セ・シ・ボン

クララ

これはあなたに贈るラブレター

「ユマ、かえろ」


 下校チャイムが鳴ったすぐ後、いつのようにセージが声をかけてきた。教室の隅できゃあっと小さな歓声があがる。ちらちらとセージを見る子たち。手でも振ってあげればいいのに。だけど奴はさっさと踵を返して廊下に出た。


 一度聞かれたことがある。


「ユマちゃんって、セージくんと付き合ってるの?」

「あたしが? セージと? いや。なんで?」

「だって、いつも一緒に帰るでしょ。迎えにも来るし」

「ああ、それ。あたしたち幼馴染でお隣さんだから。それに」

「それに?」

「あたしたち、いとこ同士だから。それだけだけど?」


 納得したようなしないような、複雑な表情をした彼女たちは、それでも、へえ、と言ってその場は引き下がってくれた。あたしには、それ以上はどうしようもない、言いようがない。


 そんなことがあったから、一緒に帰らない方がいいのかもと思ったけど、セージは御構い無しだし、なんだか一人で考えるのもバカらしくなってきたから、結局はそのままにした。

 だからあたしとセージは今日も一緒に帰る。羨ましそうな視線が絡みついてくる。


 あたしもセージに聞いてみたことがある。だって。駅に向かう時も、駅から出た時も、一人でさっさと歩いて行くし、それってどうなの、一緒に帰る意味があるの? まあ、電車くらいは並んで座ったりもするけど。


「ねえ、どうして一緒に帰るの?」

「別に。方向が一緒だから? 家も一緒だから?」


 そう、あたしたちは同じマンションの同じフロアに住んでいる。母親が姉妹で、似たような仕事をしていて、おまけにどちらも忙しすぎて留守がち。だからあたしたちは小さい頃からずっと一緒だった。平日は学校から帰ってきて、寝るまでずっと一緒。

 でも、クラスの女の子たちが聞きたがるあれやこれやはよくわからない。だって、気がついたらセージはいて、いや、セージしかいなくて、だからセージと一緒で、それが当たり前で。セージは同い年でいとこでお隣さんで、それだけなの、うん、それだけ。


 廊下を挟んで向かい合った玄関ドア。部屋は対になっているから、セージの家は、向きは違うものの間取りは一緒で、勝手知ったる何とやらだ。

 セージの両親はうちよりも忙しいから、お手伝いさんをお願いしていた。その人が昼間のうちに掃除と夕飯の準備をしてくれるのだ。いつの間にかそれを、二人で食べることになっていた。うちのママとしても渡りに船だったのだろう。

 セージの家のリビングで宿題をする。いつもいつもセージが先に終わる。クラスは違うけど、今日は二人とも古典のプリントだった。あたしは解けない問題に、ペンをくるくる回した。そっち、簡単な宿題なの? いいねえ、なんて言いながらセージの手元のプリントを覗き込んだら、うちのクラスのプリントの簡単さに拍子抜けした。セージって……。

 あたしは両親が日本人だから、どこからみても平均的な日本人だ。けれどセージはお父さんがフランス人だから、色がすごく白くて髪が栗色。目だって薄いブルーだったりする。いとこなのにあたしたちは全然似ていない。更に頭の中まで似ていなかったとは……ちょっと悔しかったから言ってみた。


「ハーフのくせに、日本語堪能とか、ちょっとむかつく」


 セージが薄いブルーの目を細めて、けれどいつも通りの平坦な声で返事する。


「なにそれ、全然、意味わかんない。俺、日本人なんですけど。お前なあ、ちょっとは可愛げのあることも言ってみな?」


 口を開けば悪態をつくあたしだったけど、いつもセージに言い負かされる。連射される弾丸みたいな反論がくるわけじゃない。高性能なピンポイントで狙い撃ちだ。それも恐ろしく無表情で。そう、毎回セージの言うことはもっともすぎて、あたしは全然言い返せないわけ。ふんと鼻を鳴らしたあたしにセージはさっさと背を向ける。

 コントローラーを取り上げながら、セージがふと言った。


「あ。ユマ。お前、字の練習もしたほうがいいんじゃない? それでラブレターとか書かれても、引くわ」

「!」


 なんて言い草。確かにあたしの字は綺麗じゃないけど、ラブレターって! それとこれとどう関係あるわけ。それに、今時、そんなの書く人いるわけ?

