第27話 ティータイム

 下着と服、化粧品と決まれば残りは普段の生活で必要になるものである。

 黒門市場近くの自宅にはシュウが男一人で暮らすための最低限のものは揃っているが、本当に最低限のものだ。

 だいたい、トイレにカバーや敷きマットなど置く気もないし、洗濯機のある脱衣場には流行りの珪藻土でできたマットがある程度で、殺風景である。

 とはいえ、クリスもこの日本の世界というものを知らないので、どのようなものが必要なのか理解できていない。そもそも、自分が元いた世界ではメイドがすべてを取り仕切ってくれていたのだから、そのような知識さえ身につくことがなかった。


「うーん、あとは日用品――日常で必要なものだな。部屋履きとか部屋着、追加のバスタオルとか……あと女性用のシャンプー、リンスとかそんな感じのもの……あとそうだ、茶碗や箸なんかも必要かな?」


 シュウがいろいろと思い出すように必要なものをあげていく。


「そんなにいろいろと必要なものなの?」


 クリスは明らかに疲れた顔をしていて、シュウもそろそろしっかりとした休憩の時間が必要であることに気がつく。

 時計を見ると、ちょうど十五時と喫茶店などは最も混み合う時間帯である。

 ただ、このデパートでは日用品はまた別のフロアだ。そこに向かう途中の階には隣接するホテルのラウンジがあるはずで、そこは値段が高くなるが空いている。


「じゃ、少し休憩しに行こうか」


 クリスはただ頷いて、シュウについて歩いていった。





 五階にある連絡通路を通ると、隣接するホテルにある時計売り場に到着する。

 そこに並ぶ時計のブランドは超高級品ばかりでシュウには手が届くものは一切ないが、綺羅びやかな宝石が散りばめられた時計を見てしまったクリスはもう、テンションが上ってしまう。


「これは、とても美しいブレスレットね……」


 値札らしきものがクリスの目にも入るのだが、その桁が何を表すものなのかも全く理解できていないので、ただただ羨望の眼差しというものだけで時計を見つめる。


「これは腕時計だよ。今の時刻を知るためのものでね、ここに並んでいるのはすべて手作りだろうな……少なくともオレには縁のないものだよ」

「ええ、それはわかるんだけど……きれいね」

「そうだな、でも目的地はこの先にあるエスカレーターの上だ。疲れてるんだろう?」


 シュウは宥めるような目でクリスを見つめる。

 その視線に、シュウ自身の疲れのようなものを感じたクリスはこくりと頷いて後ろをついて歩き出した。




 エスカレーターで六階にあがると、そこはホテルのロビーである。

 シュウが言うラウンジはその中央にあって、座り心地の良さそうなソファがずらりと並び、静かな時間を楽しむ旅行客などがお茶を楽しんでいた。


「ここだと値は張るが、静かだし並ばなくて済むからな。入るぞ」

「はい……」


 そもそもこの店以外に選択肢を提示されていないのでクリスも言うことがない。とにかく、シュウに従って中に入り、落ち着いた色合いで統一されたソファに座る。


「落ち着いたところね」

「ああ、とても高級な宿だからな。そのお客さんをもてなすための休憩所といったところだ」


 などと二人が話をしているところ、店員が冷たい水とおしぼりを持ってやってきた。


「こちらがメニューでございます。オススメはこちらのアフタヌーンティデイライトでございます」

「いや、オレはブレンドコーヒーで、クリスはどうする?」


 日本の文字が読めないクリスは眉を八の字にして、涙目になりながらどうすればいいかとその表情すべてでシュウに語りかける。

 シュウははじめて文字や貨幣についても教える必要があることに気がついた。今日は二人で歩いていてもすべてクレジットカードで決済してしまっていたのだから、気が付かなかったのだ。


