第112話 教皇ウィクトル
奴隷解放のための諮問委員会は『お香を使った調教の禁止、およびゴモラから売られた奴隷の取引の禁止と権利回復』を決議したのはよかったが、その後は各方面の思惑が働いて紛糾してしまい、もはや混迷・迷走するばかり。
教皇庁からきたお目付け役のカラン司教は、奴隷制という王国の罪悪を裁くと凝り固まっている、それが正しい信仰と言うものなのだそうだ。
一方王国の官僚としては、そんな話が受け入れらるはずがない、できればここで幕引きにしてしまいたい処だ。だから紛糾するのも無理もないし、双方ともこれ以上委員会を続ける気がなくなってしまった。
それでも、フィオレンツィ師は一握りでも何かを得られないかと頑張っていたが、カラン司教は逆ギレして、とうとう教皇庁に帰ってしまった。
「ここでもうこれ以上、ここで話し合っても埒が明かない。
このままにしておくつもりはありませんからな。」
と、言い残して・・・。
とはいうものの、教皇庁の方針が特に変わった様子もない。
マルロー大司教は大慌てで教皇庁内部の様子を探ってみたが、やはり大した動きは見られない。いまや、サルマン大公国はテルミス王国の支配下となってしまった。つまり教皇のおひざ元も全てテルミス王国の支配下となっている。
というわけで、マルロー大司教としてももはやこうなってしまっては教皇庁もうるさい事は言うまいと考え直してしまう。
もう完全にタカを括って、
「あの方は思い込みが強すぎて逆ギレし易い
などと言ったりしている。
暫くして、教皇庁よりフィオレンツィ信仰保護官あてに手紙がやってきた。
今回の奴隷解放諮問委員会の件で、『新教皇ウィクトルへの説明と報告を求める』との。
マルロー大司教は動物的な勘が働らいたようで、小鼻をヒクヒクさせながら
「ちょっとイヤな感じがする。」
と警戒するが、フィオレンツィは、
「教皇様が変わった事ですし、ちゃんと説明しておかなければ。王国内だけの話で済ますわけにもいかないでしょうから。」
とそう言い残して、王都を出発した。
で、10日間がすぎて教皇庁へ到着したことは伝えられた・・・が、そのまま消息を絶ってしまった。
それからもう1ヶ月後、フィオレンツィが教皇庁内で逮捕され、異端裁判にかけられている事が判明する。
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カラン司教は教皇庁に帰ってから、あちらこちらに訴えて廻った。
「テルミス王国は奴隷問題をいい加減に終わらせて幕を引こうとしている。」と。
彼の憤りは純粋な信仰に基づいたものであり、彼なりに理想を実現しようと努力しているのは誰もが判っている・・・が、それだけで通る世の中でもない。教皇庁に居るような聖職者達は海千山千のつわものばかりであり、当然その事もよく承知している。
・・・だから、だれも耳を貸そうとしなかった。
しかし・・・義憤・・・正義の憤りで頭の中が一杯のカラン司教には、そんな事はみえていない。無視されたならば、より一層怒りを膨らませて所かまわず精力的に訴えて廻る。
そして、とうとう彼の訴えに関心を示してくれる者を見つけた。ヴォルカニック派の聖職者達だ。
「カラン司教、我々ヴォルカニック教会はあなたと志を同じくしております。皇国が戦争を始めたのも、その憤りが大元にあるが故なのです。」
カランは、ようやく同志が現れた事に歓喜する。そして彼らと会合を重ね、
「フィオレンツィ信仰保護官が問題の
と・・・つまりカラン司教こそ信仰保護官に相応しいと・・・心の底を揺さぶるような言葉で応えてくれた。
そして、
「その問題を明らかにするために秘密審議会を動議して、そこでフィオレンツィ信仰保護官を弾劾することに致しませんか。」
この様な提案をする。
そう、自らが信仰保護官として奴隷解放諮問委員会を率いるならば、テルミス王国を裁いてもっと正義を徹底させる事ができるであろう・・・これは世の中の現実というものがまったく見えていないのであるが、理想を信奉する人が往々にしてこうなのもまた現実なのだ・・・これほどカラン司教を満足させる話は無い、当然ながら同意する。
しかし果たしてそのような秘密審議会を開くことができるのか、そこには少し無理を感じていたが、もはや行きつく所まで行ってしまおうとの思いが勝っている。
・・・ところが、
「教皇聖下腹心の○○枢機卿から秘密審議会の許可を頂く事に成功いたしました。」
との事。
この時ほど悦び、神に感謝する気持ちになった事はなかった。どうやら新教皇は自分と同じ考えなのであろう。喜び勇んで弾劾文を提出した。
そして、その秘密審議会にて、
「フィオレンツィ信仰保護官は王国の奴隷解放諮問委員会において、その罪悪の在りかをあいまいなままに済まそうとしており、これは信仰の牧者たる教会の立場としては甚だ背反するものであります。
私は、これを弾劾するとともに、フィオレンツィ信仰保護官の解任を提議するものであります。」
カランはこう証言した。
・・・が、彼の同志であるヴォルカニック教会の聖職者は、
「カラン補佐官の証言に基づいて、フィオレンツィ信仰保護官を異端裁判にかけるように動議いたします。」と、発言したのだ。
異端裁判!
