第17話 スイレンと択一の共命鳥④
突然、アイリスの視界の端でゾフィアが立ち上がった。その小柄な上背を見上げる間もなく彼女は踵を返し、エレベーターへ向かって歩き出した。
アイリスが声を掛けようとしたところで、先にゾフィアが言を発した。
「三分間、ここを頼む。何かあったら任せたぞ」
それだけ言い残し、小さな影はエレベーターへと消えた。
ぐったりとしているシオンの頭をゾフィアはそっと触れたが、反射的に手を引いてしまった。表面は恐ろしいほどの熱を放っている。冷却装置もそろそろ限界を迎えているようだ。
約六千文字のコードを暗記することは、フォーチュンにとっては造作もない。どれだけ複雑な文字列であっても、『ワイズマン型』のメモリーはそれを完璧に記憶し、再現して見せることができる。
だが、そのような「完璧な記憶能力」を有しているのは、フォーチュン第六世代までだ。彼ら第七世代からは、そのような機能は意図的に排除されていた。表向きの理由は、人間特有の「曖昧な記憶力」を再現するため。
そして、目の前で息も絶え絶えに横たわる一体のフォーチュンは、その「曖昧な記憶力」を以って六千文字のデタラメにも見える文字列を暗記している。驚異的な集中力と精神力の合わせ技と形容する他ない。
デタラメにも見える文字列。
何だ、この違和感は。ゾフィアの頭の中で、何かの光景が蘇った。それが何なのか、すぐには分からない。
いや、思い出した。
デタラメなどではない。私は、この文字列が理解できる。
すべてが理解できるわけではない。だが、おおよその意味は掴むことができる。
だが、確証が無かった。ここで結論を出すことはできない。「真実」を確かめなければ。自分が最も信頼のおける方法で。
「しかし、そんなことがあり得るのか……」
気が付くと、何かを呟きながら足取りはエレベーターへ向かっていた。制限時間はあと三分。行って戻ってくる時間はないが、片道なら間に合う。
「三分間、ここを頼む。何かあったら任せたぞ」
『何か』が何を指すのか。言った本人にも予想はつかなかった。
この文字列から推測される事実が事実でないことを祈りながら、ゾフィアはエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターの扉をこじ開けるようにして外に出たゾフィアは、真っ先にその場所へ向かった。
ブレーカーが落ちないように非常灯以外の灯りを消した真っ暗な廊下を感覚だけで突き進み、目当ての扉に体当たりするように押し入った。
ほとんどの機器の電源が落とされたゾフィアのモニタールーム。彼女が『観測者』としての責務を果たすための空間。
換気扇が切られているため、空気が重たく澱んでいる。そんな空気を切り裂くようにして、ゾフィアは奥のモニターに歩み寄った。
電源を入れ、点灯したのは横に異様に長い大型モニター。部屋の横幅いっぱいに架けられた画面には、左端に地球を模した丸い図形と位置情報を表すピンが表示されていた。
ゾフィアの目的は画面の右端、アマノトリの位置情報を示す白い点だった。
手元のコンソールを操作し、画面の表示を変える。このような操作を行うことは、ゾフィア自身初めてだった。
画面が拡大し、アマノトリの点がズーム表示された。図形の読み込みに時間を取られ、ゾフィアは苛立たしげにボタンを連打する。あと三十五秒。大丈夫、まだ時間はある。
白い点は段階的にその大きさを増し、ぼやけた輪郭は徐々にその形を取り戻しつつあった。
そして、表示されたその結果を確認し、ゾフィアの疑念は確信へ変わった。
最大までズームされたアマノトリの点は、二つあった。
「……二機編成だったとはな」
すべてを理解したゾフィアは、机のマイクを乱暴に掴んだ。
ゾフィアが突然立ち去り、部屋にはアイリスが一人残された。
「こんな時にどこに行くのですか」そんなことを悠長に尋ねている時間もなかった。アイリスは俯いて奥歯を噛み締めた。
シオンの全身からは熱気が絶え間なく放出され、排熱装置のファンすら文字通り「焼け石に水」と大差無い状態だった。
シオンの頭のヘルメットに一文字ずつ着実に追加されてゆくコードは、すでに全体の六割を越えている。
コードの入力完了か、セキュリティの突破か、シオンの身体の限界か。どれが最初に訪れてもおかしくない状況だ。
シオンの発する熱で周囲の景色が揺らめく。あまりの高温にアイリスの意識も遠のきそうになった。
その意識を現実に引き戻したのは、リリィの声だった。
「シオンの様子がおかしい、何かが変だ!」
アイリスはとっさにシオンの方を見た。明らかに限界を超えて稼働しているはずだが、これはまだ想定の範囲内だ。「様子がおかしい」とは、どういう事だ?
