第6話

世界は狭かった。

ずっとずっと、僕の世界は壁に囲まれた空間だけ。

おじいちゃんとママ、そして僕だけの世界。

そこは閉じていて、狭くて、とても嫌だった。


おじいちゃんが働いて、お金を稼ぐ。

ママは家でご飯を作ったり、洗濯や掃除をする。

僕は、何もしない。しちゃいけない。


外から僕と同じくらいの子達が楽しそうにしているのが聞こえる。

羨ましくても、我慢しなくちゃいけない。

外に出て、誰かと知り合ったら家を変えなくちゃいけなくなるから。


前に一度、我慢出来ずに外に出た。

僕と変わらないくらいの子達がたくさんいて、楽しそうなので混ぜてもらった。

コール、ドニ、エミリー、他にもたくさんの子がいて、友達になってくれた。

楽しくて仕方なかった。

こんなに楽しいのが毎日続いたら良いと思った。


家に帰ったら、おじいちゃんとママが待っていた。

どれだけ楽しかったか教えてあげようとしたら、二人共怖い顔をして大きな荷物を抱えていて。



「さあ、ツヴァイ。出るぞ」

「え、でるって?」

「もう此処には居られないわ。行きましょう」

「なんで?」



友達が出来た。

明日も遊ぼうって約束した。

なのに、どこに行くの。


聞いても二人共答えてくれなくて、泣いて嫌だって言ったら、おじいちゃんが手を振り上げた。

そして、気付いたら知らないところに居て、また同じ生活が始まった。


同じといっても、変わったこともある。

ご飯がちょっと少なくなったし、滅多にもらえなかったおやつが一切もらえなくなった。

服も同じのを何度も着た、玩具なんてなかった。

文字を覚える為に、と渡された絵本は誰かのお下がりでボロボロだった。


僕が外に出なくても、家を変えることが何度かあった。

その度に、家はどんどん狭くなって、ご飯はあまりおいしくなっていく。


大きい声を出すのは駄目。

誰かと顔を合わせても駄目。


家の中で静かにしていれば、これ以上酷くなることはない。

だから、何もしないでぼぉっとする。

一日はとても長くて、毎日は永遠に続くんだ。

そう思ったら、とても悲しくて、お腹も胸の中もむかむかして、嫌で嫌で仕方ない。


ママにどうして僕は他の子達と遊べないのと聞いたら、泣きそうな顔をされた。

ごめんねって何度も謝られた。

おじいちゃんにどうして僕達はこんなに何度も家を変えるのと聞いたら、おじいちゃんは大きく息を吐いた。



「いずれ、分かる」



いずれって、いつのことなんだろう。

終わらない毎日は、いつになったら終わるんだろう。

何か変わらないかな、ご飯がおいしくなくなるの以外で。


そう思って、何度か家が変わった後。

僕の世界に変なものが紛れ込んだ。



「父さん、その子はどうしたの?!」



口を手で押さえて、小さな声で叫んだママにおじいちゃんは抱えていたバスケットを僕にも見える場所に下ろした。



「道に捨てられていた。見てみろ、この子の髪を」

「・・・・・・っまあ」

「これを見ては、捨て置けん」



大きなバスケットの中には、小さな子供が居た。

僕よりもうんと小さくて、どこもかしこもぷくぷくしていて。

ちょっぴりしか生えていない真っ黒な髪もふわふわで、どこもかしこも柔らかそうだ。

難しい話をし出したおじいちゃんとママの目を盗んで、つんつんとほっぺたを突いてみた。

ぷにぷにとして思っていた以上に柔らかい。

何度も繰り返していると



「ツヴァイ! その子は赤ちゃんなのよ、意地悪しないの」

「いじわるなんてしてないよ」

「いじわるじゃなくても、そんな風に突かれたら痛いわ。可哀想でしょう」

「いたくなんかしてない・・・・・・ね?」



そうでしょ? ともう一度ほっぺたと突こうとしたら、ちっちゃな。

僕の指を掴むので精一杯の掌に指先が包まれた。

ちっちゃな指がぎゅっとすると、じわじわあたたかくなっていく。



「ねえ。このこ、ずっとうちにいるの?」

「・・・・・・ツヴァイはこの子がお家に居るの、嫌かしら?」

「ううん。いやじゃないよ、ずっといていいよ」

「そう。じゃあ、この子はツヴァイの妹ね」

「いもうと? このこ、いもうと?」

「え、ええ? ああ、妹は名前じゃないのよ?」

「じゃあ、なんていうの?」



妹、妹、と舌の上で言葉を転がしている間、おじいちゃんとママは困ったようにその子が入っていたバスケットから、色んなものを取り出した。

何だか汚い紙がいっぱいと、綺麗な布が少し。

おじいちゃんとママは汚い紙を手に取って、とても驚いた顔をしていたけれど、ばっちいからあんまり触らない方が良いんじゃないのかな。


握られたままの指を揺らすと、妹はその指の動きに合わせて視線を揺らした。

髪と同じ、真っ黒な目。

