第31話
ツヴァイと距離を取るというのは、お互いの自立を促す為にも。
現状の微妙な心境を持ち直すにもちょうど良い機会だが、問題は山のようにあった。
コミュニティ内ではアインスの庇護下にいた頃と違い、自分のことは自分で、という傾向が強い。
それでも、私はツヴァイのサポートと周囲からの手助けでそれなりに上手くやっていた。
やれることが増えると自信がついて、あれやこれやと手を出していたのだが、いざ一人になってみると現実を思い知る。
着替えなどの日常的なこともツヴァイのサポートがあったからこそ、スムーズに済ませられた。
腕が短い、頭が大きい。
今までならツヴァイが手伝ってくれるので気にもならなかったが、服の着脱の難易度が地味に高い。
出来ないわけではないのだが、時間がものすごくかかってしまう。
建物内の移動にしても、ツヴァイはよく気に掛けてくれていた。
転びやすそうなところではしっかりと手を引いてくれたし、転びそうになると支えてくれる。
危ないだろう場所に差し掛かると前もって声掛けもしてくれて、非常に細やかな気配りをしてくれていたのだ。
着替えに手間取り、急がなければと焦る私はよく転んだ。
それはもう、いっそ笑えるくらいに転ぶ。
コミュニティ内は清掃していても、床の凸凹などの補修は基本的に後回しになっている。
優先すべきは日々のことであって、今すぐに直さなければ皆が困るものでなければ放置されている場合が多い。
凹凸で転ぶ間抜けは私くらいしかいないので、平らにする手間暇と私が自分で注意するのと。
どちらがよりコストが低いかといえば、考えるまでもなく後者なのである。
そうして、日々転んで怪我をしたり、しなかったり。
痛みを抱えつつ食堂へ向かい調理場へ直行し、手洗いが済めば直ぐに包丁を握る。
ツヴァイは私に刃物を持たせるのは早すぎると嫌がるし、私自身年齢的に早いのだろうと思ったりもする。
けれども、コミュニティ内では任せられると判断すると年齢に関係なく作業が割り振られる。
出来ると判断されているのなら、やるしかないだろう。
針仕事と違い、刃物は幼児の手に余る。
重たいし、やはり手の大きさもあって扱い辛い。
ぎこちなく野菜の皮を剥いたり、適当な大きさに切ったり。
うっかり指を切り落とさないように慎重にやっていると、年配の女性達が
「まあ、ナーデルのミルは料理も上手なのね」
「見てごらんなさいな。私達がナーデルのミルの年齢の時、こんなに巧みに刃物を扱えたかしら?」
「凄いわねぇ、これなら嫁ぎ先に困らないわねぇ」
ちやほやと褒めてくれるが、昔取った杵柄というか。
数十年ほどの経験があるので、この程度は出来ないと困るというか。
それでも、褒められて悪い気はしない。
慣れた手付きで、私の数倍以上の速さで食材の下拵えを済ませていく女性達の輪の中、丁寧に任された作業をこなす。
不注意などで軽く指を切ってしまったりすると、それ以上の作業は無理だと調理場から追い出されてしまうので、いつも気を張り詰める。
とはいえ、この小さな身体は体力もないので、ふとした時に怪我をすることも少なくはない。
その度に簡単な手当て。
傷口を洗って、結構臭いのきつい軟膏のようなものを塗られ――こういう小さな傷は治癒魔法で治さない方が良いのと、日常的にあまり魔法を使うのは良くないらしい――て、先に食事を摂るように言い付けられる。
こうして調理場を出て食事を摂ると、ツヴァイが後から隣の席に座ってくることが多い。
「おはよう、ミル」
「おはよう、おにいちゃん」
朝の挨拶は以前と変わりない。
ほんの少し、ツヴァイの瞳は翳っているようにも見えたが気のせいかもしれない。
柔らかい微笑みを向けられると、ほっとするような落ち着かないような妙な心地になる。
