第9話 ゲッカビジンと真夜中の訪問者①

 すべての照明が落とされた、かび臭さが漂う廊下。薄い鉄の扉が、音を立てないほどゆっくりと開いた。

 真っ暗な空間に、非常案内の緑色だけが灯っている。気味が悪いほど冷たい空気が肌を撫でた。

 足音を低く抑えようとしても、コンクリートの反響はそれを許さない。壁に指を添わせながら沼のような闇の中を進んだ。目指す場所は一つ。

 目的のドアの前に立ち、小さく息を吐いた。わずかに金属が擦れ合う音も出さず、ドアノブが九十度回転した。

 ドアを薄く開けて中を窺う。部屋の中も同様に真っ暗で、三十センチ先すら視認できない。

 素早く中に侵入し、後ろ手にドアを閉めた。確かこの辺りに電気のスイッチがあったはず。手探りで壁を辿る。見つけた、分電盤のカバーを開け、スイッチをオンにした。急に白む視界に、思わず目を細めた。


「潜入ご苦労」

 明るくなった部屋の中で、ゾフィアが立っていた。

「……睡眠もここで?」

 は平静を装って、そう尋ねた。

「いいや、寝床ぐらい別にあるさ。今夜は来客がありそうな気がしてな」

 まぁ座れやとゾフィアはスポンジが座面から飛び出たパイプ椅子を勧めた。

「二人で来るかと思ってたが、もう一人は置いてきたのか?」

「シオンはカンナさんとのお話しに夢中でしたので。お部屋に置いてあった通信機、借りましたよ」

 アイリスは静かにパイプ椅子に腰を下ろした。

「本当ならも止めていただきたいのだがな」

 ゾフィアは机のコーヒーを一口啜った。マグカップの内側には輪状の黄ばみがいくつもあった。

「ゾフィアさん、なぜあなたはアマノトリに乗らなかったのですか?」

 アイリスが口火を切った。

「おまえはに人類の全員が乗ったと思ってるのか? ま、九十パーセント以上は乗ったと思うがな」

「地球に残る選択をした人もいたと」

「二種類だ。宇宙への進出を拒んだ地球原理主義アンチスペースの人間と、船に乗るのを拒まれた人間」

「アマノトリは人類平等、全民族統一の象徴として、すべての人間を救う箱舟だと伺伺っていましたが」

「そんな絵空事が一朝一夕で達成するわけがない。疫病に劣等遺伝子、潜在的殺人衝動のDNAなんてのもあったな。船に乗せない理由は何とでも付けられた。人間生きてりゃ、嫌いな人間の一人はできるだろう」

「アマノトリに乗らなかった人たちは、どうなったのですか」

「私が知るわけ無いだろう。地下壕掘って芋食いながら生活してるか、外気の汚染物に曝されて死ぬかのどっちかだ。」

「では、あなたは?」

「お前、そんな話をしに来たのか?」

「目的など、どうでもいいではありませんか。私はこうやって人間の方とお話しできることが一番の喜びですから。で、何か乗らなかった理由はあるのですか?」


 ゾフィアは白衣の毛玉を指で丸めながら、吐き捨てるように言った。

「……え?」

「だから、寝過ごしたんだ」

「冗談、ですよね?」

 アイリスはゾフィアの真意を確かめるように見つめたが、相手はこっちを見ようとしない。

「大真面目だ。いや、少し語弊があるか。

 ゾフィアは長机の下を指さした。見ると、ガラス窓が付いた青色の棺のような箱が空間を占めていた。

「……これは?」

「いわゆる『冷凍睡眠装置コールドスリープ』だ。私は人類が地球を飛び立つ前にこの棺で眠りに就いた。中東の変な業者から仕入れた物だが、どうやら不良品だったらしい。神経筋電気刺激装置E    M    Sがろくに作動しなかったせいで、全身が鈍りまくってバキバキだ」

「ご家族は?」

「両親は早くに死んだ。兄弟はいない」

「失礼ですが、ご結婚は……」

「随分と突っ込んだことを聞くフォーチュンだな。一◯八条項ゴールデン・オーダーに『人間のプライベートに干渉しない』という項目はないのか?」

 ゾフィアは仏頂面を崩さず冗談めかして言った。


「だが、娘はいた」

「む、娘?」

 アイリスは思わず目を見開いた。

「なんだ、いたら悪いのか」

「いえ、そういう訳では……」

 気まずい沈黙が流れた。アイリスはパイプ椅子の下の足を組み変えた。

「あの、娘さんは今、どちらに」

「さあな。宇宙のどこかだ」

「ああ、行かれたんですね……」

 ゾフィアは丸めた毛玉を指で弾くと、机の上のゴミ山からビニール袋を抜き出し、アイリスに突き出した。

「食べるか?」

 乾いて縮こまった食パンだった。

「いえ、私は疑似消化器パイプを持ち合わせていないので……」

「第七世代のくせに、珍しいな」

「あれは人間との接待用に設けられた追加機能オプションですから」

「お前は人間に媚びへつらわないと?」

「私にとって不要なだけです。食事だけがコミュニケーションの手段ではありません」

「元々のお前の職業は? 工場勤務の生産流通業ブルーか。それとも教職グリーンか」

「いいえ。強いて言うなら、労働放棄ホワイトですかね」

「お前はフォーチュンだぞ。人間ならともかく、そんなことはありえん」

「そうでしょうか? 労働力など無限に作り出せるご時世なのですから、一人ぐらい人間に奉仕しない個体がいても、誰も困りませんよ」

 ゾフィアは、初めてアイリスの目を見た。

「そんな思考を持つ個体は初めてだ。

 ……お前、何者だ?」

 アイリスは少し微笑むと、いつもと変わらない口調で言った。


「ふふ、女性に秘密は付きものですよ」

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