第40話 眠れぬ夜
ベッドの上に硬貨と紙幣を並べるところまできて、シュウはクリスに確認する。
「日本では、一、十、百、千、万、十万、百万、千万、億……という感じで数字が増えていくんだが、そこはクリスの世界とは違うのか?」
「ううん、同じよ。ただ、文字が違うの。お店の文字……」
シュウは店の値札のことを思い出す。どこの値札もアラビア数字で書かれていた。
市場に行けば魚や野菜の今でも木札に漢数字で金額を書いているところもあるが、国際化の進んだ黒門市場でも漢数字を見る機会がない。
「地球にはいくつも国がある。長い歴史の中でいくつかの大国が植民地を作っていったんだ。それがまた大きな戦争でバラバラになって、いまは二百ヶ国くらいの国がある」
シュウはまたタブレットを取り出して説明をはじめた。
「簡単に言うと、それだけの国があれば元々は言葉や数字の書き方もバラバラなんだが、植民地時代に使っていた言葉などが今は使われているところが多いんだ。そして、アラビア数字はその大国の多くが採用していたこともあって、外国の人が見て解るように日本でもアラビア数字を使っていることが多いんだよ」
シュウは、メモ帳に0から順に9までの数字を書いて見せると、一つずつ読み上げていった。
「ゼロ、イチ、ニ、サン、ヨン、ゴ、ロク、ナナ、ハチ、キュウ」
「その鉛筆を貸してもらえる?」
シュウは言われるがままに鉛筆を渡した。
クリスは受け取った鉛筆で、自国の文字を書き並べていく。アラビア数字を九十度倒したような文字で、丸い部分はくるりと丸く他の線と繋がっている程度の違いしかない。
「なんか、似てるわよね……どちらが先かとか別にして、横に倒したような感じかしら?」
「ああ、そうだな。でもこれなら数字はすぐに読めるようになりそうだな?」
「ええ、このメモを持って歩けばなんとでもなるわ」
数字を読めるようになることが嬉しかったのか、クリスはかなりリラックスしたようだ。
元々の眠気もあってか、目がとろりとしていてとてもかわいい。
「じゃぁ、次は絵本だな……とその前に、日本では漢字、ひらがな、カタカナの三種類の文字があるんだ。元々は隣の中国という国から漢字が日本に伝わって、そこから独自に進化した漢字と、平易な文字としてのひらがな、カタカナが……」
「スゥ……スゥ……」
どうもクリスは耐えきれずに眠ってしまったようである。
時計を見ると二二時三〇分を指しているのだから、恐らくクリスは一八時間くらいは起きたままだった。昼間は歩き詰めに近い状態であったし、風呂で身体が暖まったところにアルコールが入った。元の世界に戻れるのかどうかという心配事もある程度の目処がついたのだから安心感も加わって一気に押し寄せてきた睡魔に負けてしまったのだろう。
シュウはこの時間帯であれば普段は眠くなることはないのだが、負けず劣らずの睡眠不足で、同じようにアルコールが入っているため多少は眠くなってきたところだ。テーブルの上を片付けて部屋着に着替えようと思ったところ、何か腰のあたりに重みを感じる。
見れば、穿いているデニムのベルトループにがっしりとクリスの指が掛かっていた。
小さく溜息を吐くと、シュウはクリスが目を覚まさないようにそっとその指を解いて立ち上がった。
テーブルの上の瓶、缶類を音を立てないようにキッチンに運び込むと、チーズを包んでいたアルミ箔、ハムの包装や柿ピーなどのプラスチック系ゴミを手際よく片付け、皿やグラスなどをキッチンのシンクに並べて水に浸しておく。
今、皿やグラスを洗うとクリスがその音で目を覚ますだろうとのシュウなりの気遣いだ。本心は職業柄洗いたくて仕方がない。
最後に布巾でセンターテーブルの上を拭いてから、シュウは部屋着に着替え直した。
玄関の鍵、トイレの電気、ガスの元栓など確認するのは就寝前の習慣だ。
最後にクリスが寝ているベッドを確認すると、自分が抜け出たあとに変に寝返りでも打ったのか、掛け布団がほとんどずり落ちている。
仕方がないといった呆れにも似た表情を一瞬浮かべると、シュウはクリスに掛け布団を掛け直す。
