第2話 邂逅

 ガサゴソとカラスがゴミ袋を突き引きちぎると路上に残飯が飛び散る。それを狙ったスズメがちゅんちゅんと電線にずらりと並び、通りを歩く人の波が途切れるのを待っている。

 いまは太陽が生駒山の上にちらりと顔を覗かせる程度に明るくなってきた時間帯である。この時間帯まで営業している店もそろそろ店を閉めたのか、始発の電車に乗るべく千鳥足で歩くスーツ姿の男たちや、見るからに仕事終わりに更に飲んでから家路に就いたホステスたちの集団がふらふらと覚束ない足下で歩いている。


「ガララッ――」


 畳一枚ほどの引き戸が開くと、短髪で日本人にしては比較的がっしりとした体格の男がのそりと姿を現した。

 店の前には「めし」とだけ書かれた藍染の暖簾が掛かっているが、男は竹竿をひょいと持ち上げてそれを肩に載せると、じろりと周囲を見回す。

 男の名前は生田秀一。まだ三十路と呼ぶには早いが、アラサーと呼ばれる年頃であり、多くの者からはシュウと呼ばれている。


 始発列車が動き出し、タクシーの運転手たちが交代へと向かう時間帯。最近流行りの裏なんばと呼ばれる相合橋筋商店街に繋がる道から閑散とした路地に入ったところにある店の周りにはこれから入ろうとするような変わった客はいない。

 この店も今日は営業終了である。


 電柱には酔っ払って潰れたサラリーマンが背中を預けて眠りこけていて、ゴールデンウィーク前ということもあって、シュウも特に声をかけたりはしない。これが真冬であればそうはいかないところだ。


「――んんっ」


 シュウは朝の心地いい、ひんやりとした空気と昇ったばかりの朝日を浴びて伸びをした。


「この後は久々の休みっと……」


 引き戸の外にある木ネジに「本日休業」と書かれたプラスチック製の板をぶら下げると、シュウは店内に戻り鍵をかける。

 あとは今日の賄いを作って、食べる。その後、片付けと掃除を済ませて業務終了だ。


 ということで、賄いだ。

 まだ五時を少し過ぎた程度なのだから、世間一般には朝食の時間である。シュウにとっても、戻ったら風呂に入って寝るだけという予定を考えれば簡単な朝食で済ませることにしたい。


 店で客に出すために置いてあった洗い米――研いだ米をザルに上げておいたもの――をとり、土鍋に入れる。そこに整水器の水を同量よりも少し多めに入れたら、蓋をして火にかけた。


 ご飯を炊く時の火加減を歌詞にした歌がある。「はじめちょろちょろ、中ぱっぱ、じゅうじゅう吹いたら火を引いて、赤子泣いても蓋とるな」という歌詞だ。


 土鍋は金属製の鍋と比べて熱伝導率が低い。つまり熱しにくく冷めにくいのでいきなり強火にかけても鍋の中では「はじめちょろちょろ」な火加減になるのだが、充分に熱が伝わると「中ぱっぱ」な状態になる。だから、ここから沸騰するまでの間は特に土鍋の前に立つ必要はない。


 そのせいか、シュウは冷蔵庫の中身を確認しながらメモを取りはじめた。

 ミミズが這ったような文字ではあるが、あくまでもメモなので自分だけが読めればいい。だが、掌に載せた小さなメモ帳に書くものだから余計に書きづらく、汚い文字になっていく。あとで本人でも読めないのではないかと心配になるほどだ。


 そうして五分程度の時間が経つと、土鍋がコポコポと音を立て始める。

 土鍋の中で沸騰している音がだんだん大きくなると、蓋の周りに泡と煮汁が浮いてきて、もうすぐ吹きこぼれることを教えてくれる。これが「じゅうじゅう吹いたら火を引いて」のタイミングだ。

 シュウはそのタイミングを見極めるように見つめると、土鍋の火を弱火に落とし、ピッピッピッとタイマーを設定して開始ボタンを押した。


「さてと……」


 シュウは軽く息を吐いて、店内の清掃を始めた。






「ピピピピッ……ピピピピッ……ピピピピッ……」


 客席周辺の清掃もそろそろ終わりという頃合いで、セットしたタイマーが鳴った。

 シュウは慌てて厨房に戻るとコンロの火を消し、ふうと一息吐く。

 煩く鳴り続けるタイマーのスタートボタンを再度押して、別のコンロの上に雪平鍋を置き、レードルで掬ったいりこ出汁を小鍋に入れると、そこに賽の目に切った豆腐と戻したワカメを入れて弱火にかけた。

