第13話 教会篇:ネンジャ教会と爺神

太古の人が自分の生きているこの世界をみて、

「この世界はどこまで続いているのか」とか

「この世界は誰が創ったのであろう」とか

「なぜ自分はこの世界に生きているのであろう」とか考えついた時、

その時が原初の信仰を持ち始めた時と言ってもいい。

つまり、世界観と信仰とは表裏一体なのだと言いたい。


では心の中に世界観と信仰を最初に持った時、人はどんな存在だったのか?

ごくか弱い生き物であった。

その日の糧を十分に得られた時は、満足して神に感謝をささげ、

逆に捕食者に喰われるときは、恐怖の中で諦めるしかなかったのだから。

太古の人にとって、神は恵み深くもあるが同時に残酷な存在だった。


だから信仰も残酷だった。

残酷な信仰とは?

つまり人間も獣(けだもの)も全く同じ運命にあった、人が特別な存在ではなかった。

そういう世界観の下に生きていたのだ。


しかし、ひとたび信仰:世界観を持った人々は、集団となり社会を組織して、力を手にしてゆく。

村から都市や国を作り上げてゆくのである。

これが、古代文明の始まりとなる。


ただこの古代文明は現代のものと違って、”残酷な文明”であった。

それは、その礎(いしづえ)である信仰が残酷であったから。

その信仰の中では、人間も獣も全く同じ存在であり、人は特別ではないのだ。

牛を役畜として使役するように、奴隷を使い潰していた。豚をと屠殺して肉をとるように、人も食用にすることもあった。羊の子を生贄としたように、人の子供を祭壇に捧げることもあった。

弱い獣を皆殺しにして、強い獣が適者生存してゆくように、そこに生きていた人間達を皆殺しにしてその土地を奪うのは当然の事であった。

古代の信仰とはこういうものであったのだ。

まったくもって人間だからといって特別な扱いはなかったのだ。ただ力あるものが君臨して繁栄する、それが古代文明の姿だったのである。


やがて人は、優れた武器を手に入れて人は自然界の強者となり、農耕が進んで飢えからも解放される。文明の力でもって、人間は強者となってゆく。

そうすると、もう一つの”恐怖”が浮かびあがってきた。

古代文明自身が内在している”残酷さ”である。


この時、残酷な文明の中で長く生きてきた人は、ある時、気が付くのである。


”なぜこれほどに恐ろしい人生を生きなくてはいけないのか?”


そしてこう思うのである。


”『残酷な原初の信仰』は、真実ではないのではないか。

人は、特別な存在なのだ。

獣は神に祈ったり神殿に贄をささげたりしない。人だけの行いだ。

だから神にとっても人は特別な存在であるだ。

人は、神から特別に愛されている特別な存在なのだ。

だから、人と人は互いに愛の絆でつながなければならない。

それが神の意志なのだ。”

と。


こうして新たな信仰が生まれる。

”普遍的な愛”と言う概念がうまれ、これに基づいて文明が革新される。

人は新たな国を築き、新たな歴史を歩み始め、メデタシメデタシとなるのだが・・・。


しかしここで一つ問題がある。


はたして人は特別な存在であろうか。

神は人を特別に愛しているというのは本当なのだろうか。

人と人とを互いに愛の絆でつなぐこと、これが神の意志であるのは本当であろうか。


ひとたび文明の力を失うと、人はたちまちにしてか弱い生き物でしかなくなってしまう。

人の命も他の生き物の命も全く等価である、これが本来の自然の真実なのだ。

大災害が起きると、多くの人々がまさしく虫けらの様に死んでいる、その光景を見せつけられる。

人は特別な存在ではない。これが自然のありのままの姿なのだ。


神の愛・神の意志と言っているが、結局の所これは人が文明のなかで、その都合上そう言っているにすぎない。

何らかの根拠があって言っているわけではないのだ。

人の文明をやさしさで満たすために、”神の愛”・”神の意志”なるものをデッチ上げているだけではあるまいか・・・。

我々の独りよがりに、神様は苦笑いしているのではあるまいか・・・。


これは我らの世界の話であるが、この物語の世界:ヘルザでも同様の歴史をたどっている。


遠い昔、この世界の創造神:爺神は、天使アドモを遣わした。天使アドモは人に文明をあたえ、王国を建てて人々を治めたのである。

これがこの世界の人の歴史の始まりであり、この王国が古代魔法王国あるいは聖なる王アドモの王国と言われるものだ。


この王国は長きにわたって繁栄し、その魔法文明はおおいに栄えた。

その文明では魔法の力によって、家畜も農産物も鉱物もすべての物が得られ、人々は過酷な労働から解放されていたという。

現在のヘルザの世界はいうなれば中世であり、文明レベルは遠く及ぶものでない。それ故、魔法の研究とは古代魔法文明を発掘して古(いにしえ)を探ることである、というほどである。


