*妖と春 1
春が過ぎれば、僕は三つの季節が去るまで眠りにつく。桜の木が僕を起こしてくれるまで、僕は眠り続ける。その間、僕の意識は虚ろを
これから記すのは、僕の記憶に最も根付いている、とある時代の少女の話。
桜の木と僕、そして一人の少女との縁が繋がったときの話だ。
春の次に勢いよくやって来るのは、夏という季節だそうだ。桜の木もその季節では新芽を出して、緑の葉を身につける。太陽の日差しが地面を焦がし、生ぬるい風が吹く。虫たちは活発にその姿を見せ始める。
そんな夏の日に、突然、彼女が現れた。
桜の木はそう語り始めた。僕が目覚めたばかりの、最初の話だった。
「——母様、父様! 見てください、立派な木です! きっと桜の木だわ!」
まだ成熟していない、あどけない少女。着物が汚れてしまうかもしれないのに、それも構わず、少女は桜の木に駆け寄った。両親は少女の後ろで微笑んでいる。
「あらあら。本当に立派なものですね」
「そうですなぁ。見事なもんだ」
感慨深そうにほおっと息を吐く彼らに、桜の木はたまらず枝を揺らした。はらりはらり、花びらの代わりに、葉っぱが宙を泳ぐ。すると、少女の黒い瞳がいっそう輝いた。
「まあ! 葉が踊っているみたいだわ! なんて美しいの」
桜の木は嬉しくなってさらに枝を揺らした。その度に、少女は、恋する乙女さながらに頬を染め、両親に呼びかけてはまた空をゆく葉の行方を追うのであった。
なんと愛らしい。桜の木がそう見守っていると、不意に、少女の視線がある一点に落ち着いた。何の意味も持たない、極めてゆったりとした動き。
少女は、木の根元に眠る僕を見つけた。
僕を見て、まず驚き、そして恐る恐る歩み寄った。桜の木は枝を揺らすのをやめて、少女の動向を伺う。流石に桜の木も、少女が僕を認識するとは思っていなかったようだ。
当然、僕はそのとき眠りについていたわけであるから、少女のことなどは知る
少女は僕の前にしゃがみ込み、そっと口を開いた。
「ねえ。あなた、こんなところで眠っていては危ないわ。ここらは人の気配がしないもの。人攫いに遭うかもしれないわ」
心配してくれているようだった。
「ねえ」
返事をすることも、ましてや起きることもしない僕に、少女は眉をひそめた。
「……ねえ、起きなさいよ」
そうして僕の肩に触れようとして、少女は固まった。
「そろそろ戻らねば。おいで、私たちの愛し子。屋敷に帰ろう」
少女の父が手招く。
「わ……わかりましたわ。父様」
小刻みに震える唇をきゅっと結んで、少女は両親と共に行ってしまった。
夏が過ぎると、緑一帯の山は
秋風が桜の木を覆うように優しく吹く。僕はまだ眠ったままである。
桜の木は「桜の木」であると分からないくらい、春とは姿形が違う。夏に桜の木が「桜の木」だと分かったあの少女は、今頃どうしているだろう。もしも春に来てくれたならば、「彼」と話すことが出来ただろうに。
桜の木は想う。早く眠る「彼」と話がしたい。春が待ち遠しい。
ふと、人の気配がした。
遠くから旅をしてきた赤色の葉を踏みしめて、それは近付いてくる。
誰かと思えば、夏に見かけた少女だった。少女は何やら深刻そうに歩を進める。「彼」の前で立ち止まった。
「また」少女が口を開く。「また眠ってるのね」
少女は「彼」の隣に腰を下ろした。
「この前、あなたに触れようとしたら、わたしの手がすり抜けたわ」
桜の木はおや、と思った。
「……あなた。人じゃないのね」
独り言に過ぎないそれは、紛れもなく、少女のものだった。
冬の訪れ。肌寒い空気は、人を弱らせるには十分だろう。辺りはすっかり雪景色。
そんな中、桜の木は、自身のからだに花の
嗚呼。
あともう少し。この冬を越せば、「彼」が目を覚ます。
春よ。早く来ておくれ。「彼」に、あの少女のお話を語りたいのだ。
「こんにちは」
ぎょっとした。その弾みに一、二本の小枝が木から落ちていく。
あぁっ! 折れてしまった!
「また眠ってるのね」
その言葉で桜の木はショックから立ち直った。服は違えど、顔立ちは変わらぬ。あの時の少女だった。
少女は秋の季節でもそうであったように、「彼」の隣に座った。以降、何も話さない。ただ傍にいるだけ。
夏に一度、秋に一度。そして今も。少女は此処を訪れた。何をするでもなく、「彼」の傍でじっとしている。
どうして、そんな意味のないことをするのか。少女の行動は不可解だった。だが、桜の木は悪い気はしなかった。
「彼」に寄り添うようなひとは、自分以外にいなかったのだ。少女だけが眠る「彼」の隣にいる。
桜の木は、何故だかそれが嬉しいの感じた。
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