きょとんとした顔がかわいい。



「これから、ずっといっしょだよ」



よろしくね、と言ったら、ぱちぱちと瞬きする。

返事はしてくれないけど、妹は分かってるようなかんじがした。












赤ちゃんは可愛いのか、妹が可愛いのか。

妹のミルは可愛い。


ちっちゃくて、ぷにぷにしてて、柔らかくて、ちょっとミルクの匂いがする。

ミルは何にも出来ない。赤ちゃんだから。

ミルは赤ちゃんで妹だから、僕が何だって手伝ってあげる。


何もしちゃいけないって言われていたけど、ママだけでミルのお世話は大変だから、僕もお手伝いをしていいらしい。

赤ちゃんはたくさん泣くんだとおじいちゃんとママは言っていたけど、ミルはちっとも泣かない。

ふにゃふにゃと変な声を出すけど、それくらいだ。


バスケットに納まるくらいにちっちゃい妹。

ミルを見ている間は、胸の中がぽかぽかして楽しい。

ぽんぽんとお腹を擦ってあげると、すぐに眠ってしまうから、ほっぺたを突く。

そうしたら、ミルはじぃっとこっちを見上げながら、僕の指を掴む。



「ミルはちいちゃいね」



それに可愛い。

にこにことしていたら、ミルの口元がもごもごする。



「ママ、ミルがおなかすいてる」

「はいはい。ちょっと待ってね」

「はやくはやく」



お腹が空くと、ミルは口ももごもごする。

おむつを替えて欲しい時は、顔をくちゃっとする。

僕はお兄ちゃんだから、妹のことなら何でも分かる。


ママがミルにミルクをあげている時は、ちょっと退屈だ。

僕はまだミルをだっこしてミルクをあげられるほど、大きくない。

もうちょっと大きくなったら出来るらしいけど、僕が大きくなっている間にミルも大きくなる。

そうしたら、ミルクをあげられない。

でも、ミルが大きくなったら一緒に遊べるって聞いたから、小さいままよりは大きくなってくれた方が良い。


早く遊びたいな。

早く大きくならないかな。


待ち遠しくて、楽しみな毎日が続いた。

ミルはちょっとずつ大きくなって、ちょっとずつ出来ることが増えていく。

妹のミルの方が出来ることが多かったらなんか嫌なので、僕もママのお手伝いをしたりして出来ることを増やした。


ハイハイが出来るようになるとミルはぐるぐると部屋中を動き回って、その内に疲れて寝てしまう。

もうバスケットに入らないくらい大きくなったミルは、ちょっと重い。

おんなのこに重いなんて言っちゃいけません、とママが言っていたから、ミルが起きている時は絶対に言わないようにしている。

嫌われたら嫌だし、きっと僕の方が大きいから僕の方が重いし。


頑張ってベッドに連れて行くと、僕はすっかり疲れてしまう。

すやすやとミルが眠ってしまったら、今度は勉強なので休んではいられない。

おじいちゃんが、そろそろだろう、と言い出してから始まった魔法の勉強は大変だ。

覚えることがいっぱいあって、魔法は全然使えない。


おじいちゃんやママは魔法が使えるんだって。

とても優秀で、ママはどんな魔法が得意か教えてくれなかったけど、おじいちゃんは怪我を治す魔法が得意で、それがお仕事らしい。

簡単な魔法なら何でも使えるんだけど、得意な魔法は凄いらしい・・・・・・どう凄いのかはよく分からなかった。


適性、遺伝、様々な要素で得意な魔法はそれぞれ違って。

魔法が使える人と使えない人が居て、僕やママやおじいちゃんは使える。

なんで分かるのって聞いたら、髪や目の色で分かるんだって。


濃い色の髪や目の人は凄い魔法が使える人が多くて、淡い色の髪や目の人の殆どが魔法が使えない。

コールやドニ、エミリー達は淡い金や栗色の髪だったから、きっと使えない人。

すやすやと気持ちよさそうに眠っているミルは使える人。

合っているか確認したら、おじいちゃんは僕を褒めてくれた。

僕は賢い子で、将来が有望らしい。


ミルも大きくなったら魔法の勉強をするんだろうな。

だったら、僕が教えてあげられるように、うんとたくさん頑張ろう。

そう決めて、おじいちゃんが居る時はおじいちゃんに教わりながら。

おじいちゃんが居ない時は、ママに見守られながら――一人だと危ないらしい――色々な勉強をする。


僕はまず、魔法を使う為の力を見られるようにならなきゃいけない。

一度、おじいちゃんが自分の指をナイフで切って、魔法でその傷を治すのを見せてくれた。

凄いなーと思っていたら、見えたか、と聞かれた。

見えなかったと答えたら、傷が治る時に何も見えなかったのかと聞き直された。

それなら、ちょっとぴかぴかしたのが見えた。

そう答えたら、それを魔法を使っている時以外でも見られるようになれと言われた。


ママが嫌な顔をして、スパルタって言ってた。

スパルタってなに?