揃って食事を始めると、ツヴァイは毎度そわそわとする。
多分、私の手付きが覚束ないので手を出してしまいそうになるのだろう。
世話焼きな彼は私が側に居ると食事に集中出来ないだろうに、私の姿を見ると必ず側に来てくれる。
「手、怪我してる。切ったの?」
「うん」
「顔も擦り剥いてる」
「うん」
「・・・・・・痛いでしょう? 大丈夫?」
「うん」
「・・・・・・・・・・・・そっか」
物言いたげだが、それでも我慢してツヴァイは食事を進める。
私に合わせて、ゆっくりと食事を終えて、食器を返却。
この時、洗う食器が溜まっているとたまに一緒に食器洗いをすることもあるが、それも早々ない。
ツヴァイは何であっても器用にこなすので、色んな場所で手を借りたいと熱望されているのだ。
私の方は幼すぎて、振り分けられる作業が極端に少ない。
簡単なお手伝いか、一番役に立てているのは繕い物だろうか。
針を持つ時間は以前よりうんと増えて、一人で居る時間は殆どない。
そうして、ツヴァイと一緒に過ごす時間はどんどん少なくなっていく。
コミュニティは大きな家族なのだと誰かが言っていた。
確かにそのような雰囲気があるし、コミュニティの人々は親身に接してくれて、私も親しみを感じている。
それでも、やはり本当に家族と言えるのは兄であるアインスとツヴァイの二人だ。
なのに、私達は離れ離れになっていく。
騒がしい日常の中で感じる寂しさを紛らわせるように、針を握る。
アインスに渡せないままでいる栞は、未だ私の手元にあった。
この日々はいつまで続くのか。
僅かな不安が胸にこびりついていた。
以前と変わらない。
ただ巻き戻っただけだ。
殺されないように、求められるままに生きる。
違うところがあるとするなら、俺は見つけてしまった。
この手で殺めた命がある。
この手で掴んだ命がある。
何より大切な家族を得て、死なない為に生きるだけでは足りなくなった。
息子だと、愛していると言う父の声に心身を凍てつかせて。
俺を兄と呼ぶ弟妹の声を思い返して、辛うじて動き出す。
もう失えない。
俺はティオからその息子と娘を奪い、ツヴァイとミルから母親と祖父を奪った。
贖罪は今生のみで足りるかは分からない。
それでも、ミルは俺を家族だと言ってくれた。
隠し通さなければならない。
守らなければならない。
脅威を取り除く方法は限られている。
誰が脅威になるかを、俺は知っている。
「アインス、どうしかしたのかね? ハンバーグは好きだっただろう?」
声を掛けられて、我に返る。
意識を現実に引き戻し、ハンバーグの載った皿から対面に座る父に視線を移した。
「ええ、好きです」
「そうか、なら良かった。だが、食が進んでいないようだね」
指摘された通り、皿の上のハンバーグは配膳された時のまま。
手付かずのそれをナイフで切り分け、口の中に放り込む。
肉汁、玉葱の甘さ、ソースの香り。
きちんと分かるのに、味気ない。
「美味しいです。すみません、少し考え事をしていました」
「ほう? 何か悩み事かね?」
相談に乗ろう、と当然のように父が言う。
ああ、失敗したと内心で舌打ちをしながら、当たり障りのない話。
そこそこ面倒な仕事について話を広げてみると、父は聞きながら解決策を考えているのだろう。
話が終わるとすぐに具体的な解決案、必要な人材や資料の手配を手早く済ませた。
「他にも何かあるのではないかい?」
「いえ、他には特に」
「そうかい? お前は優秀だから、何でも自分で解決してしまうからね。こうして、少しでも相談してもらえると嬉しくなるよ」
「お気遣い頂き恐縮です」
「余所では困るけれど、二人で居る時くらいはもっと砕けた態度で良いのだけれどね」
