第13話 ジンチョウゲと決行前夜

 シオンが一番上のウィンドウを消すと、コードで埋まった小さなウィンドウがいくつも現れた。

「アイリス、何か分かる?」

 じっとディスプレイを眺めていたアイリスは、画面から目を離すと首を横に振った。

「私も精通している訳ではありませんので。しかし、この文字列は一見何の意味も無いようにも見えますね。まるで、ランダム生成したパスコードのようです」

 アイリスは部屋の角に放置されたフォーチュン用の充電ケーブルを手に取った。そして、Tシャツを脱ぎ上半身をあらわにしたシオンの背中に、プラグを差し込んだ。

 シオンの頭の中でブザーが鳴った。充電を開始した合図だ。

「明日が本番ですね」

 椅子に座り、項垂れるシオンに向かって、アイリスが言った。

「怖い、ですか?」

「正直言うと、ちょっとね」

シオンは無理な笑いを作って見せた。

「僕が上手くやれるかどうかで、人類の運命が決まってしまう。怖くないはずがないよ」

 気丈に振る舞ってはいるが、その声は震えを帯びている。

 アイリスが、冷たいシオンの手をそっと握った。シオンの身体に、染み渡るような暖かさが広がった。

「大丈夫、あなたは一人じゃありません。私たちがついている」

 シオンの小さな手が、アイリスの中で震えた。

「でも、僕は知識も力もない。オーバードライブだって初めてだ。人間は僕を敵だと思うかもしれない。僕のせいで世界がもっと酷いことになるかもしれない。嫌われるのはいやだ。僕は……」

 シオンの両目から涙が零れた。

 アイリスはシオンを包む手に力を込めた。

「シオン、あなたはすでに成し遂げたではないですか。地球で初めての、宇宙の人類との邂逅を。人の痛みが分かるのも、その痛みを救えるのも、この地球であなた一人しかいません」

 アイリスは指でシオンの頬に触れ、涙を拭った。シオンの長い睫毛には小さな水滴が実っていた。

「ほら、まだ涙を流せる。心が死んでいない証拠です」

 自分は消費電力を抑えるために人間らしい生理現象を全て停止させたとは、口が裂けても言えなかった。

「大丈夫、あなたを阻むすべての障害は、私が排除します。絶対に死なせない、人類も、そしてあなたも」

 アイリスはシオンの頭を軽く撫でた。くすぐったいような思いがシオンの心を包んだ。

「あとは、の協力だけですね」

「あの子?」シオンが顔を上げた。

 するとアイリスは、おもむろに自分のロングスカートをたくし上げ、中に手を突っ込んだ。

 急な出来事にシオンは目を塞ぐ隙すら無かった。スカートの中から取り出したのは、見覚えのある形。

「あなたの落とし物です」

 それは、黒色に鈍く光るヘッドホンだった。もう聞くことはないと思っていた、世界で最も我が儘な少女の声。

 手に取ることを躊躇するシオンに、アイリスはその手を取ってヘッドホンを握らせた。アイリスの体温でそれはほんのりと暖かく、シオンの手は甘い痺れに包まれた。

「でも、僕は……」

「ケンカした後は仲直り、でしょ? 一◯八条項ゴールデン・オーダー以前の、処世作法マナーです」

 アイリスの手に導かれるように、シオンはベッドホンを耳に当てた。頭を包み込むいつもの感触が、今は妙に心地よかった。

「では、私はこれで」

「え、ちょっ……」

 アイリスはそう言い残し、ヒラヒラと手を振って部屋を後にした。

 静かにドアが閉められ一人ぼっちになった部屋で、聞き慣れたあのノイズを耳にした。

 シオンは口を一文字に結び、身体を硬くした。何を言えばいいのだろう。ごめん? 申し訳ない? でも僕はもうリリィの言いなりになるつもりは無い。

 ノイズが鳴り止んだ後も、二人は静寂を保ったままだ。蛍光灯のジジジという音だけが空間を支配している。

 最初に静寂を破ったのは、リリィだった。

「……私は、世界系に資する行動など何もしていない」

「リリィ……」

「つまり、私がお前たちに課してきた行動は、すべてデタラメだったということだ。本当の無能は、私だったのかもしれないな」

 リリィの不遜な口調は変わらず、しかしその声は萎れた花のように元気がなかった。

「……やめてよ、そんなのリリィらしくない」

 リリィは、シオンの言葉を聞いていないかのように言葉を続けた。

「済まなかった。私からの指示はもう無い。後の時間はお前たちの好きに過ごせ。それが私からの最後の願いだ」

「なんだよそれ、無責任じゃないか。さんざん人に命令しておいて、今度はお前の好きにしろなんて。そんなのって無いよ……」

「私の身勝手さは自分が一番良く分かっている。お前たちの限りある時間を無駄にした、その自覚は十分にある。これは、私からの贖罪だ」

 リリィはそこで言葉を切り、そして意を決したように言った。

「アマノトリへのハッキングを試みるのだろう? 。誰にもお前の邪魔はさせん。私の最後の我が儘だ。それが終われば、お前は私という拘束から自由となる。そして、幸せな余生を過ごせ」