しかし、この古代王国は残酷な王国でもあった。それは先に述べたように、文明が”残酷な信仰”に基づいていたからだ。

高度な文明をもつ残酷な王国。

低階層の人々は、奴隷として使役されていたし、家畜扱いどころか魔法研究の実験動物や実験材料として使用されることも当然の事であった。

要するに、人格を持つ人として扱われていなかった。

いや、人として名誉ある市民層と、獣と同じ扱いの家畜人層にはっきりと分かれていた・・・。


次代を経るにつれ、多くの人々がその社会の残酷さに耐え難くなってきて、古代王国は腐敗の時代に入る。

そんな時、聖ネンジャ・プが現れ、

『人はみんな、神の下(もと)で平等であり、それを分けて差別することは、最も大きな罪悪である。』

と、そう主張したのである。

多くの人々が彼の言葉に集まり、ネンジャ教団が結成されて、大きく膨れ上がる。

そして、ついに、

『この王国は暴虐の王国である。暴虐の王が治めるこの王国はすでに穢れた地となり果てた。新生の地;ヘルザに真実の神の王国を建てよう。』

彼はそう叫んで、多くの人々を引き連れて北に向かい、大河ヌカイ河を渡った。古代王国時代には北辺の未開の地であったヘルザの地に植民して、新たな国を建てたのである。


古代魔法王国と聖ネンジャ・プの国、この2つは当然のことながら対立する。そして暴虐の王と聖ネンジャ・プの両者の間での抗争が始まる。


当初、魔法王国は懐柔策でもってネンジャの国を堕落させようとする。これに対して聖ネンジャ・プは徹底した粛清で対抗した。

懐柔策では上手くいかなかったので、次に暴虐の王は、邪神達を派遣して各地を魔物の軍勢で占領してしまい、ネンジャの国の国土をずたずたに分離してしまった。

聖ネンジャ・プは邪神達を討とうとして、エルフやドワーフ達と同盟を結んだが、邪神討伐は為しえなかった・・・。


そして、聖ネンジャ・プはベルッカの地にて没した。


彼は、

『今や、私はこの身を神への贄となし、あなた方の罪を焼滅し、彼の大罪を地深くに封じようと思う。』

このような不思議な言葉を残して、自らの魔法の力でもって聖天してしまったのだ。

自殺とは言わない、聖天と言われている。


その理由は・・・、

それからほどなくして、”暴虐の王”は突然失踪してしまう。そして王のいなくなった古代魔法王国;暴虐の王国は千々に乱れて滅んでしまったのだ。同時に、古代魔法王国のあった地には魔物があふれ出し、古代文明は完全に滅び去ってしまった。

今やその地は、魔物が支配する”魔の森”となり果ててている。


まさしく聖ネンジャ・プの贄に神が応えて、天罰でもって暴虐の王国を滅ぼしたというわけである・・・。


残されたネンジャ教団の人々は、そのままヌカイ河をさかのぼって魔物のいない土地を見いだし、そこをサムエルの地と名付けて本拠地とした。そこからヘルザの各地に教団の聖職者を派遣して、人々を導いてきたのがネンジャ教会の歴史である。


教会の聖典である旧誓書・新誓書には上記の事が記されている。


それはさておいて、ネンジャ教会は、古代王国の信仰を徹底的に批判し、そして神との新たな契約、つまり新たな信仰により、”人は神の下において特別な存在である”、と主張している。つまり、普遍的な愛の信仰を唱え、人間の存在を新たに定義したのである。


ネンジャ教会の活躍により、古代王国とは全く異なった倫理観;人道主義(現代の我々のものとは差があるが)に基づいた社会が出来たのだ。

ネンジャ教会は神との新たな契約:普遍的な愛の信仰を掲げ、人道主義に基づいた社会を作り上げ、新しい歴史を紡いでいる。


しかしながら、神の方からしてみると噴飯もののとんでもない話なのである。


ネンジャ教会は人に都合の良い契約を勝手に捏造して、神と新たな契約を結んだとほざいているのであるから。


てっぺん禿げ白髪の爺神は宣う、

”お前らの言う神様とやらは、もはやわしのことではないらしい。お前らが自分達の都合の良いように勝手に考えた神であり、わしには何の関係もない”、と。

”お前らがいかに『これが真実の信仰なり』と叫ぼうとも、わしに言わせれば、『そうなんだろうよ、お前らの中ではナッ!』というよりほかない。”

