第41話 目覚めとオムレツ

 東に連なる生駒山系の向こうが明るくなると、太陽がゆっくりと顔を出す。窓の向こうは陽光で溢れ、あっという間に白い光に包まれて、部屋の中にまで光が差し込んでくる。

 その眩しさでシュウは目を覚ますのだが、なぜか無性に眠かった。

 昨夜は酒を飲んで寝た。自ら毛布でぐるぐる巻になって寝たというのもあって寝返りも打ちづらかっただろうし、クリスがシュウの左腕を抱きしめたまま寝ていたこともある。その美しくかわいい寝顔がすぐそばにあり、柔らかいものが左腕に押し付けられていたのも原因なのかも知れない。

 前日は寝たといっても二時間半程度しか眠っていないのでもっとぐっすりと眠れると思っていたのだが、なぜかシュウは眠った気がしなかった。


 ただまぁ、昨夜二三時には眠りに落ちていたであろうことを考えると、六時間以上は寝ていたわけで、シュウ本人としては単に「寝覚めが悪い」という状況と言える。

 そのシュウの隣で寝ているクリスは狭い空間でもいつの間にか寝返りを打っていて、今はシュウに背中を向けて眠っていた。

 であればと、シュウは窓から差し込む明かりを嫌うようにクリスの方に向かってぐるぐる巻のままでもそもそと寝返りを打ち、うつうつとまた眠りに就いた。






 しばらくは狭いベッドながら、二人して同じように窓を背にして眠っていたのだが、クリスがまた寝返りを打つ。


「うーん……」


 その右手が運悪くシュウの鼻先を見事にかすった。

 このクリスの攻撃は無意識ながらも鼻軟骨の先だけという絶妙な場所に当たっており、まるで横から鼻先にデコピンをしたかのような激しい痛みがシュウの鼻に走る。

 その手が当たったシュウの方は、突然の鼻先への猛烈な痛みに眠気どころではなく飛び起きそうになるのだが、先に声が出る。


「いってぇーっ!」


 両腕を毛布にくるんでしまっているので鼻先を抑えることもできず、もぞもぞと動いてなんとか立ち上がると、毛布がはらりと落ちてようやく両手の自由が効くようになる。


 その騒ぎにさすがにクリスも目を覚ます。


「どうしたの? だいじょうぶ?」

「どうしたのって……クリスが寝返りを打ったときにオレの鼻先に手が当たったんだよ。これ、かなり痛いぞ? 目から火が出たかと思ったくらいだ……」


 そう言い放つとシュウは洗面台に向かって急いだ。

 その後ろ姿に向けてクリスはシュウの言葉の意味がわからずに尋ねる。


「え? シュウさんって、目から火をだせるの?」

「いや、出るわけがないじゃないか。それくらい痛かったってことだよ」


 シュウは洗面台のある脱衣場の前で振り返ってクリスに返事をした。

 この世界に魔法はないことを思い出したクリスは、慌てて謝罪の言葉を述べる。


「ごめんなさい……」

「いや、無意識だろうし仕方ない。鼻血も出ていないし、すぐ痛みも引くと思う」


 かなりはっきりした意識で鏡を見て鼻血が出ていないことや、鼻そのものが曲がっていないことを確認したシュウは、静かにソファのところへと戻ってきた。


「どうだ? よく眠れたか?」

「ええ、よく眠れたと思う……ありがとう。わたし、寝相が悪いってよく言われてたんだけど、他は大丈夫だった?」


 たった一発だけの鼻先への攻撃だったのだが、下手をするとこれから毎日のように危険に晒されるのかと考えるのだが、今日のところは今の一撃だけだったのでシュウは正直に答えておく。


「たぶん、昼間は歩き詰めだったし疲れていたんだろうな。さっきの一発以外はなかったと思う。でも、今夜の添い寝は遠慮した方がいいかな?」

「ええっ?! そんなの不安だよぉ。手とか縛ってもらっていいから、ね? お願いします」

「いや、オレはそういう趣味はない」


 クリスの不用意な発言に対し、全くクリスの意図を考えずにシュウは返事を返す。


「趣味?」


 なんとか許しを請わんとクリスが両手を組んで膝立ちでシュウに訴えかけているのだが、シュウが違う意味で捉えてしまっているのでついクリスもシュウの言う「趣味」の意味を知りたくなってしまう。

 そこでシュウもクリスがお嬢様育ちでそんな性癖があることを知らないことに気がつくのだが、いざ勘違いとわかると説明しづらい。だいたい、今はまだ朝の七時過ぎなのである。


「ああ、えっと……忘れてくれ」


 まずいことを言ったとシュウは後頭部に手を当ててポリポリと頭を掻く。

 鼻の痛みは既に治まってきていて、その後も鼻血のような出血などはないので一安心だ。

 ただ、もし今後もクリスが添い寝を願うなら、自ら対策をしてもらうのが一番いい。


「まぁ、今夜はクリスが簀巻きみたいになって寝るのがいいのかも知れないな?」

「え? ええ……そうね」


 シュウが言った「趣味」の意味も有耶無耶にされながら、クリスはシュウの提案の飲まざるを得なかった。たった独りで先進文明国だが魔法が使えない環境である日本に放り出されたのだから、本当に心細いのだ。


