第15話 スイレンと択一の共命鳥②
シオンの意識は、淡い光の中にいた。幾つもの光の粒が辺りを漂い、シオンの白い肌をくすぐって後ろに流れて行く。光に手を伸ばそうとすると、それは指の間をすり抜けて何も残らない。自分の手に目をやると、光にかき消されて伸ばした指先がよく見えない。まるで光の中に溶けてしまいそうだ。
一際大きな光が頭上に見えた。何人も寄せ付けない荘厳さを放ちながらも、包み込むような暖かさを放っている。あれが『太陽』なのだろうか。シオンは分厚い雲に覆われたその上の存在を知らなかった。まるで世界の高度限界かのように低く立ち込める曇天を人間が突き破って飛び立ったという事実を、シオンはまだ信じられないでいたほどだ。
シオンの周囲に流れる光が速度を増した。それはやがて線形となり、シオンの遥か正面から八方に向けて放たれる矢のように拡散した。
自分が高速で前に進んでいるのか、もしくは背景が流れているだけなのか分からない。ただ、光が放たれている原点が、自分が辿り着くべき目的地なのではないかと思った。
何処からか声が聞こえた。シオンの意識は眠りに落ちる直前のような微睡みの中にあり、内容までは理解できない。ただ、それはゾフィアの声だった。淡々とした説明口調から察するに、憂慮すべき事態は起こっていないのだろう。
この微睡みが『洗脳』なのだろうか。心が異常なまでに落ち着く。喜怒哀楽の感情が全て抜かれたような感覚だった。かつて人類の嗜好品であった『薬』も、こんな感じだったのかもしれない……。
やがて、前方から暗闇が押し寄せた。周囲の光が一瞬のうちに塗り潰され、さっきまでの暖かさも消えた。やがて黒色はシオンの周り全てを取り囲み、先ほどまでの周囲に溶けるような感覚とは真逆の、痛いほどに鋭敏な感覚に包まれた。
寒い。だが、恐怖はない。
また声が聞こえた。しかし、今度ははっきりと、頭の中で。
「下を見ろ」
ゾフィアだった。シオンは目線を落とした。
眼下に広がっていたのは、銀色の大地だった。完全な闇の中でも何故かはっきりと視認できる。しかし『大地』と呼ぶには地形の起伏が幾何学的過ぎた。まるで巨大な白い基盤に迷い込んだような気がして、シオンは軽い目眩を覚えた。これは『大脳接続』がみせる幻影なのか?
「見えているか。それがアマノトリだ。お前の脳内に船体のイメージが流し込まれている」
これが、アマノトリだって? ゾフィアの声に返事をしようとしたが、上手く声が出せない。シオンはその広大な船体を眺めることしかできなかった。
「聞け。現在、お前の意識をアマノトリに向けて送信している。これからお前の意識に何が映るのかは分からないが、ただ自分の為すべきことだけを考えろ。それ以外のことはこちらに任せるんだ」
自分の為すべきこと。世界系に資する行動。いや、違う。ヌバタマの機能を復活させることだ。為すか為さぬか、これで人類の運命が決まる。
(待ってて、カンナさん。今、そっちに行きます。)
シオンは空中で必死にもがいた。アマノトリの巨大な表面は、すぐその手の先まで近づいていた。
「シオンの様子はどうですか?」
地底でのハッキング開始から四時間。アイリスがこの台詞を発したのはちょうど二十回目だ。
「私たちからはアマノトリのセキュリティ状況しか観測できん。今は黙ってあいつを見守ることが、私たちの役目だ」
ゾフィアはそう言って、シオンの方を見た。全身に機械を纏い、静かに椅子に腰かけるシオンからは今のところ何の変化も感じられない。しかし、ヘルメットのバイザーに絶え間なく流れる文字列が指し示しているのは、計画の確実な進行なのだろう。
「それにしても、『大脳接続』の威力は流石だな。一◯八条項で禁止されない訳も分かるな」
ゾフィアがそう呟いた。
「本来では考えられたい性能が出せると?」
「ああ。『ワイズマン型』をオーバードライブさせていない状態でも、アマノトリのセキュリティを次々と突破している。内部に侵入できるのも時間の問題だろう。まあ、大変なのはここからなんだがな」
ゾフィアはオフィスチェアの背もたれに体を預け、机の上に足を置いた。そのまま後ろに倒れる寸前のバランスで、重心が保たれていた。
「あの、私は何をすれば……」
アイリスが遠慮がちに訊いた。
「特にない。……いや、お前はこいつの最終安全装置になれ。有事の際はぶん殴ってでも止めろ」