そんな調子で僕は力。ぴかぴかを見ようとママやおじいちゃんを見ていたけど、ちっとも見えない。

少しも出来ないと面白くなくて、出来ないと悔しくて。

勉強をさぼってミルのほっぺたを突いていたら



「力を見るより、まずは感情をコントロールなさい」



ママはそう言って笑っていた。



「かんじょうのコントロールってなに?」

「そうね。怒ったり、悲しかったり、身体の中に溜め込んでおくのが難しいものを抑制するの」

「?」

「ええと、すっごく我慢するの」

「いまもしてるよ?」

「そうね。でも、ママはツヴァイが我慢してるな~って分かってしまうわ」

「わかったらだめなの?」

「誰にも分からないくらいに我慢するの」

「そんなのできないよ・・・・・・」

「すぐには出来ないわ。ちょっとずつ、頑張ってごらんなさい」

「どうやってがんばるの?」



やり方が分からない僕のほっぺたを、ママはむにっと持ち上げる。



「ぶすーっとしないで、笑ってみなさい。そうしたら、何となく楽しくなるわ」

「たのしくないのにわらうの?」

「そうよ。まずはやってみて」

「うん」



にこっと、頑張って笑ってみた。

ちっとも楽しくなかったのだけど、ママは僕を見て笑ってくれたので、ちょっぴり嬉しくなった。














ミルは喋れるようになった。

僕がミルって呼んだら「おにいちゃん」って、僕のところまでよちよち歩いてくる。

とても可愛い。


ミルは掴まる場所がないと、あまりたくさん歩けなくて転んでしまう。

好きなだけ歩けるように、いつも手を貸してあげた。


前まで僕の指を握るので精一杯だったのに、もう手が繋げる。

少し寂しくて、凄く嬉しい。

一緒にご飯が食べられるようになったし、一緒に絵本を読める。

ミルはまだ小さいし、自分で文字が読めないので僕が読んであげる。

お兄ちゃんだから、当然だ。

ミルにも分かるようにゆっくり読んであげたり、この文字はこれだよって絵と文字を指差して教えてあげたら、ミルはうんうんと頷く。

大きな頭がゆらゆらして、危なっかしい。


お喋りが出来るようになったのに、ミルはそんなに喋らない。

おんなのこはお喋りだとおじいちゃんは言っていたけど、ミルはお喋りじゃない。

話し掛けたら返事はするし、何かしたい時はちゃんと言う。

大人しい子って、ママは言っていた。


一緒に出来ることが増えると、ミルにあれこれ教えたくてわくわくした。

でも、ミルはまだまだ小さいから、あまりいっぱい教えちゃ駄目なんだって。

今は絵本を読んで文字を教えてあげて、文字が全部読めるようになったら、次は魔法を教えてあげたい。


その為にも、僕は早く魔法を使えるようになりたい。

相変わらず、ぴかぴかは見えないけど、感情のコントロールは上手くなってきてるっておじいちゃんにもママにも褒められた。

この調子なら、その内にぴかぴかが見えるようになるから、そうしたら簡単な魔法を教えてもらう約束だ。


ミルが掴まる場所がなくても歩けるようになった頃。

僕はまだ魔法が使えなくて、ミルもまだ小さくて。

僕達を見て、ママとおじいちゃんはそろそろ、って話し合っていた。

ミルは不安そうだったけど、多分家が変わるだけだ。

僕は慣れているので、大丈夫だよって励ましてあげた。

ミルは頷いて、僕に抱き付いてきた。

甘えん坊で可愛い妹だ。


僕の予想は的中した。

そろそろ、次のお家に移ろうって。

ママとおじいちゃんが言った時は、やっぱりって思った。

ミルは嫌がるかもしれないから、嘘を吐きたくないけどお出掛けしようって。ご飯や服を買いに行くんだって言ったら、ミルは僕の手をぎゅっと握って頷いた。