 シュウは次に冷蔵庫から取り出した紅鮭の切り身を業務用の上火ロースターに掛けると、店の入口横にあるポストの蓋が開き、ごそごそと朝刊が差し込まれた。

 掃除の続きをするには中途半端な時間。料理をじいと見つめるにもまだ鍋も沸騰しないし、紅鮭に焦げ目さえついていない。

 シュウはのっそりと歩き始めると、店の入口にある投函口から落ちた新聞を取って、挟まれた折込チラシを抜き取ると、厨房に戻ってゴミ箱に折込チラシを捨てて、椅子に座って新聞を眺める。


「四月二十九日ね……世間じゃ連休ですかっと!」


 誰もいない厨房で独りごちると、どっかと中央に穴の空いた丸い座面に腰掛ける。


 そう、この日はゴールデンウィークの初日であり、特にこの裏なんば界隈も観光客が増えて充分な売上を見込める時期だ。どちらにしても外国人観光客は多いであろうが、帰省ついでにやってくる家族連れや学生たちも増えることは間違いない。


 ぱらぱらと興味がある記事だけを拾って、スポーツ面を開く前にシュウがちらりとタイマーに目を向ける。残り時間は七分というところだ。

 何も言わずに立ち上がると、シュウはロースターに入れた紅鮭の様子を見る。

 表面にはいい具合に焦げ目がついていて、じゅうじゅうと身から溢れ出た脂が音をたてている。皮目も薄らと焦げ目がついて、見る間に黒く色が変わり始めた部分もある。


 シュウは菜箸で紅鮭を裏返すと、布巾でロースターの網を一段下に下げる。

 皮目はしっかり、ある程度火が通った身には遠火でじっくりと中心まで火を入れる。


「よしっ」


 気合のためか、それともただの区切りなのか……シュウは小さく呟くと、冷蔵庫から二種類の味噌を取り出す。

 レードルで同量を掬い取るとふつふつと煮えた雪平鍋に突っ込み、味噌を冷蔵庫に仕舞うと、急いでレードルの味噌を菜箸で溶いて、コンロの火を消した。

 続いて冷蔵庫から青ネギを一本取り出すと、根を切り落として中央から二つに切る。それを束ねてまた二つに切って束ね直し、ざりざりと音をたてて青ネギを刻む。刻んだ青ネギから香りが立ち上り、ふわりと消えていく。


 青ネギを刻み終えると、味噌汁椀を取り出すとそこに雪平鍋から味噌汁を装って青ネギを散らす。ロースターからは鮭の身が焼けた匂いが漂っていて、じうじうと脂が溢れ、溢れる音がする。

 丸い模様が二つ描かれたような焼締めの俎板皿を取ると、そこに焼きたての紅鮭の切り身を載せる。大根おろしや、芽生姜があればそのまま客に出せる一皿になるだろうが、これは賄いだ。飾りは一切必要ない。


「ピピピピッ……ピピピピッ……ピピピピッ……」


 再びタイマーの音が鳴る。

 シュウはタイマーの停止ボタンを押すと、布巾を手に土鍋の蓋を開く。


 真っ白な湯気がもわりと上がると、炊き立ての白いご飯の香りが厨房いっぱいに広がる。

 その得もいわれぬ香りにシュウはうっとりとした表情を浮かべると、視線を落として土鍋の中の炊き立てご飯を見つめる。

 米の一粒一粒がその形を維持しつつ、表面に粘りを持って艶々と輝き表面を覆っていて、食欲を掻き立てる。

 シュウは水道水でサッと杓文字の表面を湿らせると、土鍋ご飯の表面に十字の切れ目を入れて四等分し、底から混ぜるように中身を返す。底の部分は少し焦げているのだが、十五分間の蒸らしで再度水分を吸ってぺろんと剥がれ、香ばしい匂いを上げて混ぜ込まれる。


 シュウは飯茶碗を食器棚から取り出すと、ご飯を装う。

 調理台に並べた料理と共に丸盆に載せると、自分専用の箸を取り出してカウンター席に向かった。


「ガララッ――」


 その時、扉が開く音がした。


「――ん?」


 シュウは首を傾げる。


 始発電車が動き出して三十分は経っているが、明日から連休ということもあって泥酔した人たちが千鳥足で街を歩き出す時間帯である。暖簾を店内に仕舞うと同時に鍵をかけなければ闖入者がいても不思議ではない。

 だから、シュウは確かに鍵をかけたのだ。


 シュウはカウンター席に料理が載った丸盆を置くと店の引き戸を確認する。


 間違いなく鍵はかかっている。


「気のせいか……」


 シュウはカウンター席に戻り、椅子に座ると手を合わせる。


「いただきます――」

「――ガララッ」


 鍵がかかっていたはずの引き戸が開き、ドレス姿の少女が飛び込んできた。

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