第一話 『バルトゥとアルテ』 その1
ある晴れた春の日のことだ。元・聖狼キルガは馬のためにあつめた干し草の上に腹ばいで眠ったまま、鼻先を舞う黄色いチョウに眠たげな視線を合わせていた。平和で怠惰な昼寝の時間……最良の楽しみの一つだが、子守をしなくてはならないのは厄介ではあった。
白狼の近くをくるくると一人の少年が歩いている。背中には子供が振り回すには不向きなサイズの大きめな剣があった。毎日の鍛錬により、その柄には使い込まれた痕跡がある。小さな体格のくせに、よくアレを使いこなすものだと感心してやりながら、白狼は大きな口を開き、鼻に座ろうとしていて黄色いヤツを追い払った。
春風にチョウが逃げ出すのと同時に、腕組みしながら何かを考えていた少年は口を開く。
「オレはもう一人前だと思う」
『……そーかよ。未熟者』
「いや……一人前だって!だってさ……こないだも、集落のガキのこと、ぶちのめしてやったんだぞ!」
『そういうコトしてるから立場が悪くなるんだ。もっと、同じ群れの仲間と上手くやれ』
「バカにされたら、ブン殴れってバルトゥから習ったぞ。集落のガキども、オレのこと嫌ってるし、魔術や呪術が使えないからって、軽んじてくる」
『……まあ。あっちにも原因はあるけどよ?』
「12にもなれば、聖隷ぐらい呼び出せるって……オレは、呼び出せないし」
『説明しただろ?……聖隷獣と契約を結ぶには、神々の祝福がいる。お前には、それがないんだ』
「……分かってる。だから、オレが呼べば、いつでもお前がくればいいじゃないか、キルガ?」
イタズラっぽく、そして自己中心的な猫のようなニコニコ笑顔を浮かべたまま、12才の黒髪の少年は問いかけてくる。
『……一人前の戦士にしか、オレは仕えない』
「だ・か・ら。オレ、もう一人前」
『12のガキのどこが?』
「強いじゃん!」
『知れてる。クマを殺すのにも手間取っていやがるようじゃなあ……』
「でも、倒したぞー」
『まあ、そうだが……それぐらいじゃな。一人前とは言えないよ』
干し草の上に寝転ぶ白狼は、子供をあしらうための言葉を使ったあとで、大きくあくびをして、毛皮を波打つようにプルプルと震わせた。狼のその様子を見て、少年は腕を組む。
「くそ。やっぱり、女を『ダイタ』ことがないから子供なのか?」
『はああああ!?このクソガキめ、どこでそんな下らん言葉を覚えた……っ』
元・聖なる狼の一匹は喉を唸らせながら、少年をにらみつける。魔物をも脅かす鋭い視線をもっているキルガの視線を浴びても、魔王の血を引くアルテは驚くこともない。慣れているからだ。
「道具屋の姉ちゃん」
『あの『顔隠し』の魔女か……っ』
「おっぱいデケーよな」
『ガキのくせに、下品なこと言うんじゃねえよ……』
狼に人間の美醜はイマイチ理解することはないが、たしかに集落にときおり訪れる行商人の『顔隠し』は男どもに人気が高い。胸も大きいが……母性に飢えているのか?キルガがそんな考察をしていたが、当のアルテは母を恋しがる感情とは別のものを抱いている。
「道具屋の姉ちゃん、オレが好みなんだって」
『はあ?お前、ガキだぞ?』
「オレぐらいの年齢のガキが最高って言っていた」
『……うわー……っ。おい。いいな、アルテ?二度とあの『顔隠し』には近づくんじゃねえぞ。子供を襲う変態女なんかにな』
「でも、『大人にしてもらえる』らしいし……姉ちゃん、おっぱい、デカいし、オレ、なんか好きだぜ」
『だから、大人になってからにしろ!……ていうか、アレには近づくな!!』
「んー。でも、おつかいあるし。そのついでに大人にしてもらえばいいじゃん!」
『オレも同行するぞ!!……危険人物だ、あの『顔隠し』め……っ』
やはりろくなものがいない。『サンドリオン』の淫乱な魔女どもは……ッ。なんて教育に悪いんだ。聖地に住む子供を相手に何を企んでいるのか……ッ。
……まあ、アルテは幸か不幸か、どうやら『美形』らしいからな。
人間の美醜は分からないものの、キルガはアルテがそう評価されていることを耳にする。オスのガキどもからは『女みたい』だとも言われているが、メスのガキどもからは違った評価を受けている……『顔隠し』からすれば、交尾相手にしたいぐらいの魅力はあるらしい。
呪われ子には近づくな。大集落の親たちは自分の子供たちに対して、そう教育しているものの、大集落の外に出てしまえば、ガキどもは風のように自由なところがあった。
幾つかの致命的な障害が、アルテとガキどものあいだにはあるが―――それでも、我々が思っていたほどの距離はないらしいぜ、バルトゥ・ルディアよ。
……どっちかというと、大人たちの拒絶が強いか。邪神の生け贄……この光神の聖地では、邪神は最も嫌われる存在だし、アルテはそれに誰よりも近しい立場ではある。胎児であった頃に、邪神へ魔力を捧げることを強いられ、神々から嫌悪されて祝福を失った。
……神々も、魔術師どもも、下らぬことをするものだ。
……おかげで、何もしていないコイツが苦しむことになる……バルトゥには悪いが、ちょっとコイツの両親たちに文句を告げたくなる。たとえ、彼らに事情があったとしてもだ。
しかし―――逆に異常な形で接近してくる大人の女もマズいだろ……?
