*あやかしは湖にて
「一つだけ願いを叶えてあげよう」
人でない彼女は、瞳を輝かせてそう言った。
それは、ある日の夕暮れのことである。水の中にいないと落ち着かないと言う彼女は、いつも澄んだ湖で日々を送っていた。
おれはもう何度もその湖を訪れているので、彼女が今更どうということはない。人間そっくりの姿をしている彼女が、魚のように水と戯れていても、見慣れた光景だ。むしろそうでなくては彼女ではない。
「一つだけ、願いを叶えてあげよう!」
冒頭よりも少しだけ声を張り、彼女はおれに視線を投げかけた。その顔はどこか不満げだ。同時に、だんだん彼女との距離が短くなってきていることにも気がついた。
おいおいと思ったし、実際に言いかけた。
湖辺の岩に腰掛けるおれを湖に落とそうと画策するとき、彼女はおれに近づく。そのことを思い出したのだ。
彼女の手が伸ばされる。
「願い」咄嗟に口を動かした。「願いを叶えてくれるんですか」
彼女はキョトンとした後、腕を下げ、おれから離れる。元々いた位置まで戻ると、振り返って笑みを浮かべた。
「そうだ! 一つだけだけどな!」
わはは、と豪快な笑い声を上げる。
おれはため息をつきそうになった。いつもながら、彼女の調子についていける気がしない。
「それなら湖に落とそうとするの、やめてくれません?」
おれの返しが気に入らなかったらしい、彼女は頬を膨らませた。
「おまえが私の話を聞かないからだろう? さっきだってぼんやりしていたではないか」
「それは、あなたがいきなりおかしな事を言い出すから」
「私は願いを叶えてやると言っただけだ。おかしくも何ともないぞ」
「おかしいですよ。今の今まで、一度だってそんな事を言ったことがありましたか?」
おれの言葉に、彼女は考える素振りをしてみせた。
「そういえば、言ったことはなかったな。確かに、おかしいかもしれん」
あっさり。
「そうですよ。本当、いきなりどうしたんですか」
おれと彼女は慣れ親しんだ仲だ。友人というには少し距離が遠い気がするが、かと言って知人という枠にも当てはまらない。
要は、彼女が「願いを叶えてあげる」と言うことに疑問を持つくらいには、互いに気心の知れた仲なのである。
「どうしたと言われても。
「巷って、あやかしの間でそんなのが流行ってるんですか? 妙なもんですね。てっきりあやかしは神様が苦手なんだとばかり。正反対な存在でしょうし」
「あながち間違いではないがな。だからこそと言うべきか。おまえも理解しているだろうが、私たちあやかしは、人の子に怖がられるのが常だ」
そうだな、と湖の中に立っている彼女を見て、頷いた。
「ならば、神様の真似事でもしてみよう、今なら仏様にもなれる気がする、なんて言う輩が増えていても何ら奇怪なことではない。誰だって、怖がられたら嫌でしょうが」
「いやなにその口調」
というか。
「あやかしって怖がられてこそじゃなかったんですか?」
「勿論そう思っている奴だっているさ。だがまあ、私は怖がられるより好かれていたいから、そいつらのことはよく分からん」
閑話休題。
「それで? おまえの願いは何だ?」
私が叶えられる範囲で頼む、と付け加える。
おれはほとほと困り果てた。
願い。ないことはない。そう、あるにはあるのだが、しかし。おれは彼女に目を向ける。
「…………」
彼女に願うとするならば、出来るだけ叶えやすい、至って普通の内容が良いだろう。神様の真似だと言ったように、彼女は神ではないのだから。人間離れした力は確かにあるが、それは微々たるものであり、ある日いきなり生活が変わってしまうような事象は引き起こせない。それが彼女の限界だ。
では、どうする?
彼女の機嫌を損ねると、また湖に落とされかねない。
「う、うむ。大いに悩みたまえよ」
大義そうに言う。
おれがここまで悩むとは思っていなかったようだ。彼女の様子を見て、肩の力が抜けた気がした。
そうだな。
素直に言うとしよう。
「これからも、あなたとこうして話がしたいです」
照れ臭いが、むしろ言ってやったぞと爽快な気分だった。
大掛かりなことは願えない。
生活に関することも願えない。
彼女に叶えてもらう願いなら、そんなことは、おれは絶対に願わない。
「そっ、それで良いのか? もっとこう、幸せになりたいとか、裕福になりたいとか、将来の伴侶が欲しいとか、そういうのは⁉︎」
「願いません。大体、幸せになりたいとか言ったところで、叶えられるんですか?」
「も、勿論だとも。多分、おそらく、きっと。何だ、変えたくなったか?」
「変えません。どうしてそんなに見栄を張るんです。それとも、おれと話すのが嫌なんですか?」
「嫌……では、ないけれども。だが」
「それならしっかり叶えてくださいね」
「え。えー?」
彼女は未だに当惑していたが、おれは気にしないふりをした。
「わ、分かった。おまえの願いを叶えよう! ただし、寿命を延ばすとかは出来ないからな。無理だからな! せいぜい会う時間が増えるくらいのことしか」
取り繕うように宣言する彼女。おれは知らず知らず笑みを浮かべていた。
おれは人の身でありながら、人ではない彼女と出会った。実年齢はおれよりはるかに上のわりに、言動は子供に相当する一人の少女。
彼女を見ていると、心が躍る。楽しいと心底思うのだ。
「……おかしいなあ。願いって言っても、こういうのがくるなんて聞いてないぞ。まったく……」
——だから、彼女の文句も小言も恨み言も、全て知ったことではないのだ。
たった一つ願いが叶うなら、おれはこの身が朽ちるまで、彼女と話をし続けよう。会い続けよう。
〝ずっと″は口が裂けても言えないが、それでも、おれは最期まで彼女を見ていたい。彼女の傍にいたい。
この気持ちはきっと誰にも分からないだろう。言わなければ、誰もが気づかない。だからこれは、おれだけの願いだ。
人間とあやかしは、同じ時を同じぶん歩めないから。
おれは、彼女を置いて、自分の幸せを願ったりなんかしない。
……なんてな。
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