第28話 日用品

 本格的に舟を漕いで眠っているシュウを起こすべきか、クリスは悩んでいた。

 クリスがいたマルゲリットという異世界の街であっても、当然貨幣というものが存在し、それを対価に衣食住やそれに纏わる様々なモノを購入する。しかし、いま座っているホテルのラウンジにあるカフェで食べたケーキというものと紅茶の代金、シュウが飲んだコーヒーの代金を払うにもクリスはこの国の貨幣を持っていないし、見たこともない。

 シュウは何か銀色に輝く板を店員に渡して精算しているようで、現金を見たことがないのだ。


 そんな中、シュウの店でトイレに入ることができたが、それから六時間近く経過しており、いまお茶を二杯とグラスの水を飲み干してしまったのだから、そろそろトイレにも行きたくなる。


「ねぇ、シュウさん! シュウさんってば!」


 とても静かなラウンジの中で大声を出すのも無理がある。

 クリスは焦りながらも小声で何度もシュウを呼んで起こそうとするが、なかなか目を覚まさない。

 仕方がないのでクリスは立ち上がり、また肩を揺すってシュウを起こす。


「シュウさん!」

「あ? ああ、すまん……寝てたな」


 シュウはまだ寝ぼけ眼でクリスを見上げるのだが、その目には眉を八の字にして困ったようにしているクリスが映った。


「どうした?」

「トイレっていうの? 行きたいんだけど……」


 クリスの話を聞いてシュウは辺りを見回す。ロビーには必ずトイレはあるので、その場所を確認すると、その場所を指してクリスに話す。


「あそこがトイレで、赤い女の人のような絵が描かれている方が女性用だ。たぶん蓋は手で開くことになる。二枚あるので、一枚目だけを開くんだ。あとは店にあったのと同じはずだから、行ってきていいぞ。オレは支払いを済ませたら、出口近くで待ってる」

「うん、わかった」


 クリスは少し慌て気味にロビーに出るとお手洗いのある場所に向かい、ちゃんと女性用に入っていった。

 不思議なもので、トイレの話をするとトイレに行きたくなる。別に今すぐでなくてもいいのに、誘われて中に入るとしたくなるのと同じだ。

 つまり、シュウも小用に行きたくなってしまった。


 シュウは慌てて立ち上がると、荷物を持って支払いを済ませ、トイレへと急いだ。





 シュウが小用を済ませてトイレから出てくると、トイレの周辺には恐らく女性を待っているであろう男たちが数人、壁に背を預けてそれぞれの方法で時間を潰している。男たちはトイレから女性が出てくると自分の相手かと顔を上げて確認し、違えばまた元の動作に戻っていく。

 そんなところでクリスがトイレから顔を出すと男たちの視線はクリスに釘付けになるのだが、シュウをキョロキョロと探したクリスは足早に歩いてシュウのもとにやってくる。

 なんだか他の女性がトイレから出てきたときとは違う殺気のようなものをシュウは感じながら笑顔でクリスを迎え、左手を差し出す。

 恋人同士でもないし、見た目からして親兄妹にも見えないのだが自然なその姿は、周囲の男をなぜかガッカリとさせて、スマホに画面を落としたり、買い物袋の中身を整理させたりしていた。


「ねぇねぇ、女性用のトイレってお化粧を直したりする場所でもあるの?」


 女子トイレの中で何人かが化粧直しをしていたのだろう。食事をしたり、お茶を飲んだりすると口紅が落ちてしまうし、汗をかくシーズンになると眉が汗で落ちたりすることもある。もちろん、夕方になると油取り紙などを使ってテカリを抑えたいと思う人もいる。

