第2話

サラエゼナの小さな島での生活は滞りなく続いた。


朝、目が覚めて身支度をしたあと、簡単な朝食を準備して、食卓につき、家主のお婆さんと朝食を摂る。


片付けをした後は食材や雑貨など身の回りの不足をチェックして、近所の小さな店舗に買い物に出掛けたり、そこで雑談を交わしたりする。


島に来る以前も似たような暮らしをしていたのだが、島での暮らしが新鮮だったからだろうか、サラエゼナは毎日が穏やかだが充実して、満ち足りていた。


本当は、島に来た目的があったのだが、…焦ったところで何も変わらない。


一日一日を穏やかに過ごすことは責められるようなことだろうか。


先延ばしにしているのではないかという焦燥感はあったが、サラエゼナはその度に努めて落ち着きを維持した。


その日、家主の老婆は珍しく外出する準備をしていた。


「出掛けるんですか?」


頑丈そうなブーツを履いて杖の様子を確かめていた老婆に、サラエゼナは声を掛けた。


老婆はちらりとサラエゼナの表情を窺った。


数日前にトランクの中の秘密を打ち明けてから、老婆は何やら考え込むようになった。


サラエゼナはその変化を少し申し訳なく思いながらも、仕方のないことと気付かない振りをしていた。


「ああ。お前も一緒においで。」


老婆が何でもないことのように言うのを聞きながら、サラエゼナは少し緊張して頷いた。


「それと、トランクも持っておいで。」


サラエゼナは黙って従った。


小さな島の小さな村の、細い道を二人で歩いた。


最初は顔見知りの人達に挨拶をしながら歩いていたのだが、その内に人気はなくなり、だんだんと背丈に近い雑草と鬱蒼とした木々の生い茂る山道に差し掛かっていた。


「この道をもう少し行くとセロセトさ。思ったよりも近いだろう?」


サラエゼナは顔を上げて老婆の背中を見つめた。


「はい。」


確かに、村の道を歩いていたはずがいつの間にかもう山道だった。


それにしても、あまり出歩かないものと思っていたお婆さんは意外と足取りがしっかりしていて、むしろサラエゼナの方が荒い息をしている。


「ああ、見えてきた。」


いっそ活き活きとした声で老婆が言い、セロセトの谷とは遠くからでも分かるような外観なのだろうかと不思議に思いながら、サラエゼナは慌てて前方を注視した。


見えたのは、小さな小屋だった。


老婆は真っ直ぐに小屋に向かい、扉のノッカーを数回打った。


直ぐに小屋の奥から返事が聞こえ、扉は開かれた。


サラエゼナには何かを考える暇さえ与えられなかった。


「こんにちは、ベルデラド」


扉から姿を現したのは焦げ茶色の髪と目をした青年で、老婆は直ぐに挨拶をした。


ベルデラドと呼ばれた青年は少し驚いたように目を見張ったが、直ぐに人懐こそうな笑顔を浮かべた。


「こんにちは、ルルア。そちらのお嬢さんも、中へどうぞ。お茶を淹れますよ。」


サラエゼナは口を挟む隙もなく、会釈だけして老婆について中へ入った。


小屋の中は物が少なく、思ったよりも広く感じた。


けれど、四角い小さなテーブルに椅子を三つ寄せ合って話すのは、さすがに少し窮屈に感じた。


会話はほとんど老婆と青年で行われた。


サラエゼナがこの島に来たときの話や、老婆の家に寝泊りしている話、サラエゼナの祖父がセロセトの谷が好きなこと、その話をサラエゼナがよく話すのだということ。


話を聞いたベルデラド青年は、他愛ない質問をしたり、村の人について老婆と話す。


サラエゼナは相槌をうったり、笑い合ったりと、普段の村の人達との雑談とそう変わらなかった。


けれど、とうとう老婆が口火を切った。


「それでね。あんたに見てほしいものがあるんだ。」


サラエゼナは一瞬、背中に冷たい汗が流れたように感じた。


老婆に視線で促され、サラエゼナはトランクを開け、渦中のものを取り出した。


油紙を広げて小さな植物人間を見せた時、和やかだった空気は重苦しい沈黙に変わっていた。


ベルデラドは少し眉を寄せ、じっと植物人間を見ていた。


植物人間はぐったりとして動かないかに見えたが、やがて微かにまぶたを震わせた。


そして、その時、サラエゼナには植物人間の表面がほんの少し揺れたように思えた。


それは振動とか、ただ揺れただけではなく、何か意思のある方向性をもって、一瞬一瞬を区切るように、同方向に、方向を変えて、動いているように見えたのだ。


「…あなたは、この子と話せるんですか?」


植物人間を見たまま、サラエゼナは思わず聞いていた。


「…え?」


ベルデラドはきょとんとした顔でサラエゼナを見返した。


ベルデラドのその表情を見て、サラエゼナは何だか自分がおかしな事を口にしたと悟った。


一拍置いて、サラエゼナに猛烈な恥ずかしさが襲いかかり、顔を真っ赤に染めて俯いた。


「…もしかして、ちょっと変わったことを言うお嬢さんなんですか?」


ベルデラドは老婆の方を見て尋ねた。


「…いやぁ?…そうだったかねぇ…?」


老婆は曖昧な返事をした。


さらに言えば、この小屋でのおしゃべりも曖昧にお開きとなった。


結局、植物人間についてベルデラドがはっきりした回答をくれなかったことに気付いたのは、老婆の家に帰ってきてからのことだった。


「ベルデラドさんは、セロセトの谷に詳しいんですか?」


夕食の席で、サラエゼナは尋ねた。


だからこそ今日紹介されたのだろうという予想はしていたので、質問というよりは確認だった。


けれど、老婆はきょとんとした表情でサラエゼナを見返した。


「…ああ!…そうさ……。そう、詳しいんだ。」


老婆はどこか遠くを見るような表情でぼんやりと言った。


その様子を不思議に思いながらも、サラエゼナは深く追求できなかった。


ベルデラドの小屋でおかしな質問をしてしまったことを思い出し、恥ずかしくなってしまったからだ。


思い返してみれば、なぜ自分はあんなことを言ってしまったのかと後悔しかない。


別に話しかけていた訳でもないし、あの植物人間も意思の疎通を図ろうという様子を見せていたわけでもなかった。


冷静に考えれば、会話をしようとしているなんて勘違いする要素は一切なかったのだ。


サラエゼナはそう思い、こっそりとため息をついた。


そんなことをぐるぐると考えていたからだろうか、その日の夜、サラエゼナはうまく寝付くことができなかった。


水を飲むために起き出し、一息つくと、夜に活動する鳥たちの鳴き声や虫の声がやけに耳につく。


カーテンを薄く開けて窓の外を眺めると、裏庭の小川が黒い水面に月の光を反射して青白い輝きをちらつかせている。


水辺に咲く小さな白い花が小道を照らす灯火のように淡く光って見えた。


どうせまだ眠れそうにない。


サラエゼナは少し外に出てみることにした。




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