*人魚の邂逅

 かつて泡になった人魚を思い出す。


 幼い頃、両親から伝え聞いた御伽噺おとぎばなし。王子に恋をし、声と引き換えに両足を手に入れた人魚のお姫様は、しかし実らぬ恋を抱えたまま消えてしまった。

 小さいながらに、そうはなるまいと心に決めていた人魚像だ。


「……そのはずだったのだけど」


 まるで、その御伽噺を辿っているかのようだ。白い砂に横たわる男を見て、私は早くも自分の行動を悔いた。





 海に放り出された人間の男を見つけたのは、偶然だった。

 少し前、真っ赤な夕陽が沈んでいく中、私は海面に顔を出した。今日は波も風も荒れているようだったから、地上はどうなっているだろうと景観を心配したのだ。


 海はこの世界の均衡を保つ役割を担っている。うっかり陸地を侵食してはいけないのだ。以前、大地が揺れた。その時人間の世界では、ツナミ、と表現されていただろうか。何にしろ、陸地を侵したことに変わりはない。

 たとえ存在を知られずとも、人と人魚が共存していく世界を、母なる海は望んでいる。私たち人魚の一族は、人を害することは極力しないのが常だ。


 話を戻そう。


 海でもがき、やがて力なく深海へ沈んでいった男は、船の上から誰かに背を押されたようだった。海面の向こう側から「死んでしまえ」と不穏な呟きが聞こえた。

 不意の出来事。男は目を白黒させ、苦しげに顔をしかめた。


 気を失った男を抱えたのは、同情心が強かったからに違いない。きっと仲間に裏切られたのだろう。このまま死んでしまうのはかわいそうだ、私はそう思った。


 人目につかない所へ男を引き上げたものの、足を持たない私には、彼を目覚めさせることは困難だった。私は浜辺に行けない。たとえ這って行けたとしても、外気に触れて鱗がかわいたら、私の方が死んでしまう。声をかけるにしても、意識を取り戻して私に気付く、なんてのは避けたい道である。


 人魚の存在は知られてはいけない。母も父も人間を警戒している。二人とも、これは掟なのだと私に言い聞かせた。何度も何度も。


「大丈夫よね」


微かな息遣いが聞こえるのだから、生きている。私がここを去っても、何の問題もない。

 だというのに、後ろ髪を引かれる想いが、私の動きを止める。


 このまま放っておくのか?

 今夜はいっそう海が荒れる。男が目覚めず、そのまま波に呑まれてしまったら、また死にかけるのだろうか。この青い美しい海で命を落とすのだろうか。


 不安がぽつりぽつりと胸に広がっていく。私はため息をいて、男の様子を、岩の陰から窺うことにした。


 ここなら鱗がかわくこともない。


 私は月が昇っても、その場を離れなかった。男はまだ夢の中。


 大丈夫だ。

 私は御伽噺にはならない。

 絶対に——。







 その時、男が目を開いた。瞬く。起き上がった彼と、目が合った。


「——っ」


 声にならない悲鳴を上げたのは、果たしてどちらだったか。

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