アイリスはシオンの正面に椅子を持ってきて、対面するように腰かけた。
十二億キロの彼方に向けて自分の意識を飛ばすなどという試みは、おそらく前例すらないだろう。有事はいつ、どのように発生するか分からない。その有事が起こるまで座って見ていることしかできない現状に、アイリスは焦れったい思いを隠しきれないでいた。
「シオン。あなたは今、何を見ているのでしょう……」
アラートが鳴り響いた。
「来たぞ」
ゾフィアはそれだけ言うと椅子から飛び起き、モニターに向かった。
アイリスも思わず立ち上がった。だからと言って、彼女に出来ることは何もない。
「アマノトリへの侵入に成功した。次はヌバタマの管理サーバーを見つける」
ゾフィアは二台のキーボードを同時に操作し、それぞれのモニターに視線を巡らせた。モニターに写し出されたのは、CGで構成された立体モデルだった。
「これがアマノトリの全体図だ。ここからさらに複数のサーバーを経由しながら、ヌバタマの中枢を目指す」
ゾフィアはモニターに掛けてあったヘッドセットを取ると、マイクに向かって言った。
「聞こえるか。次はヌバタマの管理者サーバーを探しだすんだ。こちらの『スターゲイザー』もアクセスパスの解析を進めている。セキュリティ維持部隊に感づかれる前に、急げよ」
シオンが小さく頷いた気がした。膝の上の拳を握りしめ、身じろぎひとつせずに頭をフル回転させているようだ。
「見つけた」
ゾフィアが小さく、しかし力強い口調で呟いた。
アイリスはいてもたっても居られないといった様子でゾフィアに近づいた。
「ヌバタマを、ですか?」
「そうだ。お前、そこのモニターの文字列を読み上げろ。私はこいつを準備する」
そう言って渡されたのはヘッドセット。アイリスが頭に装着すると、向こうから深い呼吸音が聞こえてきた。
「シオン、大丈夫なのですか?」
返答はない。
「シオン!」
「早くしろ! 管理者にバレたら全て終わりだ!」
アイリスは胸を押さえて深呼吸をすると、一文字ずつ読み上げた。
十分ほど掛けて全てを読み上げると、背後に立っていたゾフィアにヘッドセットを取られた。その手には、透明な液体が入った注射器が握られていた。
「……それは?」
「脳処理活性微細機械。オーバードライブの補助装置だ」
言うや否や、ゾフィアはキャップを取り外し、シオンの大腿部に刺した。シオンは身悶えながら苦悶の声を上げた。
「シオンは……、シオンはどうなるのですか?」
ゾフィアはアイリスの方を振り返ること無くパソコンに向かい、新たなモニターを起動させた。
「微細機械の電気信号によって直接『ワイズマン型』の処理限界を引き上げる。内蔵されている高速化状態よりも高い性能向上が望める」
「でも、なんだか様子が苦しそうです」
ゾフィアはその声を無視し、ヘッドセットを向かって話し始めた。
「これよりオーバードライブを開始する。現在八十五%で稼働させているお前の『ワイズマン型』を、段階的に七五〇%まで引き上げる。演算処理速度の向上に伴い神経伝達回路の電圧負荷が上昇し、全身の痛覚が刺激されるが、死にはしない。耐えろ」
ゾフィアはモニターに数値を入力した。八十五%から、まずは二百%へ。
「ちょっと待ってください! ……全身への苦痛など、私は聞いていません!」
「そりゃそうだろう。今言ったからな」
「……本当に、シオンに悪い影響は無いんでしょうね」
「それは、あと数時間もすれば分かるさ」
ゾフィアは間髪入れず、エンターキーを押した。
シオンの背中から、青白い稲妻が走った。シオンの身体が椅子の上で大きく跳ね、全身に装着した冷却器がうなり声を上げて全力運転を始めた。
歯を食い縛って苦痛に耐えるシオンに、アイリスは駆け寄ろうとした。
「そいつに近づくな。離れて見てろ」
ゾフィアの厳しい口調に、アイリスは思わず足を止めた。
「でも、シオンが……」
「まだ状況はこちらが優勢だ。お前が出る幕じゃない」
ゾフィアはそう言ったきり黙り込んで、キーボードの操作に没頭した。シオンの頭のヘルメットには、目で追えないほどの速度で文字列が流れている。周囲の景色が歪んでいるように見えた。発熱による蜃気楼だ。
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