ママとおじいちゃんがいつもみたいに大荷物じゃなくて、必要な分だけの荷物を背負う。

ミルは不思議そうに二人の背負う荷物を見ていたので、目を逸らさせようと色々と話をした。

一生懸命話している内に、ママとおじいちゃんの姿が見えなくなって、慌ててミルの手を引く。



「はしれる?」

「うん」

「ママとおじいちゃんのとこまでがんばろう」

「うん」



たくさんは歩けないミルは、そんなに走れない。

僕だって、普段走り回ったりしないので、どうしても思っているほど早く走れない。

ミルが転んでしまわないように気を付けて走った。

ママ、おじいちゃんと呼びたかったけど、大きい声は出しちゃいけないから、黙って走った。


走って、走って、走って。

走っている内に降りだした雨を避けることも出来ずに、走って。


おじいちゃんとママに追いついた時には、地面はぐっしょり濡れていた。

赤い血がたくさん、雨に流されてく。

ミルがママとおじいちゃんを見ている。

僕も見ていた。


僕は知ってる。

血がたくさん出ると、人は死んじゃうんだ。

死んじゃったら、動かなくなる。

ママとおじいちゃんは動かなかった。


ママとおじいちゃんは死んでいた。

殺されてた。


ママとおじいちゃんを殺した奴は、僕等も殺すつもりに違いない。

僕に刃物の切っ先を突き付けて、ちっとも悪いと思ってない顔と声で命令してくる。

本で読んだ悪魔か何かに違いない。

こんなに酷い奴が人間なわけがない。


何も知らないミルが、ママとおじいちゃんを呼んでいる。

可哀想な僕の妹。二人が死んじゃったなんて、殺されちゃったなんて分からないんだ。

切っ先が揺らいだ隙に逃げようとしたら、途端に世界が暗くなった。

僕も殺されたんだ。


どうしよう、ミルが。

一人じゃ何も出来ないのに、あんなに恐ろしい悪魔の前で一人になったら、ミルは。


死ねない、死んだらミルが一人になってしまう。

僕はお兄ちゃんだから、妹を守らなくちゃ。

だから、なのに、どうして。


頑張っても、どうしようもなく、僕の世界は真っ黒になってく。

黒は、嫌いじゃない。

ミルの色だから。


そこで意識が途切れた。













人殺しの家で飼われている。

僕は感情を必死でコントロールした。


生かされている自覚はあった。

だから、殺されないようにするには心の内を見せるわけにはいかなかった。

だって、僕は憎かった。

ママとおじいちゃんを殺した奴が生きているなんて、我慢出来そうになかった。



「人を雇った。これから、お前達の世話と家の事を任せる。何かあれば、そいつに言え」



愛想の欠片もないそいつがそう言い放った翌日。

妙ににこにことしたおばさんが僕とミルに自己紹介をして、仲良くしましょう、なんて言った。

仲良くなんて、するわけない。

僕は感情を押し殺して、言葉を封じた。

ママとおじいちゃんが死んだことを理解していないらしいミルは、すぐにおばさんや家に馴染んでしまい、何だか胸がもやもやとする。


確かに、前の家より広いし、玩具もおやつもたくさんあって、服も選べるくらい用意されている。

だけど、そんなものよりママとおじいちゃんの方が大事なのに。

分かっていないミルはちっとも悪くない。

ミルと僕から二人を奪ったあいつが全部悪い。


僕達を飼い慣らしたいのか。

あいつはちょくちょく僕やミルの様子を窺う。

気持ちが悪くて、腹が立って、暴れ出したくなるのを必死で我慢して、僕はなるべくおばさんやあいつを見ないで済むように、ベッドの上で過ごすようになった。

