第3話

夜風が優しく頬を撫でた。


影の濃くなった裏庭の景色は月と星の青白い光の中で息づき、昼間の明るくのどかな雰囲気とは違う妖しげな美しさがあった。


これはきっと、祖父の語るセロセトに近い雰囲気だ。


深い闇の中に紛れる幻想的な動植物たち。


朧げで青白く、形状は様々。


驚くほど巨大なものや小さなもの、想像を超えた姿で彼らは宙を彷徨ってみたり、地を這ったりする。


固定概念に囚われていては、セロセトの姿はひと目見ることも叶わないのだと。


生き生きと語る祖父の姿が脳裏に浮かび、そして直ぐに信じたくない嫌な記憶に置き換わる。


というのも、サラエゼナがこの島に来る前、祖父の姿は寝床に横たわるセロセトらしい何かになってしまっていた。


少年のように輝いた目でサラエゼナを見ることはなくなり、深淵に漂う未知の生き物のような眼差しを向けてくるのだ。


それと同時に、祖父の大切にしていたセロセト産と言われるただの見たことのない枯れた植物だったものが、人のような形を取り動くようになった。


あとはたぶん、日の光を反射した塵を見間違えたのだと思うが、祖父の周囲にチカチカと青白い燐光が舞い飛んでいるような気がするようになった。


何もかもが、疑わしくなってしまった。


祖父は何かになり変わられてしまったのだろうか。


お医者さまは何の問題もないと言う。


サラエゼナは隣家の女性に祖父の世話を頼み、祖父の宝物をトランクに詰めてセロセトに旅立った。


隣家の女性は祖父とサラエゼナのセロセト好きを知っていたので、優しく笑って送り出してくれた。


けれど、もう、サラエゼナはセロセトを純粋な目で見れなくなっていたのかもしれない。


ふと、サラエゼナは物思いから覚醒する。


夜の裏庭がざわざわと風に揺れた。


その揺れが、昼間ベルデラドの小屋で感じた揺れに似ている気がしてサラエゼナは眉根を寄せた。


背後から何か小さなものが飛び跳ねるように躍り出て、少し行ったところで足を止めた。


驚いて身を竦めるサラエゼナの視線の先、青白い月光に照らされたあの小さな植物人間が振り返った。


すぐ隣で笑う気配があった。


慌てて振り向けば、そこには青白い燐光を放つ人のようなものが立っていた。


「君のおじいさんは僕たちと一緒に行くよ。」


ベルデラドの声でその青白い人が言った。


その言葉が切っ掛けのように、暗い闇を通り抜けて青白く朧げな祖父が歩き出てきた。


祖父の手元に何か小さな妖精のようなものが纏わり付き、楽しそうに見上げて話しかけているように見えた。


「…どうか!おじいちゃんを返してくれませんか…!」


サラエゼナは恐怖を抱くような謎の生き物に縋る勢いで頼んだ。


まだ、祖父とやりたいことがたくさんあった。


話したいこともたくさんあった。


連れて行かないでほしい。


取らないでほしい。


「君のおじいさんは、人としての生は終えている。」


ベルデラドは視線を動かして祖父の方を見るように促す。


無表情の祖父の体中の表面を這うように、青白い繊毛のようなものがざわざわと流れていた。


「動いていたのは僕たちと同じ原理だ。これは、僕たちの血のように流れて、無い形を創り出して、意思を共有するものだよ。」


手の平の上で青白い何かを見せつけながら淡々と、微笑むような声で宥めてくるベルデラドの声に、サラエゼナは激しく首を横に振った。


けれど、祖父の身体は輪郭を崩し、膨張して変形していった。


祖父の眼差しはそのままに身体だけが伸びて鱗を持ち、鼻面が伸びて口は大きく裂けて牙を持った。


節くれ立って大きくなった細長い手に鋭い爪が生え、背に大きな翼が広がった。


すっかり幻獣となった祖父が夜空に飛び立つ。


ぶわりと強い風の波が周囲に広がった。


「おじいちゃん…、おじいちゃん…!」


―――もしも、セロセトの谷に降り立ったなら、そこでは何もかもが元の形を保てないかもしれない。


茶目っ気を隠しきれずに脅しをかける、祖父の怖い話も、やはりセロセトに関連していた。


けれど決して、どんな姿になったとしても君のことは忘れないから、大丈夫だよ。


なんの根拠もないのに断言する祖父の笑顔は頼もしかった。


確かに、あの眼差しを持つ幻獣ならば怖くなんてないだろう。


でも、もう、セロセトなんて好きでいられそうもない。


祖父が夜空に消えると同時に辺りはただの夜景に戻った。


おかしなモノも何も、傍にはいない。


さらさらと流れる小川の水音と、静かな夜を壊さない程度の夜の鳥や虫の声だけが聞こえる。


まるで一瞬の夢のような出来事で、サラエゼナはいまだに本当に起こったことなのか確信を持てずにいる。

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