コードも正常に入力されている……。周囲の熱気を手で振り払い、アイリスはヘルメットのディスプレイに顔を近づけた。
「これ、どうなってるの……」
ディスプレイに表示されていたのは、アルファベットでも数字でもない文字。そもそも文字なのかすら分からない無茶苦茶な線の組み合わせが着実に一つずつ入力されていた。
「リリィさん、ヌバタマのパスコードが……」
「パソコンを見ろ! 早く!」
アイリスの言葉には答えず、リリィが示したのはゾフィアが向かっていたパソコン。アイリスは駆け寄って確認した。シオンの稼働状況がモニタリングされているはずだ。
「そんな……」
「状況は!」リリィがしびれを切らしたように叫んだ。
アイリスは自分の頭で考えることを放棄したように、表示を掠れた声で読み上げた。
「オーバードライブ駆動率、一三五五%。大脳接続接合部温度、一八八℃」
リリィは一瞬言葉を失い、その異常な数値の理解に努めた。
「第七世代フォーチュンに可能なオーバードライブは七五〇%が限度だ! 耐熱性能も」
「でも……でもゾフィアさんが設定していたんじゃ……」
「何らかの不具合が生じたんだ。すぐにそいつを接続から切り離せ! このままでは焼き切れて完全に壊れるぞ!」
「でも、今切ってしまったら……」
「そんなこと言ってる場合か! 高温による身体への損傷は不可逆だ、そいつを失って得られる理想の世界を、お前は望むのか!」
リリィの荒々しい口調には、どこか冷静さすらあった。
「……残念だが、私たちの負けだ。あとは、人間側に制御を手渡すまでの時間稼ぎにしかならん」
「……!」
アイリスは情報過多で狂いそうになる頭を押さえ、シオンの前に跪いた。そして、背中に刺さっている大脳接続用ケーブルの固定ロックに手を伸ばす。
その手が泡立つような感覚で、アイリスはとっさに手を引いた。手の表皮の樹脂が破けて、黒く焦げた
「だめです! 温度が高すぎて触れない!」
「なら
アイリスはゾフィアの言葉を思い出した。シオンが意識を失って手を離した際に、機能を緊急停止できる安全装置があるはずだ。床に投げ出されたシオンの手を取り、その指を開こうとした。
しかし、その指は固く閉じられ、こじ開けることも叶わなかった。
「なぜ開かない! すでに意識は失っているはずだ!」
「で、でも、私の力では、まるで石みたいに……」
「お前の力でも無理って……、まさか」
「……リリィさん?」
「漏電だ、大脳接続のコードからシオンの身体に通電している可能性がある!」
通電による人工筋繊維の硬直。そこから先はアイリスでも考えがついた。
ならばとアイリスは大脳接続のコードに爪を立てた。破けたビニールの下には銅線が敷き詰められている。これを切断できれば……。
その表面に触れた瞬間、突然アイリスの目の前が真っ白になった。
急激に失われる五感の中で、自分の頭が床に叩きつけられる感触だけがやけに明瞭だった。
「……鹿野郎! 安直に通電部位に触れる奴がいるか!」
飛びかけたアイリスの意識に、リリィの声が遠く聞こえた。頭を押さえて立ち上がるが、身体が言うことを聞かない。口の中に焦げたような味がした。
「気を失っていたのは十秒ほどだ。だがもう時間がない」
アイリスの努力も虚しく、シオンへの接続負荷は増大し続けている。
「……私は、どうすればいいの……」
立ち上がる気力もないアイリスに、リリィは淡々と言葉を投げかけた。
「……『有事の際はぶん殴ってでも止めろ』。お前はそう言われたはずだ」
そうだ。ゾフィアから託された、唯一の役目。
「でも、シオンにそんなこと……私には」
「もうこの場に止められる奴はお前しかいないだろ! シオンだけじゃない、このまま接続を続ければ施設全体が逆にターゲットにされる!」
ゾフィアの帰りを待つ時間も、奇跡を信じて成功を待つ余裕も、もう無かった。
「私が……」
私が、止めないと。
アイリスは拳を握りしめて再びシオンに向き直った。
アイリスの視界は、赤く染まり始めていた。
「……やれ」
「ごめんなさい、シオン」
視界が開けた時、アイリスは地面に座り込んでいた。傍らにはすべての装置が取り払われたシオンがうつ伏せに倒れている。ぐちゃぐちゃの方向に曲がった指から、二つのスイッチが転がり落ちた。
背中のケーブルが射出され、部屋中のモニターが一斉にエラーを吐き出した。
立ち上がる気力もなく虚空を見つめるアイリスに、『異常発生』を示す天井の黄色い回転灯が光を投げかけている。
スピーカーが起動し、ゾフィアの声が重く響いた。
「施設内の全回線を遮断しろ! 今度はこちら側が攻撃に晒されるぞ。
……最初から、私たちに勝ち目は無かったんだ」
アイリスは声が聞こえていないかのように、反応一つ示さない。
「仰せのままに、ご主人様」
リリィの声だけが、いつもと変わらない調子だった。
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