”そもそも、わしが語り掛けてやっても、自分らの意に合わなければ、あれは神を騙った偽神じゃとかぬかしおる。もはやお前らはわしの言うことに聞く耳も持たぬ、自身の内なる声にしか耳を貸さぬ、”と。


しかし、同時にこうも宣うのである、

”これも人の成長であり、この世界の発展の一つなのだ、”と。

”つまり、これは親離れのようなものであり、今はただやさしく見守ろう、”と。


というわけで、このてっぺん禿げ白髪の爺神は、ネンジャ教会を認めてはいるが、少し冷淡で距離を置いている。


ところで、この世界には今一つの信仰の場がある。

神社と呼ばれているもので、これはどういうものであろう。

信仰の対象が、教会と同じ神(てっぺん禿げ白髪の爺神)に繋がるとはいえ、古代文明の信仰の生き残りのような存在である。

教会の勢い盛んな現在、もはや神社の教理を口にすることはほとんどない。古代から連綿と続いてきた神社だが、聖ネンジャ・プが現れて以降、教会からの徹底した批判に洗い晒されて、その教義なんぞはほとんど何も残っていないのである。

日本の神社のようなものなのだ。


ただし、ここには教会にないものがある。神の痕跡である。


てっぺん禿げ白髪の爺神の起こした奇跡や、古代王国の時代から続く神からの遺産は、すべて神社のものなのだ。


また今日においても、爺神が人の世界に介入する際には神社を利用する。

例えば、貨幣の鋳造は神社にて神のお告げに基づいて行われ流通が調整されている。文字通り神の手なのだ。

大事なお告げも神社にて出される。文字通り神託の社なのである。

それゆえに神社の存在そのものは教会も否定できない。

教会の聖職者も神社にはよく参詣するし、教会の誓書には神社に残された古代文書が多く含まれている。そして神社の神官や巫女が祭りの時に発現させる高位魔法を神の技として認めざる得ないのである。


さて、現代の教会に話を戻す。

東のかなたサムエルの地:現在ではサムエル公国となっているが、そこに教皇様がおわして直轄している小さな国がある、教皇国という。ここを本拠として、ヘルザ全体に広がる教会が組織されているのだ。


もっとも彼らは直接政治的な権力として存在しているわけではない。あくまでもその立場は国家権力に対して支持勢力であり、同時に批判勢力でもある。


そして、それぞれの国の教会の有り様は、それぞれの国に合わせた姿となっている。

テルミス王国では、教会は王権とは独立した立場を強く保ち、数多くの修道院を有している。そこでは、信仰を追求する聖職者である修道士だけでなく、学問の修業を目的とする俗人も数多く居て、正規の修道士の指導の下に学生や修行者として生活している。

エリーセのように精神的な療養を目的とする者もいる、件の3魔術師のように謹慎のために修行に放り込まれたものもいる。最も多い例は、治癒魔法や聖魔法の修得のために修行している者達(;騎士達がほとんど)である。このような場合は、滞在費用としてあらかじめそれなりの寄付がなされるので、教会としてもいい収入源にもなっているのだ。

同時にこのような修行者から本物の聖職者への道を進む者も少なからずあり、人材の供給源ともなっているのである。


エリーセが入ったのは、王都にあるテルミス中央修道院で、大きな図書館や魔法の修行所があって、テルミス王国の学問の中心ともなっている施設だ。ここでの修道士の多くは魔法や学問の指導者でもあり、地球でいう大学のような場所であり、雰囲気も良く似た施設なのである。

この中で、エリーセは先達の修道士の指導のもとに学生(がくしょう)の一人として、聖魔法・治療魔法の修業やグリモアール・古代文書の学習を進めていくことになる。


もちろん、より厳しい環境下でまさしく修行に明け暮れる生活を強いる修道院もある。

ヌカイ河の向こう岸、魔の森に囲まれたバルディ城郭都市(地勢についてはいずれ詳しく)にあるバルディ修道院がまさにそれで、修道者達は、周辺の魔の森から現れる魔物と日々戦いながら、修行に明け暮れることになる。

件(くだん)の3人の魔術師はここで修行というより魔法の研究に励んでいる。



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いささか屁理屈の多い章であります。物語の背景説明をしておかなければ、と考えて書いたわけでありますが、こだわり過ぎかもしれません。

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