第14話 歯磨き

 クリスが風呂から出てしばらくすると、シュウが部屋に戻ってきた。

 といっても、突然ガチャリと扉を開くなんてことはしない。ちょうど風呂上がりだとクリスの裸体を目にする可能性もあり、二十八歳という年齢はそれを期待するほどの幼さが心に残っていないことを示している。

 ただ、偶然にもそういうことがあるということも想定してのことである。


 クリスはこっそりと部屋に入って来たシュウを見て、その意図を図りかねていた。やはり風呂上がりの自分ーー生まれた時のままの姿を覗き見ようとしていたのか……それとも、すでに着替えを終えていることを願いながらも偶然見てしまうことを恐れたのか……。


 だが、その答えは次に出たシュウの口から出た言葉で直ぐに杞憂であったことをクリスは知る。


「お湯の温度はどうだった? オレが好きな温度に設定していたからな……熱くなかったか?」


 眉尻を下げて心配そうにシュウが尋ねる。


「そうね……ちょうど良かったと思うわ」


 クリスは少し考えたようだが、実際に熱過ぎもせず、ぬるいと思う温度でもなかったのである。寧ろ、自分の家の風呂の方が熱くて苦労することがあるほどだ。


「温度設定の方法を教えてなかったから、買い物の途中でどうしようか凄い悩んだけど、心配なかったか……よかったよかった」


 ほっとした少し弛緩した表情で、シュウはコンビニで買ってきた歯ブラシや歯磨き粉、プラスティックのコップ等を袋ごと手渡す。

 キョトンとした表情でクリスは服を受け取るが、首をひねる。

 その中身を見て何に使うものかもわからず、戸惑っているのだ。


「これは、歯を磨くための道具だよ。クリスのいた世界ではどうしていたかは知らないが、こっちでは歯ブラシと歯磨き粉ーー練ってあるけど、その二つを使って歯を磨く。使い方はこうだ」


 シュウは自分の歯ブラシと歯磨き粉をとってくると、歯磨きの実演をする。歯と歯茎をマッサージするように磨き、歯周ポケットに毛先を入れて磨くバス法だ。


 シュウの手順を見てクリスも歯を磨こうと歯ブラシに歯磨き粉をつけて口に入れるのだが、すぐに眉を顰める。やはり初めての歯磨き粉は辛いだろうし、虫歯などにも染みるだろう。


「辛いか?」


 口を濯いだシュウがクリスに尋ねると、眉を顰めたままコクコクとクリスは頷く。


「そっか、でも我慢して全部の歯を磨くんだ。歯は大事だからな」


 クリスも納得しているのだろう。コクコクと頷くと、ようやくバス法で磨き始める。


「わたしの国だと、キバキの木というのがあって、その枝の先を噛んで柔らかくしてから、歯を擦るの。苦い汁が出てきて、最後に吐き出すんだけど、その苦さと比べたらこの辛いのは苦じゃないわ。それになんかスッキリするもの」


 なんとなくではあるが、クリスもこの歯磨きは気に入ったようである。これが子ども用のイチゴ味のものならもっと気に入るのかも知れないが、クリスの年齢でさすがにそれはどうかと思うし、シュウも店で買いづらい。


 クリスも口を濯いで、歯磨きの時間が終了すると、時刻は八時を回っていた。

 シュウは今日の営業がないのだが、徹夜はやはり辛い。それに、仮の服を買いに行く店も開店時間はまだ先だ。


 その後、シュウはドライヤーでの髪の乾かし方を教えると、大きく欠伸をする。


「これもすごい魔道具だわ!」


 クリスがまた驚いているが、シュウの方はもう限界のようだ。


「夜通し働いた後だからさ、予定どおり少し仮眠させてもらうよ。

 起きる時間になったら音がなるようになってるんだが……それでも起きなかったら起こしてくれるか?」

「ええ、いいわよ」

「じゃ、おやすみ」


 どのような起こし方をされるのか少し心配だが、水をかけたりはしないだろう。精々、寝顔を叩いて起こす程度だろうし、すぐに寝た方がいいとシュウは布団に入る。

 一方、クリスはごそごそと布団に潜り込んだシュウを眺め、どのように起こそうかと策謀を巡らせようと思うのだが、すぐに寝息を立てて眠ったシュウを見て、悪戯っぽい起こし方はやめようと思った。


 年頃の女の子で身寄りのない自分を誠実に、大切に扱ってくれる男性。

 そして、仕事明けで疲れているにも関わらず、自分のことを第一に考えてくれている男性。


「そんな人に悪戯はできないわ……」


 クリスはまた独りごちると、脱衣室にある洗面台でひとり髪を乾かした。





 ソファに戻ると、クリスはまた窓の外をぼんやりと眺める。

 青空の下、カクカクとした建物が窓の向こうに立っているのが見え、そのさらに向こうには恐ろしく高い建物が聳え立っている。

 クリスはその二つの建物がとても気になるのだが、「試練」のことを考えると、そうも言っていられない。

 引き戸を開けと言ったのは父のエドガルドであるが、その先で「試練」を見つけることができず、帰ることさえできなくなるとは父や兄、妹も想定していなかっただろう。とにかく、扉の中に入れば一子相伝の書でも手に入るものだと思っていたに違いない。正直なところ、自分もそう思っていたのだ。

 ところが中に入ってみると、自分がいた世界とは全く異なる世界に繋がっていて、今ではそこで知り合った男の家で保護されているという状態である。本当に幸いなことは、その男がとても誠実で、紳士的であること、今日初めて会ったクリスのことをとても大切にしてくれていることだ。


 ――わたしは運が良かったのね。


 クリスはシュウの寝顔を見て微笑む。

 愚直なほど真面目なことは店の清掃やクリスへの応対を見ていてわかる。

 そして住む世界が違うこともあり、クリスが第二王女であることなど全く気にしていない。ただ真っ直ぐに、クリスティーヌ・F・アスカという人間だけを見てくれている。こんな男は初めてだ。


 旧王城では父や兄妹が心配して自分の帰りを待っているだろう。それがわかるが故に早く帰りたいという気持ちが強くなる。

 だが、見える景色やそこで寝息を立てて寝ている男が気になるし、何よりも「試練」の内容がわからなければどうにもならない。


 ――まぁ、仕方ないわね。


 旧王城で待つ父と兄妹に心で謝罪しつつ、クリスはまた窓の外に目を向けた。

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