第16話 スイレンと択一の共命鳥③
「第三隔壁突破! 中枢までの最短経路を五十一パターン提示。自動防衛機能のプログラムは力業で破壊しろ! オーバードライブ、設定目標値の二百パーセントに到達。パルス変動は許容数値内。第二次ブーストの発動を用意しろ!」
『非常』を警告するサイレンがけたたましく鳴り響いた。一部のモニターが赤い画面を映し出し、それぞれが耳障りな警告音を発している。
「一体何が……!」
「アマノトリのセキュリティ部隊だ。私たちを追ってる!」
ゾフィアの額に汗が浮かんでいる。キーボードを高速で打鍵する手の爪の間から血が滲んでいた。背後で苦痛に耐えるシオンを一瞥すると、アイリスの手からヘッドセットを捥ぎ取った。
「聞こえるか! いや、聞こえてなくてもいい。第二次ブーストを始めるぞ。二百パーセントから四七〇パーセントへ。……さらに二倍の刺激だ。意識は失うなよ」
言い終わるや否や、ゾフィアがエンターキーを叩いた。
痛みに耐えきれなくなったシオンが、叫び声を上げた。身体は感電したように大きく震え出し、冷却器からは湯気が立ち上っている。
精神の不安を煽るサイレンと悲痛な叫びに襲われ、アイリスは思わず耳を塞いだ。途絶えることのない叫喚と、隣にいながら何もすることができない自責の念で心が潰されそうになる。
「シオン、あなたは……」
突然、サイレンに重なるようにしてスピーカーから奇妙な音が聞こえてきた。
耳障りなようで、聞き馴染みのあるノイズ。アイリスは顔を上げ、周囲を見渡す。何故、彼女がここに……?
「手を止めるな! 死ぬ気で
「リリィさん! 一体どうやって……!」
アイリスは、姿の見えない彼女に向かって叫んだ。
「お前たちはヌバタマのアクセスを進めろ! セキュリティは私が食い止める!」
「第六隔壁を突破した! あと一枚だ!」
ゾフィアがサイレンの音にかき消されないように声を張り上げた。端末の処理熱で部屋の気温がかなり上がっているのか、ゾフィアの顔には汗が滝のように流れている。
部屋のモニターの内、数枚に流れる文字列が止まった。ゾフィアは口角を上げて笑みを浮かべた。
「セキュリティの阻止が上手く行ってる。今のうちに本体を叩くぞ」
重なり合うように響いていたサイレンが、一枚ずつ剥がれるように鳴り止んでいく。ゾフィアは荒い息を吐きながらデスクに齧りつき、シオンは椅子の上で細かく体を震わせながらぐったりしている。アイリスは、ただ見ていることしかできない。
最後のサイレンが鳴り止み、ゾフィアはデスクに手をついて肩で息をした。いつの間にか流れ出ていた鼻血が汗と混ざり合って、床に溜まりを作っている。
「全隔壁を開けた。後は
ゾフィアの目の前のモニターに、ウィンドウが一つ表示された。白い背景の端に、棒状のカーソルが点滅している。
「制御パスコードだ」
最後の砦か、とゾフィアが呟いた。白衣の袖で鼻血を拭うと、机を支えに立ち上がり、おぼつかない足取りでモニターを移動した。スーパーコンピュータ―『スターゲイザー』に解析の命令を入力し始めた。
「解析が完了するか、セキュリティに負けるか。最後の戦いだな」
そう呟くゾフィアを尻目に、アイリスは空いた席に近づき画面に顔を寄せた。
ヌバタマの制御パスコード。入力すべき文字列。どこかで聞いた覚えがある。
そうだ……思い出した。
アイリスは腕のホログラムを起動させた。電波は入らないが、メッセージのログは表示できた。ウィンドウをスクロールさせ、そのページを必死に目で追う。
「……これだ」
そのページで指を止めたアイリスは、すぐさま端末に向かった。
「おい、何やってる!」
キーボードの操作を始めたアイリスに向かって、ゾフィアは言った。
「カンナさんからのメッセージです! ヌバタマに関係があると思われるコードが送られてきたんです。おそらく、停止している機能を復活させるための物だろうって……」
ゾフィアが手を止め、駆け寄ってきた。アイリスは腕を傾けてコードを見せた。表示されているのは最初のメッセージにびっしりと書き込まれた百五十文字。全部で四十通に分かれていて、コードはおよそ六千文字に及ぶ。
「これが……そうなのか? 確かなんだな?」
「カンナさんの父親は、ヌバタマの管理を担う技師だそうです。カンナさんも技師になる勉強をしていて、一部は解読できるって……」
その時、スピーカーから音質の悪い声が聞こえた。
「セキュリティに防壁を破られる! 私一人ではもう限界だ!」
リリィの声だ。電波が悪いような途切れた声で、窮状を発している。
「思ったより早いじゃないか。……人類の本気だな」
ゾフィアは隣のパソコンを操作し、シオンに向かって叫んだ。
「最後のブーストだ。最終値、七百五十パーセントへ加速するぞ!」
画面に打ち込んだのは、『ワイズマン型』の安全装置で許容されている限界の七百五十の数値。