これは話が違う。
カラン司教はギョッとして彼を睨らむ、そんな話ではなかったはずだと。彼は人事の不適切を訴えたのであって、フィオレンツィの断罪処刑を望んだわけではない。
しかし彼らはもうカラン司教の方を見向きもしない。そして、
「この奴隷問題こそヴォルカニック皇国、テルミス王国の戦争の原因の根本であり、これを曖昧にすべきではありません。教皇庁は断固として白黒を糺し、テルミス王国を裁くべきでありましょう。
是非とも、異端裁判でもってウィクトル新教皇聖下の態度を明らかにすべきであります。」
ここで、ようやくカラン司教は国家間の外交・謀略に利用されている事を悟ったのである。
「でありますから、カラン司教の弾劾によるフィオレンツィ信仰保護官の異端裁判を重ねて要求いたします。」
と・・・。
とはいっても、教皇庁はヴォルカニック派だけで動いているわけではない、この秘密審議会の中でもむしろ少数派だ。
だから、カラン司教としてはそれほどは心配はしていなかった。
ところが・・・議長を務める枢機卿は、
「確かにカラン司教の弾劾文の中の証言はフィオレンツィ信仰保護官の異端を示しております。その是非を確かめるべく異端裁判での裁定が必要かと。」
そして教皇の取り巻き達、つまりサムエル派の聖職者達たちもこれに同意してしまった。
カランは顔面蒼白となる。明らかにこれは無茶苦茶な異端裁判だ。これは謀略以外の何物でもない。それが、自分の名によってなされるとは・・・それだけはごめん被りたい。
「ちょ、ちょっとお待ちください。私は解任を要求したのであり、異端裁判を開く様には申しておりません。」
「いいえ、あなたはフィオレンツィ信仰保護官を弾劾なさったのです。その証言に基づいて異端裁判を開くという事です。」
・・・・・・
事ここに至って、自分の発言は謀略の材料を提供するためのものでしかなかった、自分の意志などは入り込む余地は元からなかったのだと思い知らされる。
「それでは、カラン司教の弾劾により、フィオレンツィ信仰保護官の異端裁判を開くことと決議いたします。」
こうして審議会は終わった。
カラン司教はこの審議会のあとすぐに、ヴォルカニック教会へ使いに出されることとなる。つまり、『用済みだ、異端裁判の現場に居る必要は無い』という事である。彼の弾劾を証言として利用するが異端裁判の場では発言させない・・・もはや、異端裁判に彼の真意などは邪魔でしかない・・・。
カラン司教はそのままヴォルカニック派の人々に引きずっていかれ、強制的に馬車に乗せられた。その馬車はサムエル大公国を東へと走り、東の果てで選定侯国に入り、そしてヴォルカニック皇国へと・・・長い旅に出発した。
この様にして、フィオレンツィ信仰保護官に手紙が出された。『新教皇に報告と説明を求める』との。
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フィオレンツィは10日間をかけてようやく教皇国に到着して、招聘修道院に入って部屋でくつろいでいた時、枢機卿の使いがやってきた。お茶でもしながら打ち合わせをしたい、用意しているので執務室まで気楽に来て欲しいと。
ヤレヤレと思ったが、断るわけにもいかないので洗濯済みの修道服に着替えて出かける。
案内人について教皇庁に入り、執務室に入ったところで、
「お待ちしていました、フィオレンツィ信仰保護官。カラン司教があなたを弾劾いたしましたので異端裁判で判断することとなりました。」
そう言い渡され、後は数人の屈強な衛兵に取り巻かれて、そのまま地下牢まで連れてゆかれる。
ガチャンと鉄格子の扉が締められた時は呆然としてしまった。が、牢内を見回すと他の囚人などは誰もおらずガランとしている。そして牢内の清掃は行き届いていて、置いてあるベッドも清潔だ。それだけではない、机といすもあって机の上には上等な装丁の誓書と便箋・ペンなど文房具一式が置いてあった。