そうすると、ミルもよくベッドによじ登ってきて、僕の側に来た。


甘えたいのかな。

ごめんね、もう少し。

もうちょっとだけ、待っていて。


毎日、おばさんやあいつの目を盗んで、ママやおじいちゃんがしていたのを思い出しながら、脱出経路を探す。

非常時に、いつでも逃げ出せるように複数確保しておくものだと、おじいちゃんはよく呟いていた。


逃げ道はいっぱいあった方が良いけど、悪魔の家にそんなものは殆どなかった。

窓の向こうは地面じゃないし、他は玄関か。

そうでなければ、ダストシュートくらい。


悪魔は僕等を逃がすつもりがないらしい。

おばさんは僕が口を開かないと分かると、ミルにしつこく絡んでいるようだ。

何を聞かれているかを確かめたいが、口を開くと怒りや憎しみが漏れてしまいそうで出来なかった。

ミルと出会う前のようにぼぉっと過ごして、暫く。


夜中に、ミルがおにいちゃんと言った。

僕を呼ぶような何かがあったのかとミルの姿を探したら、あいつに抱き上げられていた。


ミルは小さいから。

何も分かってないから。

だから、仕方ない。

仕方ないんだ。


あいつはママとおじいちゃんを殺した。

あいつは家族じゃない。

あいつはお兄ちゃんなんかじゃない。


ミルのお兄ちゃんは僕なのに、なんで。


全身の血が沸騰しているような気がした。

全て吹き飛ばしてしまいたい気分だった。

こんな時こそ魔法が使えれば良かったのに。

もう僕に魔法を教えてくれる人なんて居ない。


悲しくて、辛くて、身体の中で嫌なものがどんどん膨らんで。

我慢が出来なくて、よりにもよってあいつの前で口を開いてしまった。

まずいと思ったけど、僕が喋ったらミルは嬉しそうにしていたから、それからはミルとだけ話すことにして、あいつやおばさんは無視した。


ミルは僕と一緒だと楽しそうだ。

今まで何もしてあげられなかったせいか、一人で頑張って着替えようとしたりするので、手伝うようにした。

ほんとにちょっとのことでも、ミルはちゃんとありがとうと言う。

とても可愛くて、良い子だ。


遊びたい盛りのようで、よくパズルなどの玩具で夢中になって遊んでいる。

一人で静かに遊んでいると思えば、一人では寂しかったのか。

僕に玩具を渡して遊ぼうと誘ってくるのが、また可愛い。

まだまだ小さいので、うっかり玩具の野菜を食べようとした時はぎょっとした。

ミルの小さな口に入る大きさではなかったけど、もしも欠片でも飲み込んでしまったら大変だ。


慌てて、思わず手を叩いたら凄く驚いた顔をされた。

僕も驚いたし、ミルの手が赤くなっていて、悲しくもなった。

ちゃんと言葉で止められたら、痛い思いをさせなかったのに。

失敗したと反省しつつ、ミルに玩具は食べられないと教えてあげたら、きょとんとしていた。

分からなかったのかもしれない。


危ないから、とミルが口に入れそうな玩具の類を全部ベッドルームに隠した晩。

あいつが偉そうに注意をしてきた。


何も知らない癖に、偉そうに。

素知らぬ顔で無視をしたら、今度はミルに詰め寄ってきつい口調で問い質す。

悪魔だ。あんなに小さくて可愛い妹に、とんでもなく酷い仕打ちをする。

泣いてしまわないかハラハラしたけど、ミルは泣かなかった。

なんで僕が叩いたのか分かってくれていたし、僕は悪くないと悪魔に立ち向かっていた。

勇敢で優しい妹だ。


誇らしく思っていたら、悪魔は余程気に入ったのか。妹を攫って行こうとした。

勿論、そんなことはさせない。

後を追いかけて行ったら、凄まじく凶悪な顔を向けられたけれど、僕はお兄ちゃんだ。

絶対にミルを守るんだと、悪魔が逃げられないように妨害した。


