メリーさんとシエル(6)
それからは楽しい日々が続いた。わたしもあまり外に出歩く方ではなかったけれど、暇があればルシエラやゴメスの元へ顔を出すようになり、村人との距離もかなり縮まったように思う。もちろんその影響はわたしだけでなく、村人にも広まっていて、彼女が村を歩けば誰にでも声をかけられていた。ゴメスを中心として周囲の人間がどんどん元気になっていく。気がつけばすっかり村の一員になっていた。
屋敷の庭にあるガゼボ(西洋の東家)はいつもわたしたちが集まる場になっていて、そこでお茶をしたり、お話をしたり、時にはわたしが二人に文字や歴史を教えたり、わたしがゴメスから洋服の作り方を教えてもらったりして過ごしていた。
とても幸せな時間だった。わたしがこの姿になってそれなりの時を過ごしてきたけれど、これほど充実したひと時はなかった。この素敵な日々がいつまでも続いて欲しいとさえ思っていた。……でも、そういうのに限ってけっして長くは続かない。
また数年の時が流れてルシエラが十四才になった頃だった。この頃はある程度の年齢になると家と家との力を強めるために、縁談の話が持ちかけられることが上流階級では一般的だった。もちろん地主の娘であるルシエラも例外ではなく、当然のように縁談話はあった。ただそれ以上にルシエラの容姿がそれを後押しした形もあり、縁談を持ちかけられることが毎日の日課のようになっていた。
しかしルシエラは「これからの時代は男性だけでなく、女性も活躍していく時代になる」という考え、また両親の手助けになりたいという思いを持っており、それらの縁談を断っていた。両親としては良家に嫁いで安定した生活を送ってほしいと願っていた。しかしルシエラのことを第一に考えるなら彼女の好きなようにさせるのが一番だろうということでその意志を尊重することにした。
そんなルシエラはこの村を離れて都会の学校に行くことを望んだ。もっと社会を知り、世界を知ることでこの村の発展につながると考えたからだ。流石に大事な一人娘が遠くに行ってしまうことにはさすがに抵抗があったようで、両親は反対したものの、彼女の将来は彼女のものという周囲からの説得(主にわたしの)によりそれを聞き入れることになった。
都会の学校へ行くことが決まってからルシエラはさまざまなことを学ぶため、屋敷に篭りっきりになった。時折、わたしが会いに行くと少し顔を見せてくれるものの、以前のようにお茶をしたり話をしてくれることもなくなった。
「……お嬢様最近ずっとあのご様子で」
屋敷の庭のガゼボでゴメスがわたしの用意したカモミールティーを手慣れた手つきで淹れてくれた。
「心配なのはわたしも同じよ。でもあの娘が決めたことなのだからわたしたちは見守ることしか出来ないわ」
「そうですよね。ならわたしはお嬢様が頑張れるよう尽くします!」
「そういう貴女が力尽きないようにね」
「あ……そ、それもそうですね」
あはは……と、縮こまるゴメスを見てわたしはルシエラが羨ましくなった。
「いいなぁ……」
「なにかおっしゃいましたかアンジェ?」
「な、なんでもない! それよりおかわりいただけるかしら?」
「はい。今淹れますね!」
二杯目のカモミールティーを用意している横でわたしはルシエラがいるであろう部屋の窓を見上げる。
この場所こんなに広かったのね。
少し前までなら三人揃って楽しく過ごしていたこの場所も、二人だけだと広く感じてしまう。
ルシエラ。たまには顔くらい出してくれてもいいのに……。
しかし異変が起きたのはその夜だった。
わたしは珍しく夢を見た。わたしとルシエラとゴメスの三人があの屋敷の庭で、あの頃のように集まってお茶をしていた。なんてことのない話で盛り上がって、お菓子を食べ、また話す。それの繰り返しだ。
とても懐かしいひと時。でも次の瞬間にはルシエラがいなくなっていた。そしてゴメスも。
ガゼボにはわたし一人だけ。でもテーブルの上には三人分のティーカップと一枚のタロットカードがあった。
塔のカード。意味は破滅、崩壊、悲劇だ。
わたしは胸騒ぎを覚えた。慌てて飛び起きるとやけに外が騒がしかった。眠い目をこすりながらわたしが窓から村の方を見ると、空が赤く燃えていた。火事だ! しかもあの方向はルシエラのいる屋敷のはず! わたしは適当な上着を肩にかけると、すぐに火の手が上がるそこへ走り出した。
わたしの家とルシエラの屋敷はそれぞれ村の外れに建っていた。結構な距離があるはずなのに、この場所からでも見えるくらい相当な勢いで燃えていて、感じられないはずの熱まで感じてしまいそうな勢いだった。
わたしが到着する頃にはすでに村の人たちが集まってなんとか火を消そうとしていた。
「なにがあったの!?」
近くにいた村人の一人を捕まえて詰め寄る。「あ、アンジェリカ様!」と、老いたその男は驚いていたけれど、すぐに事情を話してくれた。なんでも急に屋敷から火の手が上がり、気がつたら屋敷全体を覆い尽くさんばかりの炎に包まれていたという。
見れば村人たちに守られるようにしてうずくまっている使用人たちの姿があった。どうやらルシエラの両親は外出しているのかいないようだ。しかしその中にルシエラとゴメスの姿がない。
「ルシエラは!? ゴメスはどこなの!?」
「お嬢様はまだ屋敷の中に……。ゴメスは……わかりません。もしかしたらすでに」
「──っ!」
わたしは近くにあった井戸から水を引き上げるとそれを頭から被る。「アンジェリカ様なにを!?」と周囲の人々が止めようとする。
「なにって助けに行くのよ」
「いくらアンジェリカ様でもあの火の中に入るのは危険だ!」
「大丈夫よ。これでも村外れの魔女様なんだから! とにかく貴方たちは危険が及ばないよう離れていなさい」
「しかし……」
「いいから!」
有無を言わせない勢いで彼等を退ける。
待ってて。ルシエラ、ゴメス。
わたしは大きく息を吸うと炎が渦巻く屋敷の中へと飛び込んだ。
中の様子は予想した以上に酷かった。屋敷の中はカーテンや絨毯が敷き詰められていたせいもあってか、火の周りがとても早く、熱を持った石壁から放たれる熱気が肌をチリチリと焼く。
こんなところに長いしていたら蒸し焼きになってしまう。いくら人々から魔女だと敬われていても、熱いものは熱いし、怪我をしたら傷だって負う。なにより痛いのは嫌だ!
