第11話 コチョウランと幸福のしもべ
翌朝、まだ眠い目を擦っているゾフィアの前には、シオンとアイリスがいた。
「お願いします!」
開口一番、シオンはゾフィアに向かって頭を下げた。
「この施設の、使用許可を」
「……」
ゾフィアはため息一つ、腕を組んで黙り込んだ。昨晩からの寝不足が祟るのか、目の下のクマは一層深く刻まれていた。昨晩アイリスが帰った後、寝室に戻る気力すらなかったゾフィアは、モニタールームで椅子を並べて仮眠を取っていた。
「ここはモニタールームだ。ハッキングなどといった高等な操作はできない」
するとシオンは頭を上げた。その顔はゾフィアと負けないほどにひどくやつれていて、どこか目線もさだまっていないようだ。
「はい、聞きました。高度なコンピュータ群はここと別の場所にあると。そして、おおよその見当もついています」
「何だと?」
いつの間に? と聞こうとして、ゾフィアはハッと気が付いた。
「昨日の夜か……」
シオンは申し訳なさそうに目を伏せた。
「昨日、アイリスとお話している間に施設の中を調べさせてもらいました。しかし、行ける限りの場所を探しましたがそれらしい部屋は見つかりませんでした」
「……それで?」
ゾフィアが急かすように問いかけた。
「あと一つだけ可能性があるとすれば、僕たちがここに来るときに使ったあのエレベーター。あのエレベータには、まだ下があるんじゃないですか?」
「お前、行ったのか?」
「鍵がかかっていたので……。でもゾフィアさんなら、持ってますよね?」
ゾフィアの目線が一瞬、白衣のポケットに向いた。そのポケットがわずかに膨らんでいるのを、アイリスは見逃さなかった。
「第一、どうやってアマノトリのコンピュータにハッキングを行うつもりだ? 文字通り世界そのものを敵に回す行為だ。たった一人で太刀打ちできるレベルじゃないぞ」
「それは分かっています。そもそも僕だってキーボードのタイピングが速いわけじゃない。でも、僕たちだからこそできる、奥の手があります。――『大脳接続』が」
『大脳接続』。前世紀のSF小説で使い古された人類の夢の一つ。人間の脳をコンピュータと直接繋ぐことで記憶のバックアップやイメージの具現化を試みる実験だ。どれだけ科学が進歩しようとも人間の脳構造を電子データに置き換える夢は叶わなかったが、フォーチュンの『ワイズマン型』ではそれが容易に行えた。
「『大脳接続』なら脳の処理速度を
しかしゾフィアは、苦い表情を変えなかった。
「お前はあれのリスクも知らずにそんなことを言っているのか? 『大脳接続』は自分の脳内の情報を複製し、転送するための方法だ。長時間の使用は深刻な記憶障害や意識障害を伴うばかりでなく、正常な神経系にも影響を与える。それに、『ワイズマン型』の最大出力も併用すれば、お前は間違いなく廃人になるぞ」
「それでも、いいんです」シオンは一歩も退かなかった。
「それが人類のため、世界系のためであれば、僕は命も惜しくない」
シオンの背後では、アイリスが俯いている。『大脳接続』は背中の充電ポートに機器を繋いで行うため、今のアイリスが行うことは不可能だ。
ゾフィアは当惑していた。遥か宇宙彼方の顔も知らない生命を守るために、自ら進んで道を外れようとするフォーチュンに短期間で二度も会ったから。透き通るほど純真な自己犠牲の奥に隠れる彼らの真意を、ゾフィアは図れないでいた。
「なぜそこまでする? なぜお前はそこまで人類を……」
昨夜と同じ質問を、今度はシオンにぶつけた。
シオンの返答に、迷いはなかった。
「なぜなら僕は、人類を愛しているからです」
「ゾフィアさん」アイリスがシオンとゾフィアの間に割って入った。
「あなたは自分のことを『観測者』と呼び、不介入・不干渉の掟を守り続けている。どうか、私たちがこれから行うことも、ただ『観測』していただけないでしょうか」
「……だが、言ったはずだ。お前たちも『観測者』だと」
「私たちは観測者などではありません」
アイリスは首を横に振った。
「私たちは、
ゾフィアは何も言わず、黙って聞いていた。
そして、意を決したように白衣のポケットに手を突っ込むと、その中身をシオンに投げて寄越した。シオンが両手でキャッチすると、それは可愛らしい猫のキーホルダーが付いた大振りの鍵だった。
「行くぞ、見せてやる」
そう言って、ゾフィアはさっさと部屋を出た。
「私が『観測』した事実を一つ教えてやる」
狭いエレベーターの中で、唐突にゾフィアが言った。エレベーターは以前乗った時よりもさらに数割増しの振動で地下へと降りて行った。
「アマノトリは現在、地球から十二億三四〇〇万キロの宇宙を航行している」
「それは知ってます」シオンが口を挟んだ。
「話はここからだ。この十二億三四〇〇万キロという距離が、何を意味するか分かるか?」
「その距離で言うと、木星と土星の間ぐらいですね」アイリスが即答した。
「そうだ、この時期の天体の位置と照らし合わせると、アマノトリは近い内に土星に最接近する」
「それが何か問題なんですか?」
「アマノトリは今、船体の要となる
隣にいたアイリスの顔が青ざめた。
「そうか、スイングバイ……」
「スイングバイ?」シオンが訊いた。
「本来は、宇宙探査機が推進燃料を節約しながら飛行するために用いられる技術です。わざと大きな惑星の近くを横切り、その星の巨大な重力の影響を受けることで自らを加速させたり軌道を変えたりすることができる。アマノトリほどのサイズでは加速は不可能ですが、進路の転換程度なら可能なはずです。」
「そうだ。おそらく太陽系からの脱出にスイングバイ航法を用いるのだろう。そしてアマノトリは土星の重力圏に向かって現在も直進を続けている。地球の重力にすら耐えられなかったあの船が、土星の重力に負けない訳がない」
「そ、その重力圏にアマノトリが入るまでの期間は……」
「あと、二週間だ」
ゾフィアが絞り出すような声で言った。
「
ゾフィアの冗談に、誰一人として反応する者は無かった。
三人を乗せたエレベーターは底知れぬ奈落へと、どこまでも降下を続けた。
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