セロセトの案内人
虫谷火見
第1話
ほとんど名を知られていない小さな島に、セロセトの谷というまあまあ名の通った名所がある。
セロセトの谷はその場所だけが伝説のようにひとり歩きしてしまっており、島自体の知名度の低さも相まって幻の秘境とされていた。
それでもその島に到達する者が全くいないわけではない。
サラエゼナという少女もそんなひとりであった。
彼女は赤みの強い茶髪を二本の三編みにして、緑の瞳の上に丸眼鏡を掛け、古びたトランクひとつ抱えた旅行者の格好で小さな島に上陸した。
彼女は最初、歓迎もされなかったが特に煙たがられもしなかった。
「こんな何もない島にようこそ。」
島の住人たちは困惑したような表情を浮かべ、口々にそう言った。
セロセトの谷が多少有名だろうとも、島の知名度が低すぎて観光地としてはやっていけないことを誰もが嫌というほど知っていた。
そんな場所に少女がひとりで訪れたのは、島の人達からするとどうにも奇異な光景に思えたのだ。
サラエゼナがトランクの中から古びた本を取り出した時、誰もが「やはりな」と心の中で呟いた。
緑の地に金の装飾の見慣れた装丁は、セロセトの谷と流麗な金文字で綴られた眉唾ものの冒険譚だ。
その土地で暮らす人々にとっては何にもない小さな島の一角も、本の中では何故か摩訶不思議な土地として奇想天外に描かれていた。
サラエゼナの深い緑の瞳には、いつも期待と不安の混じり合った輝きがあった。
じっくりと話してみれば、サラエゼナの語るセロセトの谷はいつも彼女の祖父との思い出話にいき着いた。
ほとんど高齢者ばかりの小さな島で、祖父に影響されてこんな辺鄙な島までやってきたサラエゼナは、やがて住人たちから友好的に受け止められるようになっていった。
島に来て早々に、サラエゼナには宿代わりに一人暮らしの老婆の家が紹介された。
寝床を提供する代わりに老婆の日常生活の手助けを期待してのことだったが、サラエゼナはその期待にしっかりと応えた。
サラエゼナにいたく感謝した老婆は、せめてものお礼に自分の知るセロセトの谷を語ろうと思った。
それはほとんどが老婆の幼い頃の話になる。
幼い頃の冒険と言えば大袈裟になるが、この島でのセロセトの谷とは、幼い頃に誰もが行く身近な遊び場だった。
とはいえ、森の中にぽっかりと深く口を開くセロセトの谷は危険であるとして、内部に入ることはおろか近付き過ぎることも禁止されている。
そして真っ暗な谷の裂け目はかなり恐怖をそそるため、近付きたがる者もいなかった。
ではどうするかというと、安全に近付ける場所まで出かけていって、その辺の珍しい石や植物を拾ってはセロセトのものだと主張する、他愛無いものばかりだった。
老婆はそんな話をにこにこと語った。
ふと、老婆は本に挟んだまま忘れていた押し花を思い出し、本を開いて茶色に乾燥して平べったくなった植物をサラエゼナに見せた。
「これは昔、私が幼かった頃にセロセトの近くで摘んできたものだよ。」
サラエゼナが恐る恐る萎びた押し花を見る様子に、老婆はいっそう笑みを深めた。
「けれどね、帰ってきてから知ったんだが、実はこの花は裏庭の小川の傍にセロセトよりもたくさん咲いていたのさ。」
そこで老婆は豪快に笑い、愛おしそうに古ぼけた押し花を眺めた。
一瞬、驚いたように老婆を見たサラエゼナも、やがて声を上げて笑っていた。
ひとしきり笑ったあと、サラエゼナは何処か遠くを見るような眼差しをして、ぽつりぽつりと彼女のセロセトを語り始めた。
それはつまり、彼女の祖父に関することだった。
「私の祖父はセロセトの伝説に心酔していました。それはもう、怪しげな商人から詐欺まがいの品物を買うくらいにはです。」
その呆れを含んだ口調に、老婆はまた笑い声を上げた。
けれどその後、サラエゼナはしばらく口をつぐみ、ふいに深刻そうな表情を浮かべた。
何か迷うような素振りを見せた後、サラエゼナは意を決したように顔を上げた。
「…実は、見てほしいものがあるんです。」
絞り出すようにそう言うと、サラエゼナは立ち上がり、トランクを持ってきてテーブルの上に乗せた。
トランクを開け、厳重に油紙とタコ糸で包まれた何かを取り出し、サラエゼナはそれを慎重に解いていった。
あと数枚で中身が見えるかというところで、明らかに勝手に、包みはがさりと動いた。
ぎょっとしながらも油紙が全て取り払われるのを待つと、やがて中からは小さな植物人間のようなものが現れた。
髪や手に当たる部分が黒っぽいとげとげの葉っぱのようになっており、身体を丸めて眠っている姿は置物や人形と言われれば信じそうなものだし、むしろそう言ってほしかったとさえ思える。
小さな植物人間は微かに顔を上げて、一度ゆっくりと瞬きをした。
目は真っ黒で白目がない。
動きはかなり緩慢で、ごくゆっくりと瞬きをした後は再び目を閉じて眠るように横たわっていた。
もしかしたらこの生き物は弱っているのかもしれなかった。
老婆は思わず首を横に振った。
こんなものは見たことがない。
例えば仮に、この生き物がセロセトの谷にいたのだとしても、老婆には何も答えることができない。
「これが何だか、分かりませんか…?」
サラエゼナが途方に暮れた様子で尋ねてきた。
老婆はもう一度首を横に振った。
「いいや。初めて見たよ…」
その場には長く重い沈黙が流れた。
何だか時が止まってしまったような感覚だった。
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