第38話 予定
クリスは思わず目を瞠った。
シュウの話のとおりであれば、母のソフィアは日本に来たことがあることになる。この高度な文明社会を経験したのであれば、多少なりとも生前にそのような話を聞かせてくれたはずだ。
だが、おとぎ話であったとしてもそんな話を聞いた記憶がない。
「でも、お母さまが来ていたとしたら、少しくらいはこの日本のことを話してくださったはず……でも一度も聞いたことがないの。これはどうして?」
「ああそれは……」
シュウは少し考えて、答えを出す。
「すぐに帰ったんだろう。たぶん、店の中で何かを経験したり、何かを見たり……そこでしか経験できない何かがあって、それで満足して帰った――なんてこれは仮説でしかないけどな」
クリスはようやく冷めてきたお茶を口に入れる。
ちょうどいい具合の温度に下がったお茶は、少し渋みがあるのだが、その熱が不思議と心を落ち着かせる。
「とにかく、今からオレの店の場所で商売をしていた人たちを探して、話を聞くしかないんだが……残念ながらもうこの時間だと不動産屋は営業終わってるし、個人情報だから教えてもらえない可能性もあるしなぁ……」
シュウは両手を後方に突くと、天井を仰ぎ見る。
「周辺の店とかまわって話を聞くしかないな。古くから営業してる店となると……」
シュウは絶句した。つい二年くらい前に廃業した洋食屋があるのだが、そこが店の近くで一番歴史が古い。それ以外に古い店となると、シュウの店からは遠くなってしまい、情報の精度が低くなるだろう。
天井から視線を移し、クリスの方を見るとシュウは諦めたようにクリスに話しかけた。
「休みの日なんかに近所の店をまわって、いろいろと話を聞くしかないな。オレの店のある場所に前に入っていた店、その前の店、そのまた更に前の店。情報を聞き集めるしかない。一緒にいくか?」
「ええ、もちろんよ」
なにかとても期待に満ちた目で力強くクリスが返事をする。
「そういや、クリスがいた世界は一年が三六〇日だったんだよな……ってことは十七歳のままだから、十七歳って紹介していいか?」
「お酒は何歳になったら飲めるの?」
「二十歳になれば日本では飲んでもいいことになってるが、二十歳ってことにしたいのか?」
シュウは返事はしたものの、なんとなく嫌な予感がしたのだが、そこにはニヤリと笑ったクリスの顔があった。
「じゃあ、わたしは今日が二十歳の誕生日ってことでいいんじゃない? いっぱいプレゼントも買ってもらったし。ありがとうね」
「あ、ああ……」
シュウは返す言葉を失ってしまう。
このまま「十七歳じゃないか」と喧嘩をしてもクリスの常識や価値観に違いがあるのだから意味がないし、そもそもパスポートのように明確に年齢を証明するものもない。それに、日本人離れした顔をしているので年齢なんて見ただけでは判らないし、化粧をすれば更に大人っぽくなる。元の世界には帰ることができるのは間違いないので、それまで思いっきり楽しませてやろうと考えた。
「なぁ、クリス……」
「なぁに?」
シュウは思い出したように話しかける。
「少し前進したって感じするか?」
「ええ、もちろん。お母さまがつくった試練を見つけて、シュウさんの店の引き戸から帰るだけ。すごい進歩したと思う」
「じゃぁ、海を見てみたいというのはどうする?」
クリスは一瞬キョトンとした顔をするが、お好み焼き屋で海へ行きたいという話をしていたことを思い出す。そのときは、シュウはタブレット端末を使って世界中の美しい海を見ればいいというようなことを言っていたような気がする。
「たしか、タブレットとかいうのを使って海を見るのよね?」
「いや、それはこれからできる。明日、せっかくの休みだし気分転換に水族館とかどうかなと思うんだが、どうだ?」
大阪湾まで行くことは簡単だが、そこから見える海の景色にクリスは恐らく幻滅するだろう。コンクリートとテトラポッド、立ち並ぶ工場の景色を見て「これが海だ」と言われてもたぶんクリスが聞かされているものとは大きく違うはずだ。でも、海辺では見られないものを見ることができる水族館はクリスもきっと楽しめるはずだ。
「水族館ってなぁに?」
帰ることができる見込みが見えてきたようでクリスは上機嫌である。
「水族館というのは、大きな水槽にたくさんの生きた魚を飼っているところなんだ。それを見ることができるところなんだ。他にも、世界中から集めた動物が見られる動物園とかもある」
「いいわ。行きましょ!」
クリスはまだ見たこともない海の生物に思いを馳せる。
シュウはその姿を見て、図鑑に載っていることを思い出してそっと自分の背後に図鑑を隠してしまう。