二人と言うが、実際は給仕や父の秘書や部下が側に控えている。
父が微細な変化を見逃すようなへまをするはずもないが、万が一の見逃しも彼等がフォローする。
下手な言動は命取りだ。
早く食事を終わらせてしまおうと手を動かしていると、向こうはすっかり食事を終えていたらしい。
食後の飲み物を頼んでいた父は、俺から視線を外すことはなく
「思えば、アインス。お前もすっかり年頃だ。そろそろ、そういう話が出てもおかしくないのではないかな?」
傾くカップを眺め、フォークとナイフを一度置く。
「そういう話とは?」
「好きな娘や気になる娘は居ないのかい?」
「はい?」
一瞬、理解が及ばなかった。
年頃、好き、気になる。
言われた単語を頭の中で並べて、どういう反応をすれば良いのかに悩んだ。
好きだった、気になっていた。
この手で命を奪った女性の顔が浮かんで、消える。
「今は仕事で手一杯なので、そういったことに割く余裕が」
「息抜きは必要だよ、アインス。若さは財産だ、今しか出来ないことはやっておいた方が良い」
妙に生々しさのある言葉に、顔を顰めそうになる。
「遊ぶのには、向いていないので」
「何も遊びでなくても良い。その時、その瞬間、真剣に向き合うのは大事なことだとも。それはとても素敵なことだ」
遊びだろうと、真剣だろうと。
それで振り回された相手はどうなるのだろうか。
あくまでも比喩でしかないが、そういう意図を感じる物言いに疲れてきた。
「余裕が出来てから、考えます」
「そうかい? 何なら、仕事を減らそうか。遊び場はいくらでもあるぞ」
「いえ、お気持ちだけで十分です」
「ふむ・・・・・・良い相手を見繕っても良いのだが、どうだ?」
父に話を振られ、側に控えていた部下達の何人かが一礼して足早に去っていく。
恐らく、暫く後に俺のデスクの上には女性の写真なり情報なりが書類に紛れて置かれるのだろう。
今から気分が重いが、仕方がない。
残り僅かなハンバーグをひとかけ、口に放り込む。
同じタイミングで空のカップを置いた父は、いつも通りの笑顔で言った。
「例えば、黒髪の娘はどうだろうね」
肉が、喉の奥で引っ掛かるようだった。
熱く酸っぱいものが競り上げてきそうになるのを、堪える。
「透き通るような白い肌、紅い唇、黒曜の瞳と髪」
「・・・・・・おとぎ話に出て来るような娘ですね」
オレオルシュテルンの人間は総じて淡い色の髪と瞳。
黒なんてはっきりとした色の人間は、間違いなくグランツヘクセの血を引いている。
おとぎ話に出てくる「悪い魔法使い」は分かりやすく黒髪だ。
「おとぎ話では随分と不気味に描かれるが、実際に見てみると美しく見えるかもしれないね」
「そのような機会が訪れなければ、何とも言えませんが」
いつになったら、父の疑念は晴れるのか。
どうして、一度きり。
ほんの僅かな時間、目にした幼子と息子との繋がりをどう推測しているのだろう。
現時点でボロは出していないつもりだ。
一切外に出していなかったし、ミルやツヴァイは「居ない」はず。
だというのに、父は疑っている。
俺とミルが何らかの繋がりがあるのでは、と。
ティオの一件で、あまりにも多くを頼りすぎたツケだ。
父を真似て、笑ってみせた。
「そのような娘に会えるのであれば、一度は見てみたいですね」
またもう一度、会えたなら。
そう願わずにはいられない弟妹の顔を思い浮かべて、笑った。
この世界に生まれてから、初体験の仕事。
スープを攪拌する作業を請け負ってから、ほんの数分。
全体で何人居るのかも知れない大所帯であるコミュニティ。
必要になる食事の量は一般家庭では想像も出来ない量になる。