それに魔女と呼ばれていてもわたしに出来ることなんて薬草作りと占い、それにちょっとだけ変わった力が使えるくらいで、火を消し去る魔法が使えるわけでもない。……本当に魔女だったなら瞬く間に大事な友人を助けることが出来るのに。これほど自分自身が無力だと痛感したことはなかった。
「ルシエラ! ゴメス!」
できる限り大きな声で呼びかけるが、燃え盛る炎がそれを阻もうとする。息を吸うたびに喉が焼き付くように痛む。それでもわたしは諦めず二人を探す。
「ルシエラいるなら返事しなさい! ゴメスどこにいるの!?」
……やはり返事はない。
嫌な想像が頭の中を掠める。
「そんなわけないじゃない!」
わたしは自分の頬を叩く。大丈夫。大丈夫だ。
どうにか二階にあるルシエラの部屋の前までたどり着いた。震える手を抑え、意を決してドアを開ける。──いない。
「そんな……」
わたしは崩れ落ちそうになった。ここにいないとなったらどこにいるのか。
いやまだだ。ここにいないなら他を探せばいい。でも、これ以上探すにも時間がない。闇雲に探したところで見つかるものも見つからない。
どうしたらいい。
すると、
……助けて。
今のは!? わたしはその微かに聞こえる声に耳を傾ける。
……助けて。
……誰か。
……アンジェ。
間違いない。この声はゴメスの声だ。
「ゴメス! 聞こえる!?」
返答はない。せっかく見つかったはずのわずかな手がかりさえスルリとすり抜けようとする。
「ダメ! お願い返事して!」
神様お願い……わたしの大事な友人を連れていかないで。そんなわたしの願いが届いたのか「アンジェ……」声が聞こえた!
わたしは消えそうになるゴメスの気配を必死に手繰り寄せる。感じる。この廊下の向こうだ。
行く手を阻むように炎の壁が立ち塞がる。チリチリと髪の焦げる匂いがする。この先に行くにはこの壁を突き進むか、一度一階に降りて反対側から回ってくるかのどちらかしかない。けれど遠回りをしていたらきっと間に合わない。だったら選ぶ道は一つ。
「まったく、世話が焼けるんだから!」
わたしは肩に引っ掛けていた上着を頭から被るとそのまま炎の壁に向かって突き進んだ。熱い。痛い。髪が焦げる。でも今はそんなことどうだっていい。今はなにより二人が無事だったらそれでいい。
なんとか炎の壁を抜けると、ゴメスの気配が強くなった。迷うことなく彼女たちがいるであろう部屋のドアを開く。そこには横たわったルシエラと彼女を守ろうと覆い被さるゴメスの姿があった。
「アン……ジェ……?」
ゴメスの瞳がわなわなと震えていた。彼女たちは四角い透明な空間のようなもので守られていた。わたしたちの持つ変わった力、秘密の小部屋の能力だった。
「貴女……これ」
「なぜだかわからないのですが、お嬢様をお守りしたいと思ったらこのように」
「そう」
間違いない。まだまだ力は弱いものの、やっぱり彼女もわたしと同じ存在だった。まだ自分がそうだと気づいていないから意図的に力を使うことは出来ないものの、この力のおかげで今まで無事だったといえる。それ以上に心細かったと思う。それでも一人でよくここまで頑張ったものだ。
決して口にはしないが、彼女がわたしの友人だということがとても誇らしかった。
「あのどうしてここに……?」
「質問ならあとでいくらでも答えてあげるから。立てる?」
「は、はい」
弱々しくながらもゴメスは立ち上がる。足が震えていた。無理もない。慣れない力を使ったのだから。
「ルシエラは大丈夫なの?」
「お嬢様は少し煙を吸ってしまったようですが気を失っているだけのようです」
「なら良かった。急いでここから出るわよ」
わたしとゴメスでルシエラの肩を担いでその場から離れる。さすがにわたしが進んできた道はもう通ることが出来なくなっていたが、もう一つの通路はまだなんとか通れそうだった。……というより振り返って思うけど、わたしよくあんなところ通ってきたなぁ、と今さらながら体が震えた。
一階に着くともうすでに正面の入り口は炎で塞がれていた。
「他に出られそうなところは!?」
「わたしたち使用人たