第42話 殿下の、それが戦う理由

 王宮に帰り、自分の部屋に入るとエニーが窓際の花瓶の花を代えていた。

 身長が足りなくて、必死に背伸びする背中を見て何だか心が落ち着いた。

 

「アルフ様! おかえりなさいませ」


 メイド服を身に纏った、短背矮躯の眼鏡を掛けた少女。

 その異常な知識量だけでなく、一つ一つの身の回りの世話も既に手慣れたものだった。


「ってどうしたんですか!? その右手!」


 右手を見ると、甲に何かで擦りむいたような傷があった。

 ヴァロンの喉に手を突っ込んだ時に、歯で傷つけたのだろう。

 

「手当をしないと!」


「いやこの程度、舐めていれば治るよ」


「いけません! こういう傷口から入る菌は本当に馬鹿に出来ないんですよ!」


 と言われた時には、右手が薬品の混じったガーゼに包まれていた。

 包帯を巻くエニーを見ながら、どこか感傷に浸る顔をして頷くアルフ。


「うん、懐かしいな」


「何がです?」


「ほら、君が初めてこの家に来た時、最初に僕の怪我をこうして治してもらった時があっただろう?」


「あ、あまりあの頃は不手際ばかりだったので……思い出すのも恥ずかしいです」


「最初はガーゼの巻き方、手取り足取りで姉さんに教えてもらっていたもんね」


 姉と同じ様に包帯に巻かれた右手を見て、小さく笑うアルフ。

 一方のエニーはこんな初歩的な事さえ出来なかった、と過去の自分を思い出して顔を逸らしてしまった。

 

「それよりも、どうされたんですか?」


「この傷の事かい?」


「それもですが、今日のアルフ様は何か疲れているような顔をしています」


 言われて、思わず自分で頬を抓ったり揉んだりして見る。

 

「僕はいつも通りだよ」


「……」


 上目遣いで、健気な子供の様に見上げてくる。

 妹の様に心配してくるエニーのこの視線を相手にすると、アルフも誤魔化しに苦労する。

 

「ちょっとヴァロンのした事が酷過ぎてね、ちょっと苛立っていた」


「……はい。あの人のせいで、沢山の命が奪われましたから」


 しかし疲弊の本当の理由はそこではないだろうと、納得しかねる様なエニーの口調だった。

 それでも命の惨禍に触れたせいか、伝染するようにエニーの顔にも陰りが出始める。

 

「思い出してしまいました。ハル様がお亡くなりになった時の事を」


 ハル。

 それが、アルフの実姉の名前である。

 同時にアルフと並ぶくらいに、エニーの恩人にして家族のような存在である。

 

『あなたの姉を殺したのは、エニー=ノットだ』

 

 脳裏に、忌々しいヴァロンの声が再生される。

 アルフはこの時点で姉であるハルの話をしたくなかった。

 エニーの両手を、ハルの血が覆う幻覚を見たからだ。

 

「そういえば俺は一つ魔術学院で部を創ろうと思ってな」


「あっ、陰陽道部ですね?」


「なんだ知っているのか」


「ハノンさんから聞いたのです。私もちゃんとアルフ様のお世話に差し支えない範囲で入ろうと思いまして」


「エニー、無理して君も陰陽道部に入る必要はない」


 アルフはエニーの意志を否定した。

 学院では一人の生徒として、自由に振舞って欲しかったからだ。

 だがエニーも相手がアルフだから従順に譲る、という事はしない。


「いいえ。私も陰陽道に興味があります。だからこそ、活動に尽力させていただきたく思っています」


 その反論に、アルフが折れた。


「……本当に君の意志ならいいが、僕の世話をする為、なんてやめてくれよ」


「それは再三言われていますので、ちゃんと認識しているつもりです」


 しかしアルフ自身、ほっとしている自分がいる事は口にしなかった。

 エニーをなるべく一人にしたくなかったからだ。

 ちゃんと目の届く範囲に、そばにいてほしかったからだ。

 

 それは付き人と主人という、冷たい関係で結ばれたものではない。

 最愛の妹を見る兄の様な、暖かい糸で繋がったものだ。

 

 しかし、アルフは知っている。

 この糸は、鎖と例える事も出来る事を。

 自由に振舞ってほしいと口では言っておきながら、つい、目の届く範囲に起きたがっている自分がいる事を。

 

 そして、アルフは分かっている。

 エニーが知らない、4年前の悲劇を。

 エニーは覚えていない、794プロジェクトで一体何があったのかを。

 エニーが記憶していない、ハルという家族の死の真実を。

 

 全て受け入れた上で、今日もアルフは一人で戦っている。

 794プロジェクトを、改造魔物キメラの悲劇を撲滅する為。

 ずっと自分の隣にいてくれる少女を、本当の意味で自由にするため。


「アルフ様……!?」


 まるで体を預ける様に、エニーに体を密着させる。

 当然エニーは心臓を鷲掴みにされたような顔をしながらも、まずはアルフの体に何かあったのではないかという思考にシフトする。

 

「お体の具合が優れないのですか!?」


 優しく、暖かく、少女の匂いがする。

 まるで世界に蠢く闇とか、潜む影とかを知らない太陽の様だ。

 全てを満喫しながら、瞳を閉じて返答する。


「大丈夫だ。エニー。君は何も知らなくていい」


「さ、さてはお戯れですか!?」


 遂にただのアルフの我儘である事を悟ると、エニーに体を引き剥がされた。

 紅潮しながらも、への字に口を尖らせて首を横に振る。

 

「いけません! 許嫁様だって既にいる身なのですよ!?」


「別に親同士が決めたことだし、まだ婚約している訳じゃないし、というか断るつもりだし」


「でも駄目です。許嫁様への裏切り行為にあたります」


「真面目だなぁ。大体僕ら、4年前までは一緒に風呂にだって入っていただろう?」


「む、昔の話ですよ! あ、ああ……一番思い出したくない事を……アルフ様ぁ、酷いです……」


 本当は王家の仕来りとしてやってはいけない事なのだが。

 悪戯好きだった姉が主導で、アルフとエニーが一緒に生まれたままの姿になって、三人で湯船につかった事を思い出した。

 そんな黒歴史を思い出して、遂にエニーが逃げ出す様に部屋から出ていった。

 その時の顔は林檎の様に、酷く真っ赤だ。

 四年前、湯船の中で上せた時のようで、すっかりアルフは笑顔になった。

 

「そうだ、エニー。このまま何も知らなくていい。君は、普通の女の子として生きていくんだ」



『――たわけが』


 心臓を踏み潰すような、魔王の様な声が聞こえた。


『お前は何のために戦っているのだ。来世の儂よ』


 後ろから聞こえた気がしたが、誰もいない。

 しかし確かに、まるで世界で一番近い場所に全てを滅ぼし、全てを統べる魔王の存在があったような幻覚があった。

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