私がすっぽり入っても余裕がありそうな鍋には、山のような野菜が投入されている。
独特の匂いがする乳や香辛料を投入される様を見て、シチューだろうかと思っていたけれど、ミルク風味のスープというのが正しそうだ。
ごった煮状態のスープは日に一度は必ず目にする定番メニュー。
多分、その日に手に入ったものをとりあえず投入しているのだろう。
たまに肉の欠片が浮いていることもあるが、本当に気持ちばかりである。
しかも、調理器具の数が足りていないので調理場で火が絶えることは殆どない。
出来た物はその時点で食堂に居る人間に配られ、空になるとまた調理が始まる。
一日にローテーションで女性達が調理場に入り、下拵えや調理や配膳、洗い物を請け負うのだ。
足腰が悪い年配の女性達は、ここか。
そうでなければ、繕い物の部屋のどちらかで一日籠っていることが多い。
座って出来る下拵えの手は、そう不足するものでもないが立ち仕事は人手不足が深刻なようだ。
私が今まで包丁を握らされていたのは、どちらかというと勉強の意味合いが強いようで。
慣れてきたな、と感じ始めていた頃合いでもうこの立ち位置。
前のめりに転びでもすれば、煮え湯ならぬ煮えたスープの中に飛び込むことになるので気を付けなければならない。
底がこげつかないように、具材を潰さないように。
ぐるぐると長い棒のようなもので攪拌していたは良いが、たった数分で腕が痛くなってきた。
幼児には棒は長すぎるし、それで数十人分はあろうかという量のスープを攪拌する為の力も十分ではない。
湯気を浴びて、額に浮いた汗を零さないように手持ちのハンカチで拭う。
くらくらと立ち眩みがしそうだが、この後も目一杯作業があるのに、ここでへこたれている暇はない。
ないのだけれど。
「ふぅ・・・・・・」
中の具材が煮えるまで、まだまだ時間がかかりそうだ。
私は全部に火が通るまで、ちゃんと作業を続けられるだろうか。
正直、遣り切れる気はしなかったが、出来るところまでは。
そう思って、棒を握り直す。
さあ、もうひと頑張りだと自分に活を入れ
「ナーデルのミルにこれは早いんじゃなぃ?」
握っていた棒を奪い取られ、おやと顔を上げる。
久方ぶりのさくらんぼ色。キルシェのクルクはぐるぐると適当な動きで鍋の中身を攪拌しつつ、騒がしい調理場の女性達に
「ねぇ、ナーデルのミルを借りてって良ぃ?」
「あら、それは困るわ。今から食事時だっていうのに」
「でもさぁ、こんなちっちゃいのにこれは無理だよぉ。僕でも重いって思うしぃ」
「まあ、それもそうね。ナーデルのミルは何でも出来てしまうから、ついついあれもこれも出来るものだと思ってしまって、任せてしまうのよ」
「でぇ、借りてくからぁ」
「連れて行かれるのは困るわ。話だけなら、ここで手伝いついでに済ませてしまいなさいな」
「はぁ? 僕が大変じゃんかぁ」
「見たら分かるでしょう、手が足りないのよ! それとも、何か仕事?」
「仕事ではないけどぉ」
「じゃあ、決まりね。ナーデルのミル、スープの方はキルシェのクルクに任せて、皮むきをお願いね」
「うん」
こっくりと頷いたら、包丁と野菜。
野菜を入れる籠の一式を渡され、受け取る。
明らかに不満そうなクルクを前に、どうしたものかと考えていたら、座って作業をするよう促された。
クルクには必要が無さそうなので、今まで使っていた台に腰を落ち着けて皮むきを始める。
「はぁ・・・・・・出来ない仕事は出来ないって早めに言いなよぉ。言わないと皆ぁ、出来るもんだってやらせてくるからぁ」
「うん、ありがとう」
「はいはぃ。でぇ、話があるんだけどぉ」
「うん」
「ナーデルのミルも魔法の特訓を受けてみるぅ?」
「うん?」
ちょっと言われている意味が分からない。