「最後って、じゃあこれが終わったらリリィはどうするの?」

「……私の役目はすでに終わっている。私はお前の前から姿を消し、もう二度と出会うことはないだろう」

「そんなの、嫌だよ」

 シオンは強く首を振った。雫が数滴、床に落ちて消えた。

「リリィは自分勝手で傍若無人で梁冀跋扈りょうきばっこなイヤなヤツだけど、いなくなるなんて僕は嫌だ。いつものままで、何も変わらずに僕らは生きていくんだ」

 シオンは、強く言い放った。

「ずっと僕の側にいろ。これは、僕からの命令だ」

 リリィがヘッドホンの向こう側で何を思ったかは知る由がない。

「なんだそれ、愛の告白かよ」

 しかし、その声にはかつてのような棘はもう無かった。

「分かった。この戦いが終われば、お前にすべてを話してやる。私の行動の理由も、これまでの事も、すべて」

「うん、ありがとう」

 シオンは目に涙を浮かべながら頷いた。

「だから、死ぬなよ」

 ノイズと共に、声が消えた。部屋に再び静けさが訪れた。

「仲直り、か」

 シオンは手で涙を拭くと、背中にコードを着けたままで立ち上がった。そして、通信機に向かってキーボードを叩き始めた。さっきゾフィアから聞いた情報をカンナに伝えるためだ。

 アマノトリがまもなく土星に最接近すること、アマノトリがスイングバイによって航路を変えようとしている可能性があるため、猶予はあと二週間しかないということ、そのために明日ハッキングを決行することを勢いに任せて書き連ねた。初めに比べればシオンのタイピング能力もかなり向上したようだ。

 そして、シオンの脳処理を使って攻撃を仕掛けることは内緒にしておいた。

 カンナからの返信があったのは、その日の夜だった。


『アマノトリが土星に接近するという話はこっちでも話題になっていますが、まさかそんな影響があるとは、気がつきませんでした。おそらく亜宮あみやはこの時を狙っていたのでしょう。そして、相変わらず彼の行方は分からないまま。政府は最初は情報統制を敷いていたようですが、今となってはそれも無駄。フォーチュンを殺した次は自分も殺されるんじゃないかって、人々の間で外出を自粛する動きまで出始めています。亜宮について何か分かったことはありますか? 今はあなただけが頼りです。どうか、ご武運を。 カンナ』


 シオンは、いつかアイリスから聞いた網谷あみや幸男ゆきおという同姓同名の科学者の名を思い出した。だが、それ以外の情報は皆無に等しい。

「明日、ゾフィアさんに聞いてみるか」

 シオンは打鍵を終えて送信ボタンを押すと、一息ついた。残すは、明日の決行を待つのみ。一度休眠待機スリープモードにして英気を養うのもいいかもしれない。

 頭の中で電子音が鳴った。充電が終わった合図だ。シオンはもんどり打って背中に手を伸ばすと、プラグを引き抜いた。充電器の乱暴な扱い方はアイリスから注意されていたが、この際は仕方ない。

 シャツを着るために立ち上がろうとしたところ、ヘッドホンからノイズが聞こえてきた。

 今は、このノイズの音すら心地よいと感じてしまう。案の定ノイズに続いて、リリィの声がした。


「シオン。お前、そこにあの女はいるか?」

 初めてリリィに名前を呼ばれた気がした。そして、その声のトーンはやけに低かった。

「へ? ゾフィアさんのこと? 今、地下で明日の準備をしてくれてるよ」


「違う、あれは関係ない。私が聞いているのは、

「……それってアイリスのこと? 今は部屋を出てるけど……」

 リリィは咳払いをすると、低く呻くような声で言った。


。あいつは何か底知れぬ『』を隠し持っている。あの鈴のような声の裏側で、何かを企んでいるに違いない。手も届かぬ暗闇から、あいつは私たちの支配を目論んでいる。もちろん、お前のこともだ」

 シオンは突然の警告に、耳を疑った。

「な、何言ってんだよリリィ。今までだってずっと仲良くやってきたじゃないか」

「それこそが奴の思う壺だ。安易に信頼関係をするな。私があいつと口を利きたくなかったのはそのためだ。最初から怪しい臭いはしていたからな」

「一体、アイリスが何をしたって言うんだよ……。そんな急に言われても、訳分かんないよ」

 シオンは膝の上で拳を強く握った。しかしリリィは淡々としていた。

「決行前夜であることは承知している。私だってお前に余計な負荷を掛けたくない。だが、言うなら今のタイミングしかなかったんだ。理解してくれ」

「……リリィ、僕は君の事こそ分からないよ。君は味方なの? それとも敵なの?」

 シオンの縋るような声にリリィも良心の呵責を覚えたが、嘘は許されない。それは人類との約束ゴールデン・オーダーに反するから。

「私はどちらでもない」

 その言葉には、いささかの迷いも無かった。



「私は、観測者だ」

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