小さな寝息を立てて眠るクリスの顔は満足感のようなものを感じさせるのだが、その美しい顔立ちにシュウはしばらく見惚れ、そして考えた。
他家から嫁いできた母親が持つ一子相伝の秘術を引き継ぐ儀式がクリスが暮らす屋敷の中にある扉に設置されていたという時点で、術者は母親のソフィアで間違いないのだが、なぜその先が自分の店になっているのかがわからない。
広い宇宙の中にいくつもの星があって、その中の星の一つに地球があり、クリスがいた世界があったとしても、他にも生命体が存在する星はあるだろう。なぜ、似た姿かたちをしたヒトがいる地球につながっているのか。なぜ、同じ日本語が通用するのかなど、疑問がシュウの頭の中を埋め尽くしていく。
だが、答えは恐らくソフィアしか知らないことであり、真実はクリスが帰還する際に手紙のようなもので伝えられるものなのだろう。
そう結論づけたとき、ふとシュウの左手をクリスが掴んできた。
薄らと目を開いたクリスは、シュウをそのぼんやりとした目で捉えて、か細い声で話す。
「よかった、目が覚めたらまた違う世界にいたらどうしようと思って必死で寝ないように抵抗していたんだけど寝ちゃってた。でも、ちゃんとシュウさんがいてくれた」
クリスの頬をつつと涙が流れ、枕へと吸い込まれていく。
「ああ、クリスが帰れるときが来るまでは一緒にいるさ」
シュウはクリスの頭を優しく撫でながら、優しく語りかける。
「うん、そうね……。シュウさんならそう言うと思ってた」
その言葉に、クリスは空回りするほど自分のために頑張ってくれているシュウらしさを感じてしまう。ただ、だからこそ頼れる存在でもあるとも実感していた。
「でもね、でも、もしよかったら……隣で一緒に寝てくれないかな?」
クリスは顔を赤らめてシュウを見上げる。
シュウの顔はあきらかに動揺していて、懸命に頭の中で返す言葉を探している。
「いや、その……」
「なんだか、すごく心細いの……」
なんとか言葉を発しようとしたときに口を塞ぐようにクリスに
「未婚の女性が、未婚の男性と同じベッドの上で寝るだなんて褒められたことじゃないだろう? 特に嫁入り前の貴族の娘であれば、家名を汚すとかという話になってたいへんなことになるんじゃないのか?」
シュウはただでさえ一つ屋根の下で暮らすというのに、この調子でズルズルと距離感を詰めすぎるのは良くないと感じていた。自分でも自分に歯止めが効く自信がないからだ。
だが、クリスは「そんなの、黙ってればわからないじゃない」と言うと、自分がシュウにお願いしたことの意味を今更理解したように赤い顔をして掛け布団を頭から被ると、また顔を出す。
「ねぇ、本当に心細いの……おねがい」
「ああ、わかった……」
シュウはソファの上に置いていた毛布を持ってると、自分の身体にふわりと掛けて寝転ぶ。そして、左右に身体を捻って隙間なく自分の身体を覆ってしまう。
見た目は顔だけが出た保存状態の非常に良いミイラ状のものが完成した。
「すまない、手を出さないという自信がない……」
シュウは考えた結果、自分で自分を動きづらくすることでクリスに手を出さないようにしようと考えたのだ。
するとクリスは毛布の上からシュウの左腕を取って抱きついた。
「……ありがとう」
毛布越しにとても柔らかいものが二つ、ギュッと押し付けられるのを感じてどう返すべきなのかシュウは悩んでしまう。
これはもしかして誘われているのかも知れないと勘違いしそうになる自分の意識と、それを正常な方向へと引き戻そうとする別の意識、そしてシュウ自身の股間にある別の意識がそれぞれ戦いを始めるのだが、シュウの左腕と胸の間の窪みにすっぽりと頭を固定してクリスが寝息を立て始める。
ふわりとシャンプーの香りがたちあがり、シュウの鼻腔を擽っていく。左半身に伝わる日常にはない温もりが心地よいと感じる頃になってようやくシュウの煩悩が収まり、シュウもゆるゆると眠りについた。
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