 今度こそ言い返してやろうと思ったけど、無理だってすぐに気がついた。だってセージは綺麗な字を書くのだ。漢字だってすいすいで、お手本みたいで。

 それに、英語どころかフランス語もできて、おまけに筆記体で書いたりして。あたしは口をへの字に曲げてセージを見た。薄いブルーの瞳があたしを見返す。


「ま、なんでもいいから。早く終わらせろ。俺、ゲームするわ」


 セージは毎日毎日、同じレーシングゲームをしていた。黙々と走るそれ。なにが面白いんだろう。あたしはその微かな音をBGMに宿題に向き直る。

 それから六時半になったら二人で夕飯。使った食器はシンクに置いといていいと言われていたけど、お礼のつもりで食器洗い機にセットするのがいつの頃から習慣になっていた。

 最初はやり方がわからずセージを呼んだ。こうやってすすいでここに入れて、これ選んでここ押して。簡単だからすぐにわかったけど、その後もセージはあたしを手伝った。手伝うというか、流れ作業というか。それもまた、簡単すぎてすぐ終わる。


 でも、ある日ふと、セージと二人でシンクに立っていたら、なんだか奇妙な気持ちになった。ああ、そうか、家族ごっこみたいなんだ、これ。新婚さんとか、こんなことするのかな。

 だけど、そんなことを考えたのは一瞬だった。こんなにも無表情なカップルはそうもいないだろうし、当然甘いムードなんてあるわけもないし。あたしたちは相変わらず、言葉もなく作業を続けた。しかし見事な連携プレーではある。

 その後ニュースを見たり、ドラマを見たり、ちょっと時間を潰して、俺、シャワー入るわ、セージがそう言ったら解散。あたしは「じゃあ、また明日、おやすみ」と言ってセージの家のドアを開けて閉めて、三歩歩いてうちに戻る。そんな毎日だった。


 週末になれば、さすがにうちの両親も家にいたりする。特にすることがあるわけではないけれど、誰かが家の中にいるとやっぱり家の雰囲気は違うものだ。けれどセージの両親は長期の海外出張も多くて、週末もいない日が多いようだった。セージはやっぱり一人で夕飯を食べて、食器洗い機を回すのだろうか。


 夏休みになってもあたしたちの生活は変わらなかった。昼間は図書館へ出かけ、午後にはセージの家に戻る。あたしたちの母方の祖父母は早くになくなっていたし、うちのパパの実家も、セージのお父さんの国も遠い。だからあたしたちには「田舎で夏を過ごす」なんて子どもらしい思い出はないのだ。

 コンクリートの街の中で、空調の効いた部屋で、たまにちょっと拗ねたあたしが口を聞くけど、言い負かされて、宿題して、ゲームして(セージが)、ゲーム見て(あたしが)、ご飯食べて、片付けをして。あたしたちはそんな繰り返しを延々と続けていた。だけど、飽きることもなかったし、嫌でもなかったし、それが何かなんて疑問を持ったこともない。


 秋がきて、窓からの風景が、あたしたちの無機質な毎日に多少彩りを与えた頃。日曜日の朝だった。けたたましくドアが叩かれて、セージのお母さんが駆け込んできた。ただならぬ気配に、部屋から出てきたあたしが見たものは、いつも素敵なスーツを着た、できるキャリアウーマンなおばさんが、パジャマのままで、すっぴんで、泣きながらうちのママにすがりついている姿だった。


「まきちゃん、まきちゃん」


 ママの名前を呼ぶばっかりのおばさんは、泣いていて何が何だかわからない。ママがおばさんの手から携帯をとって耳に当てた。


「もしもし、代わりました」


 それから後のことはあんまり覚えていない。早朝の交差点で、信号待ちの人たちの中に、居眠り運転の車が突っ込んだニュースは、慌しい日常の中にあっという間に埋もれてしまった。都会の時間は今日も変わりなく、圧倒的なスピードで流れていくだけだ。ただ、あたしだけを残して。


 その日あたしは、セージのものとは反対向きに作られている自分の部屋で、セージとお揃いの椅子からずっと立ち上がらなかった。時間は、玄関のドアが開いた瞬間から止まったままだ。

 あたしの頭は何もかもを拒絶し続けたと言うのに、明日からはセージがいない、そう脳内で、誰かがずっと囁き続けるのだ。それでもそれは、あたしには理解できないままだった。

 夜がきて、また朝がきて、あたしはセージにお別れを言うために部屋を出た。白いお棺の中のセージは憎たらしいほどに綺麗な顔をしていた。いつもと変わらない無表情で、でもその目は閉じられていて薄いブルーは見ることができない。


「あんなにゲームしてて、走ることばっかり練習してたの? 避け方とかも練習すれば良かったのよ」


 あたしはいつもみたいに悪態をついたけど、返事はなかった。


「ユマちゃん」


 気がつけばおばさんが隣にきていた。セージの顔とあたしの顔を交互に見ると小さな声で言った。


「いとこ似ね、あなたたち、本当によく似てる」


 そんなことあるわけがない。曖昧に笑うあたしにおばさんは続けた。


「セージがね、嬉しそうに言っていたの。ユマと俺には同じところにホクロがあるんだって」


 ほら、とおばさんがセージの左手を指差した。小指の付け根にホクロがあった。知らなかった。そんなこと知らなかった。毎日一緒にいたのに気がつかなかった。セージだって一言も言わなかった。


