あら、なんで?」


「なんでって……そりゃ、私は魔法使いだからね。普通の人と違う。恋人だの、夫婦だのというのとは、縁がないものだよ」


「でも、恋ができないとか、してはいけないだとかいう決まりはないのでしょう?」


 少女のようにキラキラした瞳で問うビオラに、モナルダは苦笑するしかなかった。


「決まりなんかないさ。けど、あいにく私には恋だなんてやって来なかった、ってだけさ」


「そうなの。恋人がほしいと思ったことは?」


「そういえば思ったことはなかったね。この道を選んでからは、普通の人のように家族を持って、子供を生んで……なんて考えたこともないよ。家族というか、同居人ならいるからね。私は魔法使いとして生きていければ、それで充分だ」


「……そう。強いのね、魔法使いさんは」


 ビオラは目を伏せ、重く長い溜め息をついた。


「あたしはダメ。寂しくって、心細くて、とても一人でなんて生きていけない。この町に出て来たばかりの頃はパンジーにたくさん手紙を書いたわ。こっちでも友達はできたけど、あんなにずっと一緒にいられる人っていなくて、やっぱりパンジーはすごかったんだと気付いたこともあった。……一年くらい前にね、パンジーと同じくらい一緒にいて居心地が良い人と出会ったの。あたし、夢を叶えてこの町で暮らせてとても幸せだったけど、その人とならこれからもっと幸せになるって、そう思ったの」


 再び重い溜め息をつく、その亜麻色の瞳は濡れていた。


「でも、治らない病だって分かって、その人とはお別れしちゃった。我が儘であたしに縛りつけることはできないと思ったし、彼もそれでいいって言ってくれた。……それなのに、あたしが選んだことなのに、辛くて、寂しくて寂しくて……気付いたら、またパンジーに手紙を書いてた」


 頬を濡らしながら話し続けるビオラを、モナルダは止めようとはせず、ただ黙って見守っていた。


「パンジーにはパンジーの人生がある。あの子には家族もあるから、あたしのものじゃないから、甘えちゃダメだって……そう決めて、一人で町に出てきたはずなのに。また結局甘えてる。……本当はパンジーが困ってること、今だって一緒にいるか迷ってること、分かってる。けど、困ってることに気付かないふりしてたの。あたし、酷い奴よね」


 言葉を切って大きくしゃくり上げるビオラに、モナルダはやはり黙ったままタオルを差し出した。ビオラが顔を拭い、彼女の嗚咽も収まるまで、モナルダはただビオラの頭に手を置いたまま待っていた。


「……私は」


 やがて、モナルダは独り言のように呟いた。


「私は、ただのしがない魔法使いさ。魔法は奇跡じゃないし、魔法使いは万能じゃない。人よりちょっとばかり精霊と魂の世界に詳しいだけだ。人の心のことは詳しくない、あんたの方が詳しいくらいさ。だけどね、私にも分かることがある」


 赤い瞳を細める。じっと見つめて続きを待つビオラに、魔法使いは微笑んだ。


「あんたが何を言っても、どうするかを最後に決めるのはパンジーだ。あの子にもそれは分かってる。お互い、相手に命令も強制もしないし相手が自分にそうしないのも分かってるんだろう。だったら、言いたいことは伝えた方が良いんじゃないかい」


「……」


 ビオラは、魔法使いをじっと見つめたまま、暫し考え込んでいるようだった。


「……そう、ね。そうかもしれない」


 溜め息と共に吐き出した。それと同時に、その細い肩がすとんと下がる。


「我が儘だなんて、遠慮するなんて、今更のことだったかも。……この病のこと、知ったらものすごく心配して、あたし自身以上に傷付いて……でも、きっとそれでも笑ってくれるのよね」


「そうだね、きっと」


 ビオラは涙を湛えたままの瞳で笑った。作った笑顔ではない、モナルダが初めて見る、穏やかな笑顔だった。


 玄関の扉が開く音がした。


「ただいま……あ、ビオラ、起きられたのね。体調は大丈夫?」


 室内へと入ってきたパンジーをまっすぐに見つめて、ビオラは静かに頷いた。


「ありがとう、大丈夫よ。……あのね、パンジー、話したいことがあるの」


「話したいこと?」


 ビオラの真剣な表情に引き込まれるように、パンジーも真面目な顔でモナルダと入れ替わりに向かいの席につく。二人の声を背中に聞きながら、モナルダは気付かれないくらいそっと部屋を後にした。




 翌日の朝早く。モナルダは、空の荷車を引きながら、まだ人気のない町を歩いていた。夜は明けているものの、空には雲が立ち込めていて朝陽は拝めないようだ。やがてたどり着いたのは、表通りから少し離れた細い路地。そのうち一軒の扉の前で彼女は立ち止まり、腰の物入れから取り出した手紙をその扉の隙間から滑り込ませた。


(私の役目はおしまい。さよなら、お二人さん。……パンジー、落ち着いたら、もう一度会いに来ておくれ。話を聞かせてほしい)


 手紙だけを残して立ち去りかけたモナルダの足がふと止まった。扉に向き直り、胸元に下げていた守り石を取り出す。この扉の向こう、眠っているであろう二人を思いながら、石で何かの紋様を描くように木目の上を滑らせる。聞き取れないほどに微かに呟いていたのは、古い旋律だった。


 魔法使いの手の中で、守り石が淡く光を帯びた。


 紋様を描き終えた守り石を口元に近付け、ふうっと息を吹き掛ける。扉の上に紋様が浮かび上がり、赤く光る風が扉を抜け、ビオラたちの部屋を駆けていく。一瞬の後には紋様も光も跡形もなく消え去り、未だ微睡みの中に揺蕩う町だけが残されていた。


「……あんたたちに、精霊の守りがありますように」


 フードを深く被って、魔法使いは静かに歩き出した。町並みの向こう、遠くに鬱蒼と茂る木々が見える。その上の曇り空を仰いで、魔法使いは呟いた。


「ああ、今日は雪が降るね」

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