第46話『邪精霊』

 ざばり、と水から出た音と感覚。

 そして一瞬の浮遊感のあとに身体を衝撃が打ちすえ、ごろごろと転がる。


「——ゲホッ、ゲホッ!」


 おそらく引き上げられた勢いそのままに放り投げられたのだろう。

 飲んでしまった水を吐き出しているのに、肺が空気を求めるため大きく咳き込む。


 クロさんもそばにいるのか、同じように荒い息を吐く音が耳朶をうつ。

 ずぶぬれの衣服が張り付く不快感のなか、顔をぬぐい周囲の状況を確認しようとしたときには、もう遅かった。


『——よこせ』


 その言葉はケリュネアと同じように鼓膜を通さず頭に直接響いたため、相手の居場所がつかめず反応が遅れてしまう。


「危ないっ!」

「クロさん……!?」


 彼女の痛烈な叫び声をきいてすぐに悟る。自分は判断を誤ってしまったのだと。

 初めから視覚に頼るのではなく、精霊知覚をしていれば。

 取り返しのつかない失態に後悔する間もなく、その身体を闇に包みこまれている彼女は音をたてて地に倒れてしまう。

 

 倒れたクロさん身体には黒い管のようなものが繋がっている。

 縄は青白い光が仄かに照らす空間の奥に建てられた、祭壇のような台座の上に続いていた。


 そこに立ち、細い闇を伸ばしていたのは人間の子供のような形をした小さな影。

 だがそれは森で見た精霊をまとう人間の姿ではなく、凄まじい力を持った精霊そのものが人の形をとっていた。


 ただし、頭はあっても顔はない。腕や足があっても指はない。

 まるで出来損ないの人形のような姿で。

 

 おそらくあれがケリュネアの言っていた存在。

 正気を失ってしまった《精霊の王》なのだろう。

 小さな体から顔をしかめたくなるほどの邪悪な気配を放つこの黒い闇が。

 彼はクロさんの言葉を借りれば、まさに『邪精霊』と呼ぶべき姿に成り果ててしまっていた。


 クロさんではお気に召さなかったのか。

 邪精霊は繋げられたていた闇の管を解くと、


『苦しい。痛い。欲しい。——そのチカラを、よこせぇ!』


 脳内に呪詛をこぼしていきながら最後には絶叫し、その身体全体から先ほどとは比にならない大量の闇の管をこちらへと放ってきた。


 ……チカラ? 額面通りに受け取るなら、邪精霊は力を求めているようだ。

 加護を授ける力を持つのだから加護を求めて……?

 ならば、クロさんの《竜の加護》は今ので奪われてしまった?


 横たわる彼女を見つめるが、自分の身体ならまだしも他人の身体に加護が宿っているかなど分かるはずもない。

 しかし、これ以上思案している暇もなかった。


 いぜん意識の戻らないクロさんの身体を抱きかかえて怒涛の勢いで押し寄せる管から逃げる。


 が、しょせんは普通に走っても数秒で壁にぶつかってしまう程度の広さしかない。

 逃げ場はあっという間になくなる。


「——《刻め風刃》!」


 試しに魔法をぶつけてみるも、一瞬だけ動きを止めるのが関の山。

 たちどころに修復され、再び襲い掛かってくる。

 壁を蹴り、どうにか隙間をかいくぐろうとするが——、


「くっ……!」


 ひときわ太い束が解かれ、わずかに通り抜けられなかった剣が闇に絡めとられた。

 すぐさま剣帯を引きちぎろうとしたそのとき、不可思議な現象を目の当たりにする。


 じゅっ、と音をたてながら剣に触れた黒い管が霧散したのだ。

 そして。それに驚いたのは自分だけではなかった。

 ぴたり。ふいに動きを止めた何本あるかも分からないその大量の管が、いっせいに邪精霊のもとへと引き戻されていくではないか。


 ——この神鉄で作られた剣は、もとは加護を宿し、その力は精霊を媒介に『力』の発動を行っていた。ひょっとするとこの剣ならば邪精霊にダメージを負わせることが可能なのか?


 クロさんをそっと地面に降ろして白金色の剣を抜き放ち、正中に構えると仄暗い《願いの坩堝》の中にあって、その刀身は頼もしい光を放っているような気がした。

 ありがとうスルト。お前が言った通り、さっそく助けてもらったよ。


 視線を下げエル・スルトを柔らかく見つめているとひゅんっ、と風を裂く音がする。

 見れば、邪精霊が警戒するように頭上でくゆらせていた闇の群れを、鞭のようにしならせて加速させ——、

 それが最高潮に達し断続的な音が甲高い一本の音になったときには、黒い閃光は目と鼻の先にまで迫っていた——それを、一閃のもと全て切り伏せる。


『!』

「——よし、斬れる!」


 邪精霊から漏れ出る動揺の思念を感じながら、にっと口角を上げた。その直後。

 視界の端で銀の流星が閃いた。


 ぎしりと腕が軋みをあげる音を耳元で聞きながら、間一髪でこめかみを打ち抜こうとした驚速の蹴りを受け止める。

 不意打ちが失敗に終わったことを感じ取った蹴りの主は即座に間合いを取った。


「最初の攻撃のときか……」

「わが、キミ」


 ——そこには全身が黒い気配に包まれ、幽鬼のごとく立ちふさがるクロさんの姿があった。

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