 そこでトイレに入って化粧直しをする人が多い。


「ああ、そうだな。人前で化粧直しするのはあまり好ましくないと思われていて、トイレを使う人も多い。そのぶん、女性用のトイレは混むことが多いんだ」

「へぇ……」

「じゃ、日用品とかクリスの部屋着とかも必要だし、違うフロアに行くぞ」

「うん」


 二人はこのホテルに来た道を戻ってデパートに入ると、六階の日用品売り場へとやってきた。

 日用品売り場はどうしてもシュウも興味のあるものが多くなってしまう。調理用品と食器類を扱っているからだ。

 特にシュウは備前焼が好きなので、つい備前焼の催事がないか気になってしまうのだがこの日は波佐見焼の窯元から社員らしき人が来て商品の販売説明をしていた。

 一方のクリスは同じ皿が、同じ品質、同じ模様で何枚も作られて並んでいることに驚いた。

 クリスのいた世界では、まだ陶磁器類は輸入に頼っていたので、なかなか揃えて手に入るものではない高級品だ。ガラス製品も同様である。


「素敵な食器がたくさんあるわ……ため息がでちゃう」

「そうか? オレはこの一つずつ違いがある備前焼が好きだが、クリスはどんなのが好きなんだい?」

「そうね……」


 欧州のメーカーは専用の売り場を持っているので、クリスが見ているのは国産品が中心だ。


「これとか?」

「ふぅん……」


 シュウはかわいいキャラクターものを選ばれたらどうしようかと思ったが、クリスが選んだのは波佐見焼の素朴な水玉模様の飯茶碗。水玉部分が窪んでいて、指のかかりが良くて使いやすそうだ。


「この模様にはなにか名前があるの?」

「ああ、普通に水玉模様っていうんじゃないかな……」


 クリスは感心したように飯茶碗を眺めると、その周辺に置かれている急須や湯呑なども手にとって眺め始める。とても気に入ったようだ。


「そうだ、家で食事するときのために買っておこう」

「いいの?」

「もちろんだ」


 シュウは近くにあった買い物かごを手に取ると、飯茶碗と湯呑、急須を入れた。自宅でお茶を淹れることは滅多に無いが、料理に携わる者として急須と湯呑くらいも家にあっていいだろうとの判断である。


「ねえ、わたしの分はこっちにしてくれる?」


 クリスが選んだのは白地に青の水玉模様の飯茶碗と湯呑である。ここまでくればもうアレである。


「えっとな、夫婦で使う茶碗は同じものを選んだりするんだが、「夫婦茶碗《めおとじゃわん》」と言われるんだ。オレたちは夫婦じゃないだろう?」

「そ、そうね……でも口をつけるものは別にしておきたいじゃない?」


 クリスのいうのも一理ある。間接キッスがどうこうなどと燥ぐ歳ではないが、はっきり別になっている方が便利なこともある。


「ま、そうかな……そうだな。そうするか……あとは箸だな」

「箸もいろいろあるの?」


 店で賄いの朝食を摂ったときの箸は、利休箸という割り箸の一種である。割り箸の素材はいろいろあるし、塗箸なども考えると教えるだけでもたいへんだ。


「いろいろあるが……」


 シュウは和食器売り場で箸が並んだ場所まで歩いて移動すると、じっと目を凝らして箸をひと揃い選ぶとクリスに渡す。


「これなんかいい。先が細くて小さなものまで摘みやすい。クリスの指のことを考えると少し太いかもしれないが、持ってみて間違いなく使いやすいはずだ」


 クリスは朝教わった持ち方を思い出しながら、箸を持ってみる。

 断面が八角形で先が細く、手元側はシュウが言うとおり太い気がするがとても持ちやすい。


「あ、ほんとだ。持ちやすいわ」

「それにするか?」

「うん」


 紫檀製の無垢の箸を選ぶと、シュウはすぐそばにあった汁物椀に目を止める。値段は結構高いのだが、桜や榎、楓などの無垢から削り出した汁物椀で、外側に反った形の欅製と桜製のものを一つずつ選んだ。


「それも買うの?」

「ああ、同じだと間違うだろう?」

「え、ええ……そうね」


 素材が異なるので色や模様、木目の色調が異なるのだが、素人にはほとんどわからない。ただ、使い込めばそれぞれ違いがでてわかりやすくなる。


 シュウはとりあえずカゴの中身を店員が並ぶレジで精算すると、今回も配送依頼をした。

 割れ物を持ち歩くのは怖いし、荷物が増えればそれだけ行動範囲が狭くなる。


 シュウとクリスはそのまま寝具やバス用品などの必要品も同じフロアで購入するとようやくデパートを出た。

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