第13話 お風呂

 シュウは短い髪に男性用のシャンプーを掛けてゴシゴシと頭皮を揉み洗いする。両親は早くにこの世を去ったのでよく覚えていないが、写真を見る限りまだ三十代だったシュウの父親の髪は特に薄いということはなかった。だが、叔父の方はというと徐々に額が広くなっていくのを目の当たりにしていたので、丁寧に洗う癖がついていた。

「リンスは抜けます」と散髪屋で教わっているからか、シュウはシャンプーを洗い流すと、次に体を洗い、髭を剃った。

 ざぶんと音を立てて浴槽に浸かり、シュウは湯船のお湯を掬って顔にかける。


「ふぅ……」


 やっとひと心地ついたといった気持が込もった溜息だ。


「やっぱ風呂はいいなぁ」


 と、シュウは独りごちる。この気持ち良さは、衣食住という生きる上で必要な三要素だけでは得られない幸せだ。

 だが、浴槽の中でシュウの思考は現実に戻ってくる。これからあのクリスという少女をどうするか……ということだ。

 ある意味では密入国者である彼女を従業員にするには就労ビザや給料の支払い、納税、社会保険料などの問題が必ずつきまとってくる。そこから先は、この地球にはない別の世界からやってきたということがバレて、さらに大きな騒ぎになるのは間違いない。

 ということは、雇用関係がない「お手伝い」として働いてもらうのが一番いいということになる。


「どちらにしても、働くための服も必要だなぁ……」


 などと呟くと、充分に温まったのか、シュウは風呂をでた。






「では、オレは近所でクリスが使う歯ブラシや、ヘアブラシなんかを買ってくる。その間にさっき教えた通り、髪と体を洗うんだぞ」


 すでに着替えを終えて髪も乾かしたシュウがクリスに話すと、胸にバスタオルやシュウから渡された新品の男物の下着などを抱え、クリスがコクコクと頷く。

 この風呂に入っている時間、シュウは近くに買い物に出るのだからクリスも安心というものだ。


「じゃ、行ってくる」


 Tシャツとデニムパンツというラフな格好でシュウはフラリと家を出て鍵を閉めた。パタパタと、かかとを踏みつぶしたスニーカーで出て歩く音が遠ざかっていく。

 ただ、クリスは念のため扉のところまで行って、外の様子を知るために聞き耳を立てる。小鳥の鳴き声が聞こえる程度で、そこにシュウはいない。


 するとクリスはとても心細くなってくる。


 地球にきて最初に話したひと。

 何がなんだかわからなくなり、狂ったように叫び声を上げていた自分に優しく接してくれたひと。

 試練が見つかるまで、何があっても守ると宣言してくれたひと。


 クリスはまだ他の人間とは接していない。

 ただ、あの店の中につながり、そこでシュウに知り合ったということの意味は必ずある。

 クリスはそう思うと、普段は一人で脱ぐことなどないドレスを脱ぐという作業に四苦八苦しつつも目標を達成し、風呂場ヘと足を入れた。






 まずはシュウに教わった通り、クリスはシャンプーで頭を洗う。髪を洗うというよりも、頭皮を洗うという感覚を大切にする。すると、意外にも自分の細い指の腹が押す感触は気持ちがいい。そして、出た泡を髪全体に広げて表面を優しく洗う。

 クリスがいた世界にはない滑らかな洗髪剤は髪全体を包み込み、今までに嗅いだことがないような甘さと酸味などを含むような香りで包んでいく。

 そして蛇口右のレバーを押し上げると、管の先から温かいお湯が降り注ぎ、髪についた泡を綺麗に流す。脂分が抜けたせいか、少し髪がキシキシとして、クリスは少し不機嫌になる。ただ、次に使えと言われた液体ーーコンディショナーを手に取って、頭皮と髪全体に馴染ませると、またそれをシャワーで洗い流すと、髪の様子はまた変わっていて、クリスは驚いた。

 実際にホテルのアメニティとはいえなかなか良いもののようで、髪がしっとりとまとまり、先ほどのシャンプーに負けないほど甘く、柔らかな香りがクリスの髪を包んでいる。


「なんていい香りなの……」


 クリスはその香りを嗅ぐと、うっとりと目を閉じて香りを楽しんだ。

 だが、このままでは風邪をひいてしまう。

 クリスはシュウから受け取ったペラペラの白いスポンジにお湯を吸わせる。数秒もすれば何倍もの大きさになった。


「これはすごいわね……これに液体の石鹸をつけて身体を洗うのね」


 クリスはその細い首からスポンジを使って洗い始める。

 シャンプーに負けないほどの香りが広がり、スポンジで磨くほどに自分が綺麗になっていくような錯覚に陥る。元の世界では数日に一度しか入らないのだから、正しいことなのかもしれないが、それでも自分の世界ではあり得ないほどに汚れが取れる感覚が残るのだ。

 最後にクリスはまたシャワーで全身の泡を洗い流し、浴槽に浸かった。


 浴槽のお湯は仄かに赤みを帯びていて、ふうわりと薔薇の香りが漂っている。

 そういえばシャンプーやコンディショナー、ボディソープも薔薇の香りをベースにしたものが用いられていた。

 クリスはその薔薇の香りに包まれ、初めての異世界の風呂で心からリラックスし、気がつけば故郷のマルゲリットで歌われる「やすらぎの歌」というのを軽く口ずさんでいた。





 風呂から出ると、クリスはシュウから受け取っていたバスタオルで全身を拭き、長い髪を纏めるように巻き上げた。

 そして、自分よりも二〇センチ以上大きなシュウの新品の下着を身につける。

 元々、シュミーズと呼ばれるインナーを一枚のみ身につけるだけの習慣しかないクリスにすれば、このTシャツとパンツを身につける機会などあるはずもないもの。

 だが、一度着てみるととても着心地がいい。

 上質な綿だけで作られているので、柔らかく肌触りが良いのだ。


「これはお父さまのお土産に良さそうね……」


 などと呟くと、ソファに座りのんびりと窓の外を眺めた。

 こうして座ってみて思い出しても、「試練」の手掛かりは見つからないし、思い出すこともできない。ただ、焦っても見つからないことは確かなことだ。


「いまは何もかもシュウさんに頼るしかないもの……」


 歪な形をした鉄の塔が、少し離れたところに立っているのが見えた。

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