第21話 ハンバーグ
忙しそうに働く厨房の中を飽きずに見ていたクリスだが、シュウが目の前にメニューを広げることで興味はそちらに変わる。先ほどから肉ダネを叩いて空気抜きをしているのは多く見かけるが、他の客のテーブルを見ると違う料理もいろいろと並んでいるのだ。
「ここの名物はハンバーグ。それに鶏卵で作った目玉焼きを載せたのがこの「ミンチエッグ」だな。あとは、この店が好きでよく通っていた有名人がいてな……その人がよく食べたのがビフカツ」
「――有名人ってどんな人種?」
クリスは聞き慣れない「有名人」という言葉に反応する。
「人種じゃない。たくさんの人がその人の名前を知っている……知られている人ってことかな?」
「ああ、吟遊詩人とか?」
「んぁーまぁ、そんなところか……まぁ、自国の中で有名っていう意味ではクリスもそうだろう?」
「あ、そうかも知れないわね……」
識字率が低いので、口伝で伝わる情報はとても大袈裟に広く伝わるのだが、誰もが興味を持つようなことばかり広がるのでクリスの知名度は領地では高いが他国にまでその名を轟かせるほどではない。有名人という意味では戦争での英雄であったり、吟遊詩人であったりすることの方が多いことなのだ。
「あと、オムライスもここのは美味しい。ただ、オムライスの名店というのがいっぱいあって……」
「――おまたせしました。ハンバーグです」
シュウが演説を始めたときに、タイミングよく料理が運ばれてくる。
ことりと小さな音を立てて置かれた平皿の上にはたっぷりの野菜サラダとケチャップで炒めた太めの柔らかなスパゲティが盛り付けられていて、その手前に平たく丸い肉の塊のようなハンバーグが鎮座しており、たっぷりのデミグラスソースの上に浮かび上がろうとする島のように見える。
続いてことりと音を立てて並べられたのはライスである。茶碗ではなくハンバーグよりは小さめの平皿に平らに盛り付けられた白いごはんからは湯気がたちのぼり、そのご飯がまだ炊きたてであることを教えてくれる。
知らぬ間にテーブルの右側には折りたたんだ紙ナプキンが敷かれていて、上には四本の平らな爪が伸びたフォークと、ナイフが並んでいた。
「お、きたきた。食べようか」
シュウはクリスにも食べるように促すと、徐に手を合わせると小さく呟く。
「いただきます」
それを見たクリスも真似をして、両手を合わせて呟く。
「い、いただきます」
言うや否や、クリスはシュウの動きをじいと観察する。どうやって食べるものなのかを調べるためである。
シュウはまず、サラダにフォークを指すと、口に運んでむしゃむしゃと食べ始めた。次にフォークを刺したのもサラダである。すべてサラダを最初に食べる勢いで口にサラダを運んでいくのを見てクリスは不思議に思って尋ねた。
「どうして野菜ばかり先に食べてるの?」
クリスの質問を聞いていたシュウは、もしゃもしゃと口を動かして野菜を噛むと、ゴクリと飲み込んでクリスに答える。
「ああ、食べる順番に応じて太りやすさみたいなのがあって、野菜、肉類、穀物の順に食べると一番太りにくいと言われててね……」
というと、また野菜にフォークを突き刺して続きを話す。
「オレはオレなりに自分の身体に気を遣ってるんだ。クリスは好きに食べればいいと思うぞ?」
「それって、わたしに太れってこと? そりゃまあ、ある程度ふくよかであることはわたしの世界では美しさの象徴みたいなところもあったけど……こちらの人ってみんな細いじゃない。細いほうがいいってことでしょう?」
シュウは口の中にフォークを突っ込んだまま、少し考えてから言葉を返す。
「いま、この国では何が身体にいいとか、どれが身体に悪いとかとかいう情報で溢れているけど、結局その身体にいいものだけを食べて百歳まで生きたって証明した人間はいないんだよ。でも逆に、ちょっとだけ理想的な体型よりも太っている人の方が長生きできるっていうことは統計的にわかってるんだ。だから、クリスはすこーしだけ太っても構わないよってこと……かな?」
「統計的とかって言葉のことはわからないけど、うーん……」
「それよりもハンバーグにフォーク刺してナイフで切ってみたら?」
突然話が変わったせいか、キョトンとした目でシュウを見つめるクリス。
当然、先ほど言われたことを思い出す。
“それは出てきたときにわかるさ”
そうだ、どうして空気を抜くのかを知るためには食べてみないと判らない。
クリスはシュウの言葉の意味を理解すると、「ごくり」と喉を鳴らしてフォークを左手に、ナイフを右手にもつ。
そっと押し当てたフォークは、あまり強い焦げ目のないハンバーグの表面を押しても押し返されるが、少し力を加えるとずぷりと中に爪が入っていく。
刺した場所からはドバッと肉汁らしきものが出てきて、デミグラスソースの赤茶色が薄まる。
そして右手に持ったナイフを押し当て、前にぐいと押し込むように切る。
驚くほど簡単に裂けたハンバーグの断面からは大量の肉汁が溢れ出し、デミグラスソースに混ざっていく。
「まぁ、凄い肉汁だわ!」
「空気が入ってると焼いてる間に弾けて肉汁が漏れるんだよ。だから念入りに空気抜きをしているんだ」
ようやくシュウが空気を抜くことの意味を説明してくれた。
クリスは左手のフォークに刺したハンバーグをデミグラスソースと肉汁にたっぷりと絡めて口に運ぶ。
醤油と砂糖で甘辛くなったデミグラスソースに肉汁が混ざると、口の中に旨味が一気に広がり、ホロリホロリとハンバーグのみが解れていく。
「美味しい……温かいのもあるけど、ステーキでは味わえない幸福感があるわ」
「だろう?」
シュウは口にハンバーグを入れるとひと噛み、ふた噛みしてごはんを頬張る。
見るからに口の中でハンバーグと白いごはんが混ざっているのが想像できるのだが、シュウはとても幸せそうに顎を動かし続けている。
「ねぇ、ごはんって……」
クリスが訪ねようとすると、まだ十分に咀嚼しきっていないタイミングで、シュウは口の中のものを飲み込んでしまう。
「ん? どうした?」
「ごはんって、おかずが口の中にある間に食べるものなの?」
左手に茶碗を持って、おかずを口に入れるとすぐに白いご飯を頬張る。
シュウは脳内でシミュレーションしてみたが、普段の食生活でご飯を食べるときにはだいたいそうしているような気がした。おかずだけではなく、味噌汁も同様だ。
「ああ、そうだな……オレの場合はそうだ。白いごはんは無味無臭だから、おかずと一緒に食べると口いっぱいにおかずの味が広がる気がするんだ。それで、無意識のうちにそうしているのかもしれないな」
シュウは視線を宙に泳がせるように思考しながら返事をした。
そういえば、おかずを茶碗の上にバウンドさせる知人は全員が肥満気味だったということも思い出し、独り口元を綻ばせた。
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