結果は大勝利。僕はミルを守り切った。













悪魔が寄り付かなくなって、過ごしやすくなった。

僕は毎日やってくる五月蠅いおばさんさえいなければ、僕は久々に気が楽になった。


でも、ミルは近頃おかしい。

相変わらず、あの悪魔をお兄ちゃんと呼ぶし、帰って来なくなったあいつを毎晩待っている。

お菓子や玩具で小さい子の心を奪うなんて、最低な奴だ。

眠いだろうに、こっくりこっくりしながらあいつを待っているミルを見ていると、もやもやがむかむかに変わっていく。


あいつはママとおじいちゃんを殺したんだ。

なのに、どうしてあんな奴と仲良くするの。


毎日毎日、ずっとあいつを待っているミルを見ているのが辛くて、一生懸命蓋をしていた感情と言葉が漏れてくる。

憎くて、恨めしくて、大嫌いで。

あんな奴、死んじゃえばいいのにって心から思った。

そうしたら、ぴかぴかがたくさん僕の中から流れ出ていて、驚く。

これがもっと早く見られるようになっていたら、もっと違う生活をしていたのかな。


悲しさで胸がいっぱいになった瞬間、室内照明が全て消えた。

硝子の割れる音や人の気配を感じて、ミルが思いがけない速さで玄関の鍵に飛びつく。

上手く見えていないのか、見当違いの場所を手探りしているので、代わりに鍵を開錠しようと手を伸ばす。

幾度か試した時は簡単に開いた鍵が固い。

何か変な感じがして、ノブを何度か乱暴に動かしてみるけど、どうにもならない。


きっと、外から閉じ込められている。

そう言ったら、ミルは怯えだした。

不安がるかも、なんて考えもしなかった僕が悪い。

可哀想なことをしてしまったと、急いで他の脱出経路に向かう。


窓を割って押し入られたようだから、窓に近寄るわけにはいかない。

そうなると、あとは一つしかない。


ダストシュートの扉を開くと、きついというわけではないけど、やっぱり臭う。

間違えでなければ、焼却日は明日か明後日。

下層にはごみが積み上げられているはずなので、落ちても大怪我まではしない、と思う。

不安は不安だけど、窓を破って入って来るような相手に見つかるよりはましだ。

此処から下りようと言ったら、ミルは珍しく嫌がった。


我儘を言わず、いつだって素直で大人しいミルが嫌々と首を振る。

こんな時に、と思わないでもないけれど、小さい子に今の状況を分かってほしいというのが無理な話だ。

どうにか説得しようとした時、ライトが当てられて目が眩んだ。



「ミル!」



眩んだ視界に小さな影が揺れて



「にげて!」



ミルの大きな声は初めて聞いた。

それに驚く前に、乾いた音が一つ。二つ。


目を細めて、光から庇うように手を翳してみるとミルが大柄な男に片腕を掴まれ、宙吊りにされていた。

そして、小さな身体からぼたぼたと何か赤いものが床に落ちていく。



「ミル?」

「おい、ぼさぼさすんな! さっさと出ろ!!」



乱暴に腕を引かれ、肩が痛い。

けど、そんなの気にしている場合じゃない。



「ミル、ミル!」

「うるせぇぞ、ガキ! 黙ってろ!!」



がん、と頭をきつく床に押し付けられる。

痛みで意識が飛びそうになったけど、どうにか堪えてミルの姿を探す。


すぐ側に、ミルは居た。

居た、というより、目の前に落ちてきた。


べちゃ、と床に落とされたミルの顔は見えない。

でも、ミルの周りには点々と赤いものが散っていて



「・・・・・・ミル?」



呼び掛けてもミルは返事もしなければ、身動きもしなかった。

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