 そもそも、ベッドが狭いセミダブルであるというのが問題でもあるのだが、いずれはクリスは元いた世界に戻ってしまうのだから、シュウとしては大きなベッドに買い換える気など毛頭ない。早く慣れてもらって、ソファで寝るほうがシュウとしては気楽でいいくらいだ。


「じゃ、ちょうどいい具合に目も覚めたことだし、朝食でも作りますかね。クリスは紅茶とコーヒーのどちらがいい?」


 シュウはまた洗面台のある脱衣場に向かいながらクリスに尋ねた。

 まずは歯を磨いて、顔を洗うために洗面台に向かうのだが、その姿をクリスは不思議そうに首を傾げて眺めると、また尋ねた。


「紅茶っていうのは昨日入った宿屋のところで飲んだお茶よね? コーヒーっていうのはなぁに?」


 シュウは一晩経っていたせいか、クリスに日本語は通じるが外来語は通じないことを思い出した。そこで、少し噛み砕いて説明する。


「そう、オレが飲んでいたのはコーヒーだ。コーヒー豆という豆を焙煎して粉にしたものにお湯を注いで作る飲み物なんだが……クリスの世界では似た飲み物とかないのかい?」

「えっと、黒く炒った豆を挽いてお湯で煮出すものなら、『コーヒー』かしら?」


 実によく似た発音で「カフェ」という言葉に違い。だが、シュウには簡単にその発音ができそうにない。


「まぁ、百聞は一見に如かずというし、一度飲んでみるか?」


 シャカシャカと歯ブラシを動かしていた手を止めて、シュウはクリスに話しかけた。

 クリスもコーヒーに興味があるようで、シュウに視線を向けるとコクリと頷くと「ええ、いただくわ」と言って同じように歯を磨きにやってきた。






 洗顔と歯磨きを終えたシュウは、先ず昨日使った食器を洗う。

 そして、水を入れたソースパンを火に掛けるとソーセージを放り込んで茹で始め、食パンを取り出してトースターに入れて時間をセットした。

 次に、ボウルに鶏卵を四つ割り入れて、生クリーム、塩、胡椒で味をつけると泡立て器でシャカシャカと混ぜ合わせておく。そして、二〇センチのフライパンを取り出して火に掛け、無塩バターを投入して溶け広がったところにボウルの中身を一気に流し込んだ。

 左手に持つフライパンを水平に円を描くように動かしながら、右手の菜箸を前後に動かして強火で一気に加熱すると、卵は全体にトロトロに固まり始める。

 すべてに火が通る前にコンロの火を消して、左手を上下させながら右手でその動きを抑えることで少しずつ固まった卵が前方に押しやられ、最後は綺麗な木の葉の形をしたオムレツに仕上がった。


 それを大きめの皿に盛り付ける頃にはトーストが焼き上がり、ボイルしたソーセージも茹で上がる。

 最後に、ペーパードリップでコーヒーを入れて今日の朝食ができあがった。


「ほいよ、今日の朝ごはんなー」


 シュウは丸いトレイにすべての料理を乗せて運んでくると、センターテーブルの上に載せた。


「わぁ! すごいっ。うちの料理人でもこんなぷるんぷるんの卵料理なんて焼けないわ。どうやったの?」


 クリスは思わず声を上げて感動してしまい、作り方までシュウに尋ねてしまう。

 クリスのいた世界でもシュウが焼いたオムレツのようなものは存在するが、それは他国の食文化である。クリスのいた国では両面をしっかり焼いた丸いトルティーヤが主流なのだ。

 ただ、シュウとしては普通にテフロン加工されたフライパンを使っただけだ。


「いや、普通に焼いただけなんだが……」

「そうなのね……なんだか、本当に異世界にいるんだって感じがするわ」


 クリスはシュウの返事に少し感心すると、手元に配られたスプーンを持って、オムレツに差し込む。

 弾力がある表面に力を入れていくと、一瞬スプーンの周辺が盛り上がってスプーンの峰がするりと中に入っていく。


「やわらかーい」


 クリスは感動したように声を上げると、また違う角度からスプーンを差し込んで一口大にしたオムレツをツボに入れ、口に運んだ。


 バターの香りが口の中に広がると、ふわりとろりとしたオムレツが舌の上で解けていく。卵の味が塩によって引き立てられていて、ほんの少しの生臭さを胡椒が消し去っている。生クリームのコクと卵黄のコクがとろりと舌に広がって優しい卵の風味が鼻に抜けていく。


「あふっ……おいしい……」


 クリスは至福のひとときを感じたような笑顔でオムレツの美味しさを表現し、シュウの笑顔を誘ったのだった。

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