*妖と菜の花

 菜の花が辺り一面を鮮やかに彩る。日の光を浴び輝かんばかりの花々は、まるで太陽そのものみたいだ。



 思い出すは、人である彼のことばかり。




 彼は明るい人だった。そして誰よりも優しい人であった。道の傍らでしおれた草を見かければ水を与え、路地に咲く小さな花にも気を配る。生き物全般と言うより、植物をこよなく愛する人だった。

 彼を初めて見たのがいつだったか、私は覚えていない。けれど、彼の声はよく覚えている。

 ある時は、すくすく育つ向日葵ひまわりにはにかむ彼。

「来年も楽しみにしているよ」

 まるで友人に語りかけるように、彼は喜色を帯びた声を出した。

 またある時は、すっかり枯れてしまった草花を見て、肩を落とした彼。

「元気にしてやれなくてすまない」

 眉を八の字にし、情けない声を絞り出していた。

 幾度も出会った彼は、何年経とうが、その人となりは変わらなかった。



 そんな彼が一等慈しむ目を向けていたのは、菜の花畑だった。……私が根城にしている場所だ。

 青年と呼ばれる時期はとっくに過ぎ去り、皺くちゃになってもなお、彼はここへ足を運んだ。今思えば、日課のようなものだったのかもしれない。

 彼に連れ添う人がいたのかどうかも分からないが、私は彼の目がいつも植物に向いていることは知っていた。

 綺麗だなあ。そう呟く彼は、もはや杖を持たねば歩くこともままならない状態だった。

 私は胸の奥深くでチリチリと痛むものを感じた。

 綺麗だなあ。彼がここを訪れ、そう呟くたびに、私の胸の奥に痛みが走った。どうして痛むのだろう。答えを知りたくて手を伸ばせど、彼に触れることも、彼がこちらに目を向けることも、一度だってなかった。





 綺麗だなあ。彼が呟く。

「今日は、お別れに来たんだ。寿命というのは、どうにもならないなあ。ワタシは、まだまだ、いけると思っていたのだけど。君たちよりも、先に枯れてしまうよ。どうせなら……どうせなら、君たちと共に終わりたかった。……いや、すまない。置いていくのは、ワタシだな」

 泣きそうな表情で笑う。

「菜の花よ。ワタシの愛した菜の花よ。これからもずっと元気でいておくれ」



 翌日、彼は菜の花畑に来なかった。



 彼を思い出すと、未だに胸の奥が痛む。それは途方もない痛みだった。

 彼の姿が見えない。

 彼の声が聞こえない。

 彼の目が私に向かないことなんて、最初から知っていた。分かっていたのに、どうしてこんなにもむなしいのか。どうしていつまでも彼の面影を追ってしまうのか。

 私はこの菜の花と同じで、ここから移動することができないから、彼がどうしているのか知る術がないというのに。私の目は、耳は、いつも彼を探している。

 ジクジク。ジクジクと、胸が痛い。

 ——寂しい、と心が叫ぶ。











 あれからどれほどの年月が流れていっただろう。菜の花はあの日と変わらず咲き誇っている。その鮮やかな色彩は、彼の言葉を鵜呑みにしたかのように、元気で溌剌はつらつとしていた。

「綺麗だなあ」

 私の呟きは空気に溶けていった。

 ——思い出すは、植物を愛し、その生涯を終えたあの人のことばかり。

 思考を遮るみたいに、風が吹いた。優しくてあたたかい風だ。菜の花が揺れる。


 綺麗だなあ。


 彼の声が聞こえた気がして、私はぽつりと笑みを咲かす。

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