「海って、巨大なイカとかがいるんでしょう? そんなのも飼っているの?」
「いや、さすがにダイオウイカはいないなぁ……でも、世界一大きなサメならいるぞ」
「まぁ! それは楽しみだわ!」
クリスがとても乗り気になっているのを見て、シュウは翌日の予定を考える。
明後日は店の営業があるので、仕入れにも行かないといけない。
「じゃぁ、明日は朝から水族館に行って、そのあとはちょっと離れているけど仕入れのために市場に行く。その後は店に戻って仕込みを済ませたら、隣の店から挨拶代わりに話を聞いてみようか」
「うん、まかせるっ!」
正直なところクリスにとって日本のことはわかっていないことが多いので、今のところはシュウに任せざるを得ない。
ただ、近所の人に話を聞いてシュウが店を借りる前のことや、その前に借りていた人のことをコツコツと調べていかないと前には進めないことは判っている。
「あ、店を手伝うって話なんだけど……メイド服はどうすればいいの?」
クリスが思い出したようにシュウに尋ねた。
シュウにとってはメイド服のことは忘れてくれているものだとばかり思っていたのだが、クリスはよほど気に入ったのか忘れてはくれなかったようだ。
「そ、それは通販かな……えっと、「メイド服 通販」っと」
シュウはタブレットを使って、メイド服の通販サイトの検索をした。
何件かの通販サイトが出てくるのだが、ほとんどがコスプレ用だ。中には際どい下着にシースルーの生地でできたものまで表示されている。
「ここはダメだな……」
「え、わたしにも見せてよー」
クリスも実際に自分で選んでみたいのだろうが、流石にこのサイトは見せられない。
恐らくクリスの貞操観念をすべて塗り替えてしまうほどの際どさだ。そして、この店ならクリスにも見せても大丈夫と思えるサイトを発見する。
「えっと、メイドになりきるための服だと安くて作りが雑だったりしそうだから、このサイトでみてもらえるかな?」
「これとか、これがいいかな……でもみんな丈が短いわ」
すべて膝上丈のミニスカートで、パニエを履いて広げるタイプのものだ。
普段のドレスが長いものを着てきたので、クリスにも多少の抵抗があるようだ。
「ロングもあるじゃないか……」
と言ったシュウの目が点になる。またオーダーメイドで、一着数万円だ。他のものも同じ感じで、これにガーターベルトのついたストッキングや靴を揃えたりするといくらかかるか判ったもんじゃない。
コスプレ用の使い捨てで済ませるのもありだが、さすがに先ほどの下着セットみたいなものがあるサイトに戻る勇気はシュウにはない。
「どうしたの?」
クリスが少し心配そうにシュウの顔を覗き込む。
美しいその瞳は、すっかり明るさを取り戻して力が漲っているようにも見える。
「えっとさ……だいたい、この世界の一般的な人たちの月収――働いてもらっている一ヶ月あたりの給料でこの服は六着しか買えない値段だな……。
そういえば、近くに道具屋筋という飲食店関係が使う道具の店が並ぶところがあって、そこでも飲食店用の衣装を扱ってるから、明日の帰りに寄ることにしないか?
そこなら妥当な値段のものもあると思うし……」
さすがに今日だけで三十万使っているのだから、これで更にメイド服を正副二着買って更に十万使うというのはシュウにも厳しい。
できれば店で着るための制服扱いにして、経費で買いたいのだ。
「ええっ?! 仕方ないわね……確かにその値段だと躊躇するのもわかるわ。
そうね、お手伝いするんだからお給金を貯めて、自分で買おうかな?」
「あ、給料というか……お駄賃な。給料にすると、それに税金がかかる。すると今度はクリスが不法入国者ってことがバレてしまうからな……」
「それって、駄目なやつね……」
クリスもメイド喫茶の女の子に絡んだ時のことを覚えていて、さすがに危険であることを察知したようだ。
しかし、メイド服には憧れがあるようでなかなか諦めきれないようだ。
「じゃあ、そのお駄賃を貯めて買うことにする……」
「まぁ、朝昼夜の三食とお風呂もついてるんだから、それなりに金額は少なくなるけど我慢して欲しい」
「しかたないわ。ここに泊めてもらえるんでしょ?」
店の奥にある和室で寝起きさせることも考えたが、早朝まで普段は営業しているのでそれは店の営業形態を変更しなければ無理である。だから、シュウの家で寝てもらうことにしたのだ。
「ああ、そうだな……」
「じゃあ、そんなに贅沢は言えないわ。ところで、もっとお話しない?」
クリスもかなりシュウに対して打ち解けてきたようで、小さい頃の話や家族のことなどを話しはじめた。
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