第伍話
虫の音が聞こえる。
……違う。虫ではない。目の前の不定形からである。不定形が蠢いてやがる。気持ちわるい。
その不定形、人間の体から生えている。脇なのか背中なのか、とにかくどうやって生えているんだこれ?男の目は虚ろで、焦点が合っていない。顔色も土気色である。生きているのかこいつは?
『来るぞ!』
魔剣が察知する通り、不定形が針のように変形しながら俺に襲い掛かってくる。躱せないと死ぬ気がする。
どんどん変形して襲ってくる不定形。ある時は針、ある時は棍。変形する速さも異常だ。身体のあちこちが痛い。後ろ跳びに跳んで距離を置く。奴も追ってくる。
そういえばそうだった。俺はふと、手元にあるこーらを思い出した。
口に含む。飲む。
ってそうじゃない。疲れがとれる気がするが、僅かに。気を取り直してもう一度口に含む。奴が近づいて変形してこちらを攻撃する瞬間、俺はさらに飛び込んで接近し、奴の顔面に思いっきり吹き付けた!こーらをな!!
「!&%$!?」
奴が奇声を発する、だけではなく、不定形まで悶絶してやがる。
「魔剣、これって」
『どうやら奴らは一心同体だな』
「つまり人間という弱点があるということか」
『そうだな。斬るか?』
それはまずい。俺が殺人犯になってしまう。
「人間は斬らずにぶっ飛ばしたいところだが」
『ならあの不定形を斬るしかない』
「斬れるよな?」
『確証はない』
おいおい、そこは斬れると断言してほしかったぞ。再び奴が変形して襲い掛かってくる。いや、これは……空が、暗くなったぞ。宵闇にしても急激すぎる。
「おいおいおいおい!どこに逃げればいいんだ!?」
『
そのまま、広がった不定形が俺の上に覆いかぶさってきやがった……避けられ……
……俺の両親が死んだのは俺が物心つくずっと前だ。
どうやら文明開化とやらで、外国から入ってきた病気が原因らしい。
……外の国から入ってきたものなどろくなものがない。
俺はしばらくすると親戚の家に預けられた。いつも腹をすかしていたのを覚えている。表立って何かを食べるとかそういうこともできない。ことある度に殴られたからな。親戚の家ではできることをやらされる代わりに、本当にごくわずかの口に糊する程度の飯だけを出された。
そんな日々を送っていた、六歳のある夜のことだ。
離れで横になり、腹を空かせていた俺は、眠れなかった。不意に、磯の臭いがした。誰かが魚でも持ってきたのだろうか。
……母屋の方で叫び声がし始めた。母屋の叫び声が大きくなっていき、やがて、静かになった。一体何があったのか?そう思って部屋をのぞき込むと、異形が、口を開けていた。
……俺は真っ暗闇の異形の口の中に飲み込まれていった。
しかし、この異形の存在。磯の匂いがする。俺はその身体の一部に喰らいつき、噛みちぎった……なんだこいつ、美味いぞ。取り込まれながら食い続ける。当然のように異形が暴れ始めるが知ったことか。
臓器を食いちぎるうち、さらに美味いものにたどり着いた。卵だ。魚の卵のような雲丹のような……
ちょっと前に寿司を星御門に食べさせてもらったが、その味に似ている。三十貫も食べたのはさすがにまずかっただろうか。星御門が頬を引きつらせていたのはおいておこう。誰だよ鮪が猫またぎなんて言ったの。美味いだろ。
卵を食らううち、俺は……あれ?俺はどうやってあそこから出た?そして親戚はどうなっていた?そのあと俺は寺の爺のところに連れていかれて
……そもそも俺はどうなっていたんだ?
『……お、おい馬鹿やめろ!何をやろうとしている!?』
「……は?」
気が付くと俺は魔剣を地面に刺し、力任せに男の腕を引きちぎろうとしていた。慌てて止めたが、不定形は地面でぶくぶくと泡となって消えて行っている。男の方も泡を吹いている。蟹か。
「おい、魔剣」
『なんだ?』
「……俺は今何をしていた?」
『力任せに不定形を切り裂いたかと思うと、男の後ろに回り込んで不定形を引きちぎっては投げた』
「は?」
……おい、待てよ。それじゃ俺が……化け物みたいじゃないか……
『そのあと、散々引きちぎるだけでは物足りなかったのか、力任せに我で切り刻みはじめてだな。そして何故か腕も』
「……もういい。大丈夫だ」
こーらの瓶が転がっている。どこかで投げ落としたのだろう。
男の方はといえば運よく斬ったのが不定形だけだったのか、かろうじて生きてはいるようだ。服でふんじばるか。
『胸のところに何かあるぞ』
「こいつか遺物は」
とりあえず直接触るのはまずそうだな。そこらへんの枝を箸代わりにして、こーらの瓶に遺物を入れる。しかし、いったん下りないと日が暮れそうである。
真っ暗になる前に……おお。
「工事現場か?……これ、伝っていけば降りられるか」
『ふぅ……全く手間なことだ』
俺はこうして、なんとか摩耶山から降りていくことができた。
近くの交番で電話を借り、星御門の家と警察に連絡する。
警察では、阿片でもやってでおかしくなった犯人をつかまえたということにしているようだ。暴れていたのでやっとのことでふんじばったということで、何とか納得してもらい、犯人の回収を依頼する。
這う這うの体で星御門の家に帰りついたときは、すでに真っ暗になっていた。
「いきなり出会うとは……運がいいのか悪いのか……」
「道に迷った上だったがな……だが、こいつをみつけた」
俺はこーらの瓶に入った遺物を見せた。
「……確かに遺物ですが……今度からちゃんとしたものに入れてはいただけませんか?」
星御門の弟に渋い顔をされる。いわれてみればそうだな。こーらで汚れているのでは、せっかく回収しても扱いに困るだろう。
「まさか昨日の今日で遭遇するとは思わなかったぞ」
「準備不足でしたね」
まったくである。明日以降は拳銃でも欲しい。
「こちらとしては信奉者たちの足取りは全然つかめませんでした。よもやすでに顕現しているとは思っていませんでしたし」
「そうだな。なんだか虫みたいな鳴き声してたが、あれはなんだ?」
「虫みたいな!?まさか……ショゴ……いえ、ありえない……」
「危うく潰されるところだった」
「お気を付けください。邪神は、本来ならば人の身では太刀打ちなどできぬはず」
そんなもんなのか?できないんだったら、人間はさっさと邪神とやらに滅ぼされておしまいではないか。
昔どこかで、何度も人間は滅んだという記事を読んだことがある。でももし滅んだんだったら、人間はどうやってまた増えたんだろうか。もし邪神が人間を滅ぼそうとしたとして、本当に人間は太刀打ちできなかったのだろうか?ふとあの夜のことを思い出した。
腹が満たされた俺は、親戚の家族の死体と怪物の死体を見て
……笑っていた。
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