第9話 洗礼

 食事を終え、シュウは二人分の丸盆を持って厨房に戻る。

 食器類を洗って、残った水分はで拭き取っていると、クリスが珍しそうにシュウの作業を見つめている。

 食器の上の料理を食べることはあっても、そのあとはどのようにして洗浄し、乾かすのかということなど考えたこともないし、見たこともなかった。ただ、丁寧に水滴を拭き取り、種類別に重ねて収納していく。

 これは、陶器の茶碗、磁気の皿、漆器の椀と箸という素材によって正しい扱い方というのがあるからなのだが、綺麗に整理された食器棚は見ているクリスの目を楽しませる。

 そして、鍋を磨きあげるとシュウは最後に包丁を研ぎ始める。


「シュッシュッシュッ」


 砥石に一定の角度で刃を当て、前に押し出すように研ぐ。荒砥石から赤茶色の中砥石、最後に上げ砥石で研いだ包丁は刃が鏡のようにきらりと輝き、クリスには名剣のようにさえ見えた。


「すごいわ、名剣と呼ばれる剣よりも綺麗……」


 思わず、クリスは声に出して包丁研ぎの成果を褒め称える。

 叩いて潰すような剣か、相手を突き刺すための細剣が主流の世界に住むクリスにとって、独特の波紋が浮かぶ研ぎたての和包丁はある種の芸術品にさえ見えてしまう。


「オレたちにはどうってことのない包丁なんだけどなぁ……」


 洗い流した包丁の汚れを布巾で拭き取り、コンロで軽くあぶると包丁立てに収納する。


「待たせて悪いが、あと床を洗ったら終わりだ。すぐに終わる」


 シュウがクリスに向かって最後の作業を説明すると、なにかクリスの様子がおかしい。なにか、モゾモゾとしていて、落ち着きがないのだ。

 それがどうもトイレに行きたいというサインであると察知したシュウはクリスに声をかける。


「そういや、トイレの場所と使い方を教えないとな」

「ト、トイレ? ですか?」


 日本語は通じることがわかっているが、外来語やそこから派生した和製英語のようなものは通じないのかもしれないとシュウは直感する。

 そもそもなぜ日本語が通じるのかもわかっていないのだ。


「えっと、はっ……排便する場所と、その使い方を教えようかと思ってね」


 厨房から客席側に歩いてきたシュウは、座っている横を通って、カウンター席の奥にある小さな扉の前にやってくる。


「こっちにきてくれるか?」


 クリスはよろりと立ち上がると、内股気味にそろそろと歩き出し、なんとかシュウの隣にまでやってきた。

 少し顔が紅潮しているところを見ると、緊急事態ではあるが、危険な状態ではないようである。


「はっ、早く説明して!」


 クリスの声に焦りが込もる。限界まであと少しというところなのかもしれない。

 ただ、シュウは焦る様子もなく淡々と話す。


「ここの扉を開くと便器がある。蓋が勝手に開くから、扉側に向いて座り、そこにすればいい……終わったら、巻いた紙を適量取って拭く。そして立ち上がれば、自動で流してくれるよ」


 ガチャリとシュウがトイレの扉を開くと、便座の蓋が開く。


「どうぞ……」


 シュウは大仰な態度で迎え入れるようにクリスに頭を下げる。

 だが、限界点突破寸前のクリスにとってはそんなことは関係がない。扉の中に飛び込むと、バタンと扉を閉じて、ドレスの裾をまくり上げて便座に座る。


 クリスはギリギリまで我慢していた。

 ここが自分の屋敷であれば、便座に座ることもなく部屋の隅などで済ませていたかもしれないが、シュウが厨房の床を泡だてて洗おうとするのだ。クリスのいた世界の感覚で用を足してしまうことは許されないと直感したのだ。


 そして、現在は史上最高の開放感に浸っていたのだが、それも既に終焉の時を迎えた。


 少し気が抜けたのか、クリスはトイレの中を見渡す。

 壁には、何か、四角い赤、水が噴き出す絵が二つ描かれたものがあって、その近くに黒いガラスのようなものが埋め込まれていた。

 そのすぐ下には、グルグルと巻いた薄い紙が芯の部分で支えたれていて、金属の蓋のようなものが付いている。


 ――この紙を適量巻いて、拭けばいいのね。でもこの絵は……。


 クリスの興味は赤く四角い絵が描かれたもの、水が飛び出す絵が描かれたものに向かってしまい、まずは赤く四角い絵が描かれたものを押す。


 なにも起こらない。


 ――あら、心配したけど何もないじゃない。


 安心したのか、その横にある水が噴き出す絵のボタンを押す。


「ウィウィーン、ウィンウィン……」


 お尻の下で何かが動き出す音がすると、いきなり温水がお尻の穴に向けて射出された。


「ヒャぁぅ!」


 個室の中でクリスは声をあげると、慌てて隣にある別のボタンを押す。

 一度止まった水流は、目標位置を前方に変えて攻撃してきた。


「もぅ! なんですのこれはっ!」


 頼りない声を出すと、また慌てて赤く四角い絵が描かれたボタンを押す。


「ウーウィーンウィウィン」


 お尻の下から出る攻撃が止まる。

 クリスは一連の出来事に言葉を失い、ただぼんやりと便座に座っていたのだが、少しずつ気持ちが落ち着いてくるとこの機能が肛門と性器を洗浄するためのものであることに気づく。


 慌てたことで立ちあがりそうになったのだが、なんとか服を汚すことなく用を足すことができ、クリスは満足げに巻き取った紙で濡れてしまった部分を拭いて立ち上がる。


 すると、便座センサーが反応して自動的に便座の中に水が流れ、洗浄されていった。


 ――これはすごい魔道具ね。


 地球の器具は全てが科学の力で構成された世界であることを知らないクリスは、ひとり納得してトイレから外に出た。

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