第49話『白と黒の狭間で』

 視界が真っ黒に塗りつぶされたと思ったら、次の瞬間には白と黒の二色だけの世界になっていた。

 目の前は黒い世界。そして俺の足元を境に後ろは白い世界に二分されており、自身の身体はぎりぎり白い世界の中に立っていた。


 もちろん周りには誰の気配もない。

 ここは天国と地獄の狭間なのだろうか。


「セブン」


 一面に広がる見たこともない世界。興味を惹かれて辺りを見回していると、唐突に自分の名を呼ぶ声がした。

 あの世への水先案内人か? とも思ったが、その声は妙に聞き覚えのある声で。

 しかし、いくら探しても声の主は見つからない。


「ここだよ。キミの足元。さっき一度目が合ったと思ったのに」


 二度目の呼びかけ。

 溜息を吐かんばかりの口調に視線を降ろしてみると、俺とは逆の黒い世界に小さい人形のような姿をしたそれが立っていた。


「……小さい邪精霊?」


「外界のワタシがあんな恥ずかしい姿をしている以上、そう呼ばれるのは甘んじて受け止めよう。けれどね? 今キミの目の前にいるワタシをそんな風に呼ぶのはやめてくれ。第一、色が違うだろう。色が。キミにはワタシの色が何色に見えるんだい? 外のワタシは邪の思念に染まってしまった黒。だが、ここにいるワタシは白いだろう? 今しがたキミの兄に少しだけ聖の思念を分けてもらい、自我を取り戻し——、おい! 頭をつまんで持ち上げるんじゃないっ。降ろしてくれ!」


 姿を認めた途端、ものすごい勢いで話しだした手のひらサイズの邪精霊もとい、白い何かを無言で目線の高さまで摘まみ上げる。

 頭をつかまれて身動きが取れず、じたばたと手足を動かしながら喚くそれに、今度はこちらが溜め息を吐きそうになりながら話しかける。


「勘違いしたことは謝るよ。けど、話が長い。できればもっと簡単に説明してくれないか?」


「やれやれ。千年ほど前に尋ねてきたあの森族の女王もそうだったが、最近の者はせかっちだな。——ワタシが《精霊の王》と呼ばれる存在だ」


 本当は首を振りたかったのだろうが、頭が固定されているため代わりに身体を揺らしながら彼は名乗った。

 こいつが《精霊の王》か。なんとなく予想はついていたけれど、すごく——、


「残念だ……」


「おい、今のはワタシに向けて言ったのか!? なぜそんな表情で見るんだっ。せっかく得られた残り少ない力でわざわざ謝罪に出向いたというのに!」


 もっとこう、ケリュネアのように落ち着いた知的な存在かと思っていたのに。

 ……ん? 謝罪?