理解出来ないまま包丁を扱っていたら、野菜ではなく指の皮が剥けた。
「あ」
べろ、と皮が捲れて血が垂れていく。
しまったなぁ、これではこの野菜は使い物にならない。
忙しい時に、とんだ失敗をしてしまった。
刃物を扱う際は集中しなければいけないのに。
反省しなくてはいけないなぁ、と赤く濡れた刃先に溜息を零した私に対し、クルクは
「なにやってんの」
「うん?」
「手、切ってるじゃん」
「うん」
「馬鹿!」
「うん?」
棒が放り出される。
誰かに代わりを頼まないと、と言おうとする前に手を引かれる。
ごろごろと野菜が転がっていって、誰かがクルクに「こら!」と怒っているが当の本人は気にしていないか。
もしくは気付いていない様子。
ぐいぐいと引かれると、余計に傷が痛むのだけれど。
しかも、片手に包丁を持ったままなので危ない。
一声掛けるべきかと悩んでいる内に、年配の女性達が輪になっている所まで連れて来られた。
こんもりと皮を剥かれた野菜と、薄い皮の山が出来ている。
私もこれぐらい薄く皮が剥けるようにならなければ。
「ばあ様、治癒かけてやって」
「まあ、キルシェのクルク。あなたが此処に来るなんて珍しい」
「そういうの、今はいいから。早く、治癒かけてやってよ」
クルク自身がやっても良いが、調理場で火の魔法を使うのはあまり良くないらしい。
というより、引火の可能性がある場所での使用は避けたいとのことで
「見てよ、これ」
「あらあら、まあまあ。ナーデルのミル、どうしたの?」
ぐいっと手を引かれて、痛みを誤魔化そうと握っていた拳を開かされる。
赤く染まった掌を見て、年配の女性達は思い思いに声を挙げ、クルクに声を掛けられた女性は眉を顰めた。
「可哀想に、すぐに治してあげますからね」
言うが早いか、女性に手をそっと握られる。
「クラルアーグワ」
血が滲んだ手にどこからか湧いて出た水が触れる。
来るだろう痛みに備えて身を縮めてみたが、恐れていたような痛みはない。
水が傷に触れると、じわじわと切れていた皮膚がくっつき、流れた血は綺麗に洗浄されたようになっていた。
「まほう?」
「ええ、そうよ。痛かったでしょう? 大丈夫?」
「うん」
「・・・・・・良い子ね。でも、痛かったら痛いと言って良いのよ?」
「うん」
魔法とは随分便利だ。
こんなに簡単に傷が治ってしまうなんて、まさに異世界。
転生したという自覚はずっとあったが、ここが異世界だと強く感じるのは魔法を見た時だ。
凄いなぁ、と綺麗に治った指を握ったり閉じたりしていたら、クルクに首根っこを掴まれる。
そのまま猫の子供みたいに持ち上げられそうになったところで、治療してくれた女性が「キルシェのクルク」と一言。
それで、クルクはすぐに私を地面に下ろし、握っていた包丁を取り上げると
「こいつに魔法を教える」
一方的に宣言され、私は困った。
何せ、元が魔法なんてない世界の出身なのである。
加えて、今の今まで魔法とは無縁の生活をしてきたので、どうにもピンとこない。
教えてもらっても、この年齢では出来ないだろう。
何せ、ゲーム開始後になってから主人公は魔法が使えるようになった、という設定がある。
適正年齢になるまで。少なくとも、就学年齢になるまでは身の回りのことが出来るように特訓がしたい。
本音を言うと、魔法の特訓という字面からして大変そうだ。
魔法っていうと、たくさんの本を読んで勉強して勉強して勉強して・・・・・・勉強するイメージがある。
ようやく、読むことには不自由しなくなってきたばかりなのに、難しそうな魔法の勉強はハードルが高い。
無理、と首を横に振ったら、頭を掴まれた。
「お前は危機感が薄すぎる。そんなんじゃ、また何かあった時にころっと死ぬぞ」