ちなみに一画が区切られてあり、その中にはオマルがある・・・用を足したら伝えてほしい新しいのと換えるから、と牢番が説明する。牢番も親切だ・・・。
暫くすると、お茶の入ったポットと茶菓子がやってきた。どうやらお茶に招いたのは嘘ではないらしい。そして、
「荷物は招聘修道院のお部屋からこちらに移したいと思いますので、お部屋に入ってもいいでしょうか。」とのこと。
ヤレヤレと思いながらも気を取り直し、落ち着くために椅子に座って誓書を読むこととした。
こうして夜となり、運びこまれた夕食を摂った後、ランプを灯して誓書を広げていると・・・陽が落ちて暗くなった地下牢の廊下を、カツ・・・カツ・・・と闇の向うから音がする。その音のする方を見てみると、暗闇の中にカンテラの光がゆらゆらと揺れていた。数人が連れ立ってこちらに向かって来ているようだ。
足の運びが遅い・・・そして気が付いた、あのカツカツと言う音は杖を突いている音なのだと。
その内の一人が速足でフィオレンツィの牢獄の前にやってきて、
「ウィクトル教皇聖下のお越しです。」
そう伝えてガチャガチャと錠前を開けている。その扉が開く頃、杖をついた老修道士が辿り着き、そのまま牢屋の中に入ってきた。
フィオレンツィは、この新教皇の顔を見るのは初めてで、とりあえず初見の挨拶を交わし、
「聖下、この夜遅くに何用でしょうか。」
と、尋ねる。
ウィクトルは振り返って、付き添ってきた者達に手を振り、
「すまんが、席を外してくれんかの。」と。
付き添ってきた者達は、それを聞き、
「終わりましたら、鈴をお振り下さい。また、迎えに参りますから。」
そう言って、闇の中へと戻っていった。
ウィクトルは、牢獄内に置いてあった椅子にヨッコラセと座り込み、
「さて、フィオレンツィ殿。
驚いたであろう、このような事となって。
なに今日は、御辺に異端の罪とやらを追求しに来たのではない。
諸事情を説明しておかねばなるまいと思ってのう。こうして参ったわけじゃ。
あまり表沙汰にできんような事情がな・・・実は、困った事になってのう。」
「どうしました?」
「ヴォルカニック教会の連中が手切れを言い出しよった。」
「・・・」
「戦争真っただ中の、このご時勢に教会を割ると言うのじゃ。」
「なぜ?」
「テルミス王国の罪悪を、もっと徹底的に追及すべきじゃと。
カラン司教がおるじゃろう、御辺を弾劾して大騒ぎしておったヤツじゃが、アイツはそんな事情をなにもわかっちゃおらん、自分が信仰保護官に就いて王国を裁く立場になりたい・・・それだけじゃ。
そんな事は何がどうひっくり返ってもできもせんのに・・・。
アイツは、ヴォルカニック皇国に踊らされておる事に全く気が付いておらん。
まあ、踊らせて利用したのは・・・当方も同じじゃが。」
「いえ、カラン司教の事はさておいて教会を割る、なぜそのような事をせねばならないのです。ヴォルカニック教会にとってどのような意味があるというのです。」
「そう問い詰められても・・・ワシが言っておるわけではないからのう。
じゃが、この戦争に信仰を持ち込み、ヴォルカニック皇国の挙国一致体制を取りたい。
『悪魔の王国、テルミスを討伐せよ』、というな。
しかし、そのためには教皇庁と引っ付いておっては邪魔だ。じゃからおさらばしたい。
大方そんな処じゃろう。」
「無茶苦茶です。そんな事をすると、農民たちまでも総動員した悲惨な戦争になってしまう。戦争の惨禍を拡大するような事を教会がしてどうするのです。」
「全くじゃ。
じゃが、あそこの教会は皇国とほぼ一体化しておる。
ヴォルカニック教会は、皇室・貴族からなる政府の複製の様なものじゃ。
皇国が第一、そのためには農民も戦争に動員せにゃぁいかんという事じゃろう。」
「・・・、
ああ!・・・なんという事を。」
「その通りじゃ、なんとしても教会を割るという事態は避けねばならん。」
「で・・・どうすれば良いのです。」
「良い方法?、それが無いから困っておる。
しかも、期限が迫ってきていて、時間もない。