「これ、ユマちゃんに。セージ、買い物に行ってたみたい。多分、ユマちゃんにだって思うのよ。ユマちゃん、お花が好きだもんね」


 おばさんはそう言ってあたしに白いコンビニのバッグを手渡すと部屋を出て行った。そこにはレターセットが入っていた。薄いピンクの地にいろんな花がいっぱい描かれていて、どう見てもセージが使うものではなさそうだった。

 あたしに? なんで? あ、ラブレター書けって? ないない。あたしは乾いた声で笑った。それはちょっぴりセージに似てると思った。


 一人になった部屋で、あたしはまたセージの顔を覗き込んだ。それから自分の小指をまじまじと見て、こわばったセージの左手の、薬指と小指の間に強引にそれをねじ込んだ。嫌がったって、痛がったって、文句も言えないでしょうからね、と悪態をつきながら。

 無理やりの指切りげんまんみたいになった。冷たくて硬くて、あたしは急に寂しくなった。ようやくセージがいなくなるんだってわかった。ひゅうって喉の奥が鳴って、頭から真っ逆さまに落ちていくような気がした。昨日までと違う今日が始まることが、たまらなく怖かった。

 セージのいない日々なんて、想像もできなかった。セージがいることが当たり前すぎて、でもそれはきっともう、あたしの一部だったからなんだって思い知った。あたしにとってなくてはならないもので、何よりも心安らげて大切な時間だったんだって。

 それからあたしは唐突に思った。セージは毎日きっと、ゲームをしながらあたしの宿題が終わるのを待っててくれたんだ。どうでもいい時間つぶしをしてくれてたんだ。レーシングテクニックの習得なんて、本当はどうでもよかったんだ。


「バカね、だから避けられなかったのよ。気合い入れてやらないから。あんなにやっててこれじゃあ、時間の無駄だったわね。でもあたしのせいじゃないわよ。セージの選択ミスなんだから」


 あたしはセージにあれもこれも文句を言った。返事はもちろんなかった。それでもあたしは続けた。


「今度はちゃんと、適当なゲームなんかしてないで、言いたいことは全部言いなさいよね。約束だからね」


 今度がいつかなんて思いもつかなかったけど、あたしはツンとすましてセージに言ってやった。「お前もな」セージのいつもの平坦な声が聞こえたような気がした。


「あたしたち、いとこ似なんだって。だから仕方ないの。お生憎様」


 あたしはつないだ小指にぎゅっと力を入れた。


「だけどあたし、言えるから。あんたとは違うから。セージ、あたしはあんたのことが大好き。死ぬまできっと大好きなんだわ」


 勝ったと思った。だってセージはそんなこと絶対言えそうにないもん。初めてセージを言い負かしたあたしは、大きな声で笑った。きっとそんな風に笑わないだろう、セージの分まで笑ってみた。


「あ、そうだ」


 あたしはレターセットを取り出して広げた。書いてやろうじゃない、ラブレター。制服のポケットのどこかに放り込んだままになっているセージのペンを探す。フランス語で書いてやるんだから、驚きなさいよ!

 すぐにペンは見つかったけど、あたしには思いつくものがなかった。当たり前だ。あたしは花がいっぱいの便箋をしばらくにらんでいた。それから目をつぶって、深く息を吸って、そしておもむろにそこに書き込んだ。


「セ・シ・ボン」


 どんな意味だったかなんて忘れてしまったけど、そう言えばセージがよく言ってた。だから、多分これでいいんだとあたしは思った。セージはセ・シ・ボン。スペルもわからないからカタカナで、筆記体どころじゃない。何もかも無茶苦茶だと思う。だけどこれでいい。あたしはそれを折りたたんで、封筒に入れて、セージの左手の下に滑り込ませた。


「字が汚いって引かれても、返品不可能です。こんなすごいフランス語、これが最初で最後で、あんたにしか書かないんだからね」


 やっぱりセージは返事をしなかったけど、あたしはセージがあたしのために買ってくれたレターセットを使えたことに満足した。遅すぎたと人は言うかもしれないけど、あたしは間に合ってよかったと思った。

 自分の中にある感情に、なんて名前をつけたらいいのかなんてわからない。周りのみんなが騒ぐ愛だの恋だのだって、正直わからない。でも一つだけ確かなことは、セージはあたしにとって特別だってこと。セ・シ・ボン、だってこと。そしてそれは多分、ずっとずっと変わらないんだ。

 あたしはもう一度セージの指に、同じホクロがある自分の指を絡ませた。






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セ・シ・ボン クララ @cciel

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