「どういうことだ? なんで謝罪なんか」


「……セブン、ここはキミの精神空間。つまりは心の中なんだ」


「俺の心……」


 そう告げられて改めてあたりを見渡す。

 目に映るのは最初に見たときと変わらない白黒半々の世界。

 思わずがくりとうな垂れ、肩を落としてしまう。


「俺の心の中ってこんなに黒い部分があるのか……!?」


 そりゃ、根っから自分のことを清廉潔白だとは思っていない。

 ここに来るまでに色んな思いを抱えてきた。その中にどす黒い感情を抱いたときだって何度もある。だけどこれほどとは思いもしなかった……。


「……はぁ。なにを言ってるんだい。キミの立っている場所をよく見てごらん」

「——?」


 しかし、現実に打ちのめされているところに、今度こそ本当に溜め息を吐いた《精霊の王》の言葉を受け、顔を下に向けたまま視線を足元に向ける。


 そこにはやはり、白い地面に上にある己の足。

 その爪先を境に、世界は分けられている。つまりは。


「わかったかい? キミの心はほとんど白一色。聖の思念に溢れている。黒い染みなんて世界の隅っこにしか転がってないよ」


「……こんなに真っ白なのもあんまり信じられないな」


「だからこそ邪の思念に染めあげられ、邪精霊となってしまったワタシはキミを欲したんだ。——キミの心を喰らい自らを浄化して、もとの姿に戻るために」


 最後の方は、心底申し訳なさそうな声音になって《精霊の王》は言った。

 その言葉で理解してしまった。


 この眼前に広がる黒い世界。

 それが俺の心でないなら、一体なんなのか。

 《精霊の王》は訥々と語りはじめる。


「ワタシという存在は人の思念、願いを力に変える。キミたちで言うところの呼吸と同じだ。——願いを集めてしまう。それが良いものでも、悪いものであっても」


 その台詞で思い出したのは、以前ケリュネアが言っていた言葉。

『精霊はその意志に関係なく力を与えてしまう。良いものでも悪いものでも』

 きっと、彼も同じなのだ。その自身の本質に否応などないのだろう。


「この土地に人の国が建って以来、邪の思念は爆発的に増えた。もちろん邪の思念も力だ。しかしそれは、『災い』を秘めている。それを浄化するのは対を成す聖の思念。しかし、入ってくる邪の思念に対し、正の思念はあまりにも少ない。……ワタシはもはや破裂寸前だった」


 そのときふと、目もないのに《精霊の王》から視線を感じた。

 言葉をまるで、その視線の先へ向けているように。


「そんなときだ。数年前、とてつもない聖の思念を持った者がこの土地に現れた。その思いの力は邪の思念と拮抗するどころか、勝り押し返すほど。……だが、ある日忽然とその力はこの土地から失われてしまった。——セブン、キミだ」


 放たれた《精霊の王》の言葉に愕然としてしまう。

 それはつまり——、


「俺がこの国から去ってしまったから、こんな事態に……?」


「キミは悪くないよ。これは人が自ら招いてしまった災いなんだから。

 ……破裂して災いとなったワタシに自我など残されていなかった。あるのは元に戻りたいという欲求のみ。

 手当たり次第に邪の思念を振りまき聖の思念を求めた」


 心臓が鷲つかみにされてしまったように、びくりと身体を跳ねさせてしまう。

 俺の言葉を《精霊の王》は身体を揺らしながら否定しつつ、彼は続ける。


「さっき言ったね。ワタシはキミの兄から力をもらったと。あれはキミと出会ったことで彼のうちに生まれた聖の思念をワタシが奪ったんだ。でも、彼の心は邪の思念の方が勝る。

 だから彼の心は壊れず、無事に目覚めるだろう。

 しかし、キミのように極端に聖の思念が占める者は、そのすべてを奪われたとき残るのモノがない。つまり心が壊れてしまう、それは死と同義だ。

 だからワタシは、キミに——」


「よしてくれ」


 その先を言わせないために《精霊の王》の言葉を遮る。

 自分でも驚くほどに、その声は穏やかだったと思う。今からお前は死ぬかもしれないと言われたというのに。


「これは人間が招いたことだって言っただろ? なら、あんたが謝る必要なんてないさ」


「いいのか? この澱み幾重にも折り重なった邪な思念。ワタシはそれを浄化するのに、間違いなくキミの心を喰い尽くしてしまうんだぞ」


「もう放り出されてしまったけど、ここは俺の故郷だ。なら、尻拭いする義理くらいある。

 その気持ちだけもらっておくよ。ほら、さっさとしてくれ。……もう限界なんだろ?」


「はは、キミは変わっていると言われないかい? 言う通り、もう自我も、限界。すま、ない……っ!」


 笑みすら浮かべて見せる俺に呆れたようにそう言って。

 その言葉を最後に揺れていた《精霊の王》の身体が宙に溶けた。

 つかえを失った指がわずかに震えるのを感じながら、何の心配もなく迫る闇を見つめる。


 俺の心を、思いを喰い尽くす?

 そんなの、絶対に無理だ。できやしない。


 均衡を保っていた黒と白の世界の比率が変わってゆく。

 数多の思いが俺の思いを喰い尽くさんと侵食してくる。


 身体を這い上ってくる闇を気にも留めず、ゆっくりと瞳を閉じた。

 溢れる思いの原点を。その力の根源の記憶を思い出しながら。

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