「すみません、彼女はオススメのケーキとダージリンでお願いします」

「畏まりました。少々お待ちくださいませ」


 平静を装ってシュウがオーダーを済ませると、店員は奥へ下がっていった。


「ごめん、文字とか貨幣のこととか何も教えてなかったよな。あとで本屋にも寄らなきゃな……」

「え? 本屋さんって?」


 シュウは印刷技術が無い時代があったことを思い出した。すべてが職人の手で書き写されて作られた本は装丁にも個々のこだわりがあって非常に高価であったという。

 今でも海外では本を買ってきて、装丁だけをやりなおすという人たちがいるほどで、それほど本は大切なものとして扱われている。


「いや、本を売ってるお店だよ。この世界は印刷という方法で大量に同じ本を作ることができるんだ。今のメニューも印刷して作られたものなんだよ?」

「そうなんだね! この世界は文字が溢れていて、それが読めなくて……」


 肩を落として明らかに落ち込むクリスにシュウは強く反省した。

 見たこともないものだらけの世界で、見えない文字に囲まれて暮らすのは辛いだろう。


「とりあえず絵本あたりからはじめて、文字の勉強もはじめようか?」

「ええ、お願いするわ」


 ちょうど、給仕の男性がいくつかのケーキを乗せたトレイを持ってきて、ひとつひとつを説明するとどれにするかと尋ねた。


「ではこれで……」


 クリスは苺のショートケーキを指すと、シュウの方をチラリと見る。

 変なものを頼んでいないか心配なのだ。


 その不安げな視線を見てシュウは軽く頷く。

 組み合わせを見ればある程度は想像のつくケーキもあるが、最も無難なものを選んでくれたことで、シュウもそっと胸を撫で下ろした。


「畏まりました。それでは少々お待ち下さい」


 二人に声をかけた給仕の男性はまた奥に下がるのだが、しばらくするとシュウの前にはブレンドコーヒーが、クリスの前にはティーポットに入ったダージリンと苺のショートケーキが並んでいた。


「ねぇ、これはどちらから手をつければいいの?」


 クリスが尋ねる。マナーというものがあるのなら、それを知りたいと思ってしまうのが貴族子女というものなのだろう。


 シュウは特にルールは無いはずだが、一般的に飲み物が先に供される。喉を潤すことが優先されるからだろう。


「最初に紅茶、次にケーキだな。飲み方は自由だが、ダージリンは香りを楽しんで飲むようにするといいよ」

「ありがとう、試してみるね」


 シュウはほっと「ズズッ」と音を立ててコーヒーを啜る。

 砂糖なし、ミルクなしのブラックコーヒーにしたのは、二時間しか寝ていないからだ。

 それなのに店の中を歩いて、買い物のときは採寸だ、化粧だと待たされるだけという時間が長かったのが余計に疲れを生んだ。

 一方、クリスは十分に睡眠をとったあとで扉を潜っており、実はそんなに眠くはない。ふわりと漂う果物のようなダージリンの香りを楽しむ。


「お茶なのに、花や果物のような香りがするのね。甘さと爽やかさがあって美味しいお茶だわ」

「そうか、美味しいか」


 シュウは全体に弛緩した感じのふわりとした笑顔を見せた。

 春摘みの上等なダージリン特有の香りと味をしっかりと評価できるのは育ちの良さにあるのだろうとシュウは思った。


 そして、いまのクリスは目の前にある苺のショートケーキに釘付けになっている。

 他にも魅力的なケーキがあったのだが、鮮やかな色になにか不自然な感じがしたのと、シュウが見つめていたのが苺のショートケーキだったのが選んだ理由だ。

 赤い苺とホイップクリーム、何層にもスライスされて間にも苺とクリームが挟まれているのが見える。

 そうしてしっかりと観察し、目に焼き付けてからクリスはフォークを上から突き刺す。

 弾力のあるスポンジ部分が押さえつけられていくと、ずぷりとフォークが刺さり、最後は下の皿に当たる感触が返ってくる。クリスはそのまま崩さないようにフォークを抜くと、再度フォークを刺してケーキを口に運んだ。


 最初はふわりと焼けたスポンジケーキの香りが広がると、乳脂の甘い香りと苺の甘い香りが混ざり合って鼻腔へと抜けていく。

 舌の上でクリームが包み込むように広がると、乳脂の甘味と砂糖の甘味が押し寄せてきて、そこに、スポンジケーキの甘み、苺の甘さと酸味が層を成していく。


 クリスはひとくち。またひと口と食べる度ににんまりとした笑顔でフォークを舐め、ポットに入った濃い目のお茶でケーキを楽しんだ。

 シュウにとってとても残念なのは、既に舟を漕ぎ始めていて、クリスのとびきりの笑顔を見れれなかったことだろう。

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