第2話 親父世代はかつての「そもそも報われることのない恋」の話を持ち出す。

 周囲の若い者達は、それを見ながら酒を酌み交わし、二人の大将が考えることを想像してはこそっと語り合う。

 やがて杯が重ねられるに従い、話題は次第に流れてて行く。


「それにしても、本当にここに来るのはお久しぶりです」

「あなたにはもっと度々やって来て欲しかったですがな」

「藤壺の方のこともありまして。今となってはそういう心配も無いから気楽というものです」


 それは皆同様だったらしい。

 現在この場で酒を酌み交わす者達の中で、きょうだいを除いては、あて宮に一度たりとも懸想したことの無い者は居ないと言っていい。


「今日、何か不思議と伺いたくなりまして。呼ばれている様な気までしまして。

 ―――始終自分の宿の様にしていたここをふっつり思い切って、久々で今日参上すると、昔のことが思い出されて仕方がありません」


 すると正頼がそれに返す。


「―――お見限りだとは思いませんよ。私の宿は今度こそあなたが始終おいでになる所になりましょう」


 正頼が兼雅に対し、あて宮の代わりの姫を用意しているのは本当だな、と周囲の公達達は想像し、やや緊張する。

 そんな空気を読んでか読まずか、正頼は昔話を始める。


「姫――― そう、女。やはり女性が出す文というものはいいものだ」

「おや、そういう文が昔に?」


 兼雅は問いかける。


「文句の付け様の無い程の女性が、男に対し、細やかな心遣いでもって書いた文というものは、後になってもしみじみと思い出されるというもの。―――そう、昔、嵯峨の帝の頃の承香殿の御息所みやすどころ程の女性は無いだろうな…」

「そんなに素晴らしい方だったのですか?」


 兼雅も面白くなって問いかける。


「ああ全くもって! 何って素晴らしい方だろうと思ったことだ。そう、わしがまだ中将だった頃、かの御息所が内宴の賄いをなさることになったことがあってな。その時わしは仁寿殿にいらしたあの方の姿を隙見すきみできたのだよ」

「おお、それは何と幸運!」


 兼雅はにんまりと笑う。


「いやもう、垣間見ているうちに、こっちの魂も抜けてしまうかと思ったものだ。で、もう居ても立ってもいられなくなってなあ、向こうがお困りになるだろうということも考えず、向こう見ずにも文を何度か差し上げてね」

「それで如何でしたので?」


 兼雅は興味津々で問いかける。 


「まあわしも若かった。時には向こうがお困りになる様なことも、切に申し上げたことがあってなあ…… そんな私の心にお苦しみになった様なふみを返されたのだが、その時はもう本当に胸が締め付けられる様な思いだったな……」


 兼雅は黙って何度もうなづく。


「そう、もう老年となった今でも、その文を見ると、その時のことを思い出して気持ちが揺らぐこともある…… あれほどの感動を受けた文は無いだろうな」

「それで、その後は御息所とは」

「ほぉ、あなたらしい聞き方をなさる。期待する様なことはありはせんよ。慎み深い方たったから、ほんの浅いお付き合いだけで次第に終わってしまったのだけど…… 嗜み深い方でもあったので、全く拒絶された訳でもなく。何と言うか、その、私も結構心惑わされたものだ。ああ、あれ程の女性は、今の世には居ないだろうな」


 正頼は遠い目をして、杯を上げる。


「今の世でしたら、それは仁寿殿女御そのひとでしょうな」


 正頼はぴく、と眉を動かす。

 兼雅が口にしたその女性は、帝の最愛の女御であり、また彼の大君である。


「そう、今の世の中にも珍しいまでの深い心をお持ちの方と言えば、仁寿殿女御でしょう。おっしゃった承香殿の方に劣らぬ素晴らしい心映えだと思いますな」

「ほほう?」


 女御の父は半目になって兼雅を伺う。兼雅はひらひらと手を振る。


「いやいや、今現在そんなやましいことがはっきりあるのだったら、こんな場で申し上げたりはしませんよ。昔むかしのことです」

「本当に、昔のことかね?」

「ええ、全くもって。まだまだこの兼雅がほんの、ほんの若い頃のことでございます。その昔、懸想文を差し上げたことがあるのですが、その時もあの方は冷たく突き放す様なことはなさらず、ご信頼なさいとだけ仰ったのですがね…… 何と言いましても私はこの通りの浮気性で。勿体無いことを致しました」

「ほぅ」

「今でもたまに文を差し上げる時はあるのですが、あの方は私のことは笑ってお見のがしになっておられる様で」


 すると正頼はふっと笑う。


「それはまた、何処の仁寿殿のことだろうな。わしの娘の中にはその様な心ある者は居ないと思ったが」

「そちらの仁寿殿ですよ」

「わしの言う承香殿のお心は、他の女性とは違う優れたものだったぞ」

「ほぅ」


 兼雅もまたにやりと笑う。


「それでは、そちらにはまだ御文は残ってらっしゃいますか?」

「それは無論。今でも取り出してはしみじみとした思いに」

「私のところにはかの方の御文があります。持って来させましょう。比べてみませんか?」

「よし、それでは比べてみよう。おい、連純つらずみ、わしの部屋に……」

「仲忠、ちょっとひとっ走りして、うちから私の文箱を持っておいで、そう、あの……」


 左衛門佐と中将の肩書きも、ここではどうやら何の役にも立たない様である。連純と仲忠は顔を見合わせてため息をついた。

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