「あ!アルテくーん!!」
「お。道具屋の姉ちゃんだ!」
『なにッ!?』
油断も隙もあるものではない。薬カゴを背負った『顔隠し』の魔女は、風のようなスピードを生み出す早足で、アルテとキルガの元に現れていた。『サンドリオン』の紋章が描かれた布を顔の前に垂らした、長い青髪の女……。
鼻息が荒いのだろうか、信仰すべき神の真なる名前を変形させた聖なる紋章が描かれた布が、ふるふると震えていた。白狼は、ぐるるる!と喉を鳴らして威嚇する。
『アルテ、その発情期の女から離れろッッ!!汚されるぞッッ!!』
「えええ!?ちょ、ちょっと、聖狼さまああ。私のことを誤解してません!?」
『とぼけるな、アルテにお前に何か変なコトをしようと企んでいるんだろ?オレの毛皮が雪色のあいだは、うちの子を好きにはさせんからなァ……ッ』
「なあ、姉ちゃん、オレ、大人になってキルガを下僕にしたいんだ」
『下僕言うな!!ていうか、お前、色々とおかしなことを口走っているから、黙っていろ!!』
「まあ!!ついに、私がアルテくんの初めての女にッ!?」
『コイツもコイツで聞いちゃいねえし!!……って、おい!?『顔隠し』……っ』
「ウフフ……」
聖なる布の下から、赤い血が垂れている……鼻血だ。キルガは人間の性癖には疎いが、やはりこの女は本物の変態なのだろうと予想する……。
「姉ちゃん、なんで鼻血出してるんだ?大丈夫か?」
「え?ああ、ごめんね。そうね、ちょっとシミュレーションしちゃって、ね?」
『気軽なカンジで問いかけるな。さっさと消えちまえ。発情期の女が、子供に近づくんじゃない』
「発情期だなんて?……私、12才以下の男の子にしか興味を持てない、とても清楚な女ですのに……」
『異常者め。消えろ。我が牙がその腐った魂を噛み砕いてやろうかッ!!』
「えええ?ちょ、ちょっと、待ってくださいよう、聖狼さまあ!!」
「おい。姉ちゃん脅すなよ。騎士は、女には優しく在るべきだって、バルトゥはいつも言っているぞ」
『オレは騎士じゃねえし……元・聖狼で……今は―――』
―――そういえば、何だっけ?……自分でも今の立場が何なのか、キルガには分からなかった。
「うちの飼い犬だろ?」
『犬じゃねえ!!飼われてもねえからな!!』
「……んー。本で読んだハナシじゃ、犬っぽいんだけどな」
『違う。狼だ!……オレは、狼だ!!聖狼じゃなくてもな!!けっして、犬などではないぞ!!』
「わかったよ。細かいコトにこだわるヤツだよな」
『アイデンティティに関わる。細かくはない!』
「……ウフフ。でも。本当に強大な聖隷獣を手懐けてしまうなんて……将来有望な子ですこと」
鼻血をハンカチで拭いながら、『顔隠し』の魔女は布の下で美貌に微笑みを浮かばせていた。
「だろ?オレ、世界最強になるんだー」
「ウフフ。なれるわよ、アルテくんなら……私には、見えてるんですから、ね?」
『うちの子をジロジロ見るな、性犯罪者が』
「ええ?そんな、性犯罪なんて……ただ、アルテくんに私を捧げるだけのことなのに?」
『だ・か・ら!!子供にお前なんぞ捧げるな!!とっとと消えろ、この色魔めがッ!!』
「……まあ、それは冗談で。ビジネスのコトでも相談があるんですよう、バルトゥさまに……」
「バルトゥに?何を売りつけるんだ?」
「いえいえ、今回はバルトゥさまに買ってもらうのではなく……あの腕前を売ってもらうための商談ですわ」
『ん?……また街道に魔物が出たのか?』
「そうですの。このままでは巡礼者にも、我々のような商売人にも不利益が出ますわ」
『……『サンドリオン』の『顔隠し』の力なら、どうにでもなるだろ?』
「いえいえ。私のような若輩には、手に負えそうにない相手ですから」
「姉ちゃんって、強いのか?」
『……この性犯罪者の魔力は、上の下ってトコロだ。でも。ちゃんと修行すれば、祭祀魔術も使えるはずだぞ』
「へー。よく分からないけど、キルガが褒めたぞ。姉ちゃんスゲーんだな」
「いえいえ。気ままな性分で努力に向かず、修行に耐える根性がありません。魔術師としては、並みでございます。私は、商いの方が向いているのです」
「ふーん。だってさ」
『……『サンドリオン』の『顔隠し』の言葉を、真に受けるな』
「あら。嘘じゃありませんが?」
『商人は嘘つきだ』
「おい、キルガ。姉ちゃんいじめてやるなよ?」
「まあ。トキメク!捧げたくなりますわね!…………ウフフ。にらまなくていいですよ、聖狼さま。とにかく、『今日は』、バルトゥさまの元にご案内していただきたいのです」
『……さりげなく『今日は』って主張しやがって……っ。油断も隙もない……だが、民が困っているのなら―――』
「―――うちのバルトゥの出番だな!!」
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