「そんな……。シオンはもう限界です!」
「だったら限界を超えるしかないだろう! まだ冷却装置もギリギリ生きている。この機会を逃したらヌバタマへの扉は永久に閉ざされる!」
「でも、このままでは本当に死んでしまいます!」
「お前が下らん事故にさえ巻き込まれなかったら、こいつ一人が背負う必要もなかった!」
ゾフィアは長い髪を振り乱すように、アイリスに詰め寄った。アイリスは思わず二、三歩後ずさったが、突然、ゾフィアは動きを止めた。
「……事故? そうだ。お前のその故障は、事故で瓦礫に当たった影響だと言ったな?」
「は? え、ええ。そうですが……」
「それは、ここから南西九キロ先の州立図書館の事故か?」
「はい、おそらく……。図書館が突然崩落して、それで……」
「何故だ?」
「へ?」
唐突な質問に、アイリスは思わず聞き返した。
「何故、あの建物は崩落した? お前たちが何かしたのか?」
「いえ……、おそらく、風化による自然崩落ではないかと」
「そんな訳があるか。何年前からある建物だと思ってるんだ。経年劣化による自然倒壊など、どう考えてもあり得ん!」
アイリスは何も言い返すことができなかった。ゾフィアの荒い息づかいが空間に響いた。
「それに、あそこには」
「早くコードの入力をしろ! あと五分が限界だ!」
ゾフィアの言葉を遮ってリリィが叫んだ。
「……お前はコードの入力を。私はこいつの最終ブーストを完了させる」ゾフィアは白衣を翻し、踵を返して端末の元へ向かった。
アイリスはきつく唇を噛み締め、ゾフィアに背を向けてモニターの前に座った。腕のディスプレイを表示し、キーボードを打ち始める。アイリスにとって全く意味の分からない文字列を一文字ずつ打ち込むことは、ひどく時間のかかる作業だ。その上、右腕のディスプレイを目の前で固定しているため、左手のみで打鍵するのは大幅な時間のロスになる。
アイリスの背後で、シオンの絶叫が聞こえた。続いて、パイプ椅子が床に転がり、何か重い物が床に落ちる音がした。
「振り返るな!」ゾフィアが背後から叱責する。アイリスは逸る気持ちを抑えつけて、コードの入力に集中した。
「最高値七五〇%まであと四分四〇秒。だが、足止めが追い付かない!」
「まだ終わらんのか!」
「今やってます!」
アイリスの細い指がキーボードの上で乱れ舞う。しかし、片手操作では思うように入力が進まない。
シオンの叫び声が途絶えた。重なり鳴るサイレンと、部屋中の機器の放熱器が立てる掠れた騒音だけが部屋を支配する。
「
アイリスはそんな声も耳に入らず、コードの入力に集中した。だが、手動での入力では途方もない時間がかかる。「手」を媒介する処理では、もはやこの戦いには追いつけないのだ。
特殊な記号の入力を求められ、アイリスの手が一瞬止まった。
「あと四分三十秒!」
ゾフィアの声に急かされるようにキーを指で探す。刹那の迷いも許されない、リミットはすぐそこに迫っていた。
しかし、キーを押そうとしたアイリスの手が止まった。
ウィンドウには、アイリスが入力していたコードの続きが流れ始めた。
「どうなってるの……?」
アイリスは手を止め、煌々と輝くモニターを凝視した。間違いない。カンナから送られてきた内容と完全に一致している。だが、操作もしていないのにどうして入力が続いている?
「おい、これは何だ?」
ゾフィアの声にアイリスは振り返った。シオンがゾフィアの膝の上でぐったりと仰向けに横たわっている。その頭に被せられたフルフェイスヘルメットには、白色の文字が列を成して流れていた。
アイリスは席を立ち、シオンの傍らに膝をついた。そして、ヘルメットに流れる白い文字を目で追い、その意味を解した。
「ヌバタマの、コードです」
何故シオンがこのコードを? と考える間もなく、うわごとのように何かを呟くシオンの言葉が耳に入った。
「まさかこいつ、暗記してるのか?」
「一晩で、六千文字を覚えたってこと……?」
間違いない。シオンはセキュリティを食い止める処理の余剰空間を利用して、頭に叩き込んだコードの暗唱を並行して行っていた。
「大脳接続とはいえ、この速度か……。だが、これならあと三分余りで入力が完了する。
「あと三分が限界!」リリィが間髪入れずに答えた。
「後はこいつと人類の戦い、か」
そう言ってシオンのヘルメットにそっと手を置くゾフィアを、アイリスは横目で見た。
結局、アイリスは何の手助けも出来なかった。ただ、見ていることしか。
これでは、観測者を名乗る資格すらない。
ただの、傍観者だ。
でも、これで人類が破滅の未来から逃れられるなら。
シオンの願いが、叶うのなら……。
私は、それでいい。
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