「キルシェのクルク!」
「ばあ様は黙ってて。あのな、普通は指切り落としそうになったら、もっと騒ぐんだよ」
言い聞かせるように言われて、首を傾ごうとしたが出来ない。
がっちり固定されて、クルクを見上げることも出来ないのだが
「かわしかきれてない」
指を切り落とすほど深い傷ではない。
まさしく皮一枚という程度に切れただけなのだと、訂正を試みる。
「そういう問題じゃないだろ」
「でも」
「でももだってもない。お前、ちょっとおかしいよ」
「キルシェのクルク、言い過ぎよ」
「だから! ばあ様は黙っててってば!」
ややこしくなるから連れ出そうとしたのに、とクルクがぼやく。
女性達が慰めの言葉を口にするが、私はどう返せば良いのか分からなかった。
確かに、普通の幼児とはいえない言動をしているかもしれない。
でも、おかしいと言われるほどに変わっているのだろうか?
「・・・・・・おかしくないよ」
「おかしい。絶対におかしい」
「おかしく、ない」
「お前がどう言ったって、おかしいんだよ。普通じゃない」
「そんなこと」
「あるだろ? さっきも、あんな怪我して泣いてすらいない」
頭から手が離れた。
こんなに血が出たのに、と赤黒い血の付いた包丁を示されて、唇を噛む。
ちゃんと痛かった。
でも、それで泣く幼さが私にはない。
今でこそ幼児ではあるが、元はこの場の誰よりも年長なのだ。
自分よりも若い人達の前で泣くのは恥ずかしい。
以前に一度大泣きしてしまってから、その気持ちは更に強くなった。
それに前世で出産を経験しているので、あれに比べれば大体の痛みは大したことがないように思えてしまうのだ。
それを言ったところで信じても、理解してももらえないだろうと予想はついている。
俯いて唇を噛み締めていると、オレンジ色がちらつく。
私の顔を覗きこんできたクルクは、顰め面になっていた。
「ラクスのツヴァイも相当だけど、お前も感情の出し方が異常だ」
「・・・・・・・・・・・・いじょうじゃない」
「そう思いたいなら、思っていれば良い。だけど、特訓は受けろ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「あのさ、困ってるんだって。ラクスのツヴァイはお前に何かあると騒ぐし、お前は主張しないし」
「さわいでないなら、こまることない」
「ある。怪我しても声を出さない、危ない目に遭っても騒がない、思ってることがある癖に言葉にしない。全部こっちが察して動かなきゃいけないんだぞ? それでも困らせてないって?」
言われると、そうかもしれない。
早くに声を上げて助けを求めていれば、という場面は大なり小なりあった。
想像より重い荷物を任され、落として駄目にしてしまったり。
立て付けの悪い扉が開けられなくなり、そのまま閉じ込められて数時間後に救出されたり。
多くはないが、無いわけではない。
仕方がないじゃないか、まだ小さいから。
出来ないことがたくさんある。
出来ることの方が少ない。
努力はしているつもりだ。
任されたことは完遂しようと。
やってみると言われれば挑戦しようと。
なのに、それがおかしいのだろうか。
どこからがおかしいのだろうか。
どうしたらおかしくなくなるのだろうか。
ぐるぐると考えて、ちゃんと答えが出て来なくて。
「だから、俺がちゃんと教えてやる。いいな?」
質問が頭に入ってきていない。
ちっとも理解していないのに反射的に
「やだ」
否定の言葉を吐いて走り出す。
嫌だった、何かが。
とてもとても嫌だった。
今生、初の逃走。
行き先は未定。
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