何しろ、向こうにしたら、それじゃあバイバイと言えば済むことじゃから。
もっとも、まったく方法がないと言う訳でもないが・・・。
少し毒の強い方法がの。」
「それは!」
「それが、この異端裁判じゃ・・・。
修道士一人を殺して、その場をごまかそうという・・・。」
「うっ・・・なんと・・・そんなものが有効なのですか?」
「手切れがいやならば教皇庁がテルミス王国の罪悪を糾弾せよ、その
まったくもって無茶苦茶な言い分じゃが、そのまま言う通りにしたら、ヴォルカニック側はそれ以上もう不満は言えまい。
これ以上ゴネても、自らのボロを出すだけじゃから。」
「・・・そう言う裏があったのですか。」
「ああ、その通りじゃ。
御辺を生贄にして何とか逃げ切ろうという・・・姑息で卑劣なやり方じゃ。」
「それで、教会は無事に済むのですね。」
「いや・・・、
これで、教会を割る事は防げるし、戦争の厄災を広げる事も避けられよう。
が、このような大嘘をしでかして、教会の名誉が傷つかぬはずがあるまい。
殊にワシは、
まっ、御辺の名誉は守られるように十分な手を打っておく。
そうじゃ、信仰保護官、御辺こそその職の名にふさわしいものはおるまい。
最期まで、その職を解任することはない、そう約束しよう。
『最後まで人々の信仰を護り続けた』・・・歴史にそう残るようにな。」
「はぁ~、そんな職位などはどうでもいいのです。
ただ・・・なんと申しますか、人々に語っておきたいものが・・・胸の中に残っているものですから、それが残念ではあります。」
「ほぅ~、御辺の著作はすべて読ませていただいておるよ。ところがこの十年、著作を止めておるじゃろぅ。それが残念であったのじゃが、まだ書き残すことがあると・・・。」
「人は理不尽の中に生きている、結局の処、私の考えてきたことはこの一言に尽きるのですが・・・まあ、著作していくうちに行き詰まりまして・・・。それで、書くことはやめて、世の中で実際に活動する事にしたのですよ。」
「なんと!、素晴らしい・・・紙の上に書くことを止めて、実社会に刻む事を選んだと。」
「いえ、それほど立派な事ではありません。分からなくなったから、実際の理不尽に付き合って経験してみたという事です。そうしたら、何かが得られるのではないか、そういう思いがありましたから。
それで、それなりの経験をして、それなりの考えがまとまってきたところなんですよ。」
「う~ん、それは惜しい。ぜひともその考えとやらを残しておいて欲しい。」
「最後の著作を残しておきたい・・・でも、その時間はもういただけないのでしょう?」
「まったく・・・申し訳ない。
しかし、著作としてまとまっておらんでも、何らかの形で残しておきたいものだな。
そうじゃ!
異端裁判といえども正式な裁判なんじゃから、その記録はきっちりと残る。御辺の抗弁を無条件に認めて、その記録を洩れなく残す、そう言う事ではどうじゃ。
そして、その抗弁が全て終わるまで裁判は終了しない・・・と。まあ、一ケ月ぐらいが限度じゃろうが・・・。」
「それはそれは・・・しかしそれでは、裁判の抗弁と言うよりも、説教になってしまいそうですな。」
「ホッホッホ、それで結構じゃ。
被告に説教されるという異端裁判、前代未聞じゃの。
たぶん、これがきっかけになって教会も変わるやもしれんな・・・。
いや、そうなるべきじゃの。」
ウィクトルとて著作もあり、神学者としてそれなりに知られている。互いによく似た者同士なのだ。もう後は、二人は旧知の仲であるように、これまでに抱いた疑問・考察を語り合う。そういう時間を延々と楽しんでいたが、深夜半になって付き添いの者たちがしびれを切らして迎えに来た。
「残念じゃが、ここでお別れじゃの。わしもこの歳じゃ。お迎えまでそう遠くはあるまい。次は、大神様のもとでかの・・・。」
と言葉を残して老修道士は牢獄から出て、暗闇の中へと戻って行った。
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