第39話 譲り合い

 二人の話は夜遅くまで続いた。生い立ちというテーマで始めたものだから、小さな頃の思い出話が中心だ。

 クリスの場合は幼い頃によく近くの牧場へ行って『牛』や『豚』が飼育されているところを見学したり、『牛』から乳を絞って『バター』を作ってみたりという経験をしたことも話した。また、そこに自分の馬を預けていると話していたので、牧場主から仔馬を譲ってもらったのだろう。

 また、秋祭りの前には街の神木に宿る妖精にたぶらかされて木に登ってしまい、一晩行方不明になって父親のエドガルドにかなり叱られた話などを面白おかしく聞かせた。


 その後、クリスが洗面台に向かって髪を乾かしたりする時間もあったのだが、戻ってくると次はシュウの番になった。


 シュウは両親の記憶がほとんどないこと。事故があって自分だけが運良く生き延びたこと。その後は神戸の親戚――愛奈の両親に預けられて育ったことなどを話した。

 すると、クリスはその親戚というのが化粧品に関するアドバイスをくれた愛奈のことを思い出す。


「今日、スマホとかいう機械で話をしていた相手のこと?」

「そうそう、明後日には店に来るって言ってたから、そのときに紹介するよ」


 シュウも気楽に愛奈を紹介することを約束してしまう。親戚というのもあるし、それなりに愛奈の口の堅さというのを信じているのである。

 また、二十歳の女子大生であるということは、クリスが興味を持っている化粧やファッションに対するアドバイスなども期待できる。


「その人って、信用できるの?」

「ああ、大丈夫だ。クリスはお客さんとか知り合いの姪御さんだとか理由をつけてしまえばなんとかなる。それに、不法入国した人を匿っているのも罪に問われるからさ、身内を衛兵に突き出すなんてことはしないと思うだろう?」

「え? そうなの?」


 シュウもそこまで詳しくないのだが、不法入国者の隠匿をした場合も罪になる。日本では三年以下の懲役・禁固または三百万以下の罰金だ。


「ああ、罪に問われるはずだよ。でも無事にクリスが帰れれば問題ないだろう?」

「そ、そうね……見つかる前に帰ることができればいいんだものね。でも、もし試練の内容がわかるまで時間がかかっちゃったら、シュウさんにまで迷惑かけちゃうのね」


 クリスが恐縮した声でシュウに返す。

 シュウは少し照れたような様子でポリポリと後頭部を掻く。


「気にしないでいい。事故があったとき、誰かが助けてくれなかったらオレもここにいなかった。だからオレも誰かを助ける。それだけだから」

「あ、ありがとう……」


 クリスは頬を仄かに顔を赤くして礼を言った。

 それがアルコールによるものなのか、シュウに対する何らかの感情によるものかはわからない。

 ただ、シュウはそのクリスの言葉だけで終わらせず、話を続けようとする。


「日本には『困ったときはお互いさま』って言葉がある。お互いに助け合って生きていこうって考え方なんだが、クリスの国にはないのかい?」


 クリスは一瞬呆れたように表情から力が抜ける。そろそろ眠くなり、重くなった自分の瞼を感じながらクリスはシュウの問いに答えた。


「うーん、あるにはあるんだけど……」


 我慢ができなくなったクリスは「あふっ」と声を出して欠伸をする。


「金品以外で人を助ける理由があるなら、そういう気持ちでやっているんじゃないかしら……」

「金品かぁ……」


 シュウはクリスがいた世界は世知辛い場所なんだなぁなどと思いつつ、立ち上がるとベッドの上を整理する。

 元々シュウが独りで使っていたものなので、シーツなども頻繁には交換していないので、とりあえずどこからか持ち出してきたシーツで交換をはじめる。

 クリスからすれば普段侍女たちが行ってくれることなので、その様子を見つめていただけだが、ソファで寝るつもりだったのかあまり興味がないようだ。

 一方、シュウが交換しているシーツは乾燥機能付き洗濯機で乾燥まで済ませたものでシワだらけになっている。本来は乾燥が終わってすぐに交換すればこんなことになることがないのに、厨房や自宅のキッチン周りは几帳面にしているが、他の部分で抜けていることをよく表している。

 それでもなんとかシーツ交換が終了したので、シュウはクリスに声をかける。


「クリス、寝る前に歯を磨いたらこっちのベッドで寝ていいから。オレはソファで寝るし」

「え? わたしは居候みたいなものなんだし、わたしがこのソファでいいわ。シュウさんがベッドで寝て?」


 時計を見ると二二時を指し示していて、クリスが眠いのはシュウもよくわかる。眠気のせいなのかとろりとした目尻は少し下がっていて可愛らしい。

 ただ、シュウにとっては普段はまだ営業時間帯なのでそんなに眠くない。


「んー、実はオレの店は普段はこの時間から営業するんだよ。だから、まったく今は眠気がしないんだ。

 クリスは慣れない街でオレに連れ回されて疲れていると思うし、靴も、服も慣れていないものばかりだろう? 疲れているんじゃないか?」


 街に出るにしても馬車に乗り、広い宮殿のような旧王城の中を歩くだけという生活。しかも、それはダイニングと自分の部屋の往復だけというのが多いクリスにとって、今日の買い物で歩いた距離は恐らく普段の十日分を軽く超えるだろう。

 正直なところ、クリスは明日は筋肉痛になっていることさえ予想している。

 でも、シュウは昼前に二時間弱寝たのと、ホテルのラウンジで仮眠をとっただけでもっと疲れているだろうとクリスは思っている。


「そうね、疲れていないというと嘘になるわ。でも、シュウさんは数時間しか寝ていないじゃない。もっとしっかり寝た方がいいと思うわ」

「だめだ、クリスはオレとオレの家にとってはお客さんだ。だから、クリスがベッドで寝て欲しい。オレはまだ起きてるからさ」


 シュウはなんとかクリスを先に寝させようと思ってベッドへ誘導しようとするのだが、なかなかクリスも強情である。


「じゃ、これ以上何も食べないように二人で歯を磨いてしまわない?」

「ああ、それはそうだな……クリスの歯磨きの復習も兼ねて磨いてしまおうか」


 言うが早いか、シュウは立ち上がるとクリスに手を差し伸べた。

 シュウの差し伸べた右手を取ると、クリスはシュウに引き上げられるように立ち上がり、ふたりで洗面台の方へと向かう。


 洗面台には真新しいプラスチックのコップにクリスの歯ブラシが立てかけられていて、古いコップにはシュウの歯ブラシが刺さっている。

 それぞれ、歯ブラシを手に持つとシュウが歯磨き粉――ペーストであるが――を少量つけて、手本を見せるように歯を磨いてみせる。

 クリスも朝に教わったことを思い出すように歯を磨き始めた。


 虫歯や歯槽膿漏の予防は非常に重要であるが、デンタルケアという意味ではクリスの住む世界は大きく遅れている。だいたい、三十代になれば歯が失われ始める者も多く、五十代にもなると多くの歯がないというのは一般的なことである。

 その原因は口の中にいる細菌だとシュウが説明し、実際に口の中にいるという雑菌などを撮影した写真をタブレット端末で見せられたので、クリスの意識は既に変わってしまっていた。


 歯と歯茎の間に毛先を押し込むようにしてバス法で磨き始めた頃にクリスは気がついた。


 洗面台に口の中に残った歯磨き粉を吐き捨てると、クリスは困ったようにシュウに話かける。


「ねぇ、これってわたしが帰っちゃうともう手に入らないのよねぇ……」

「ん?」


 突然クリスから思っても見なかったことを問われ、シュウは一瞬考えるように手を止めるのだが、すぐに歯磨きを再開する。

 クリスがプラスチックのコップに入れた水で口を濯ぎ終わると、シュウも口の中に残った歯磨き粉を吐き出した。


「なんでだ? 術を覚えたならまた来れば済むことじゃないのか?」

「あ、そっか……でも、この世界のお金とか持ってないわよ?」


 クリスの言うことももっともである。

 違う話ばかりをしてきたので、日本という国の貨幣のことなど充分に説明していなかったのだ。


「ああ、そういえばもう少しお金のこととか話しておかないとなぁ……」


 そう言ってシュウは自分のコップを使って口を濯ぐ。

 その姿を見てクリスももう少し粘ろうとする。


「じゃぁ、ベッドの上でお金のことを説明するのと、絵本を一つ読んでくれない?」

「ん……まぁ、いいけど……」


 二人はベッドに並んで寝転がる。

 シュウは財布から各種の硬貨と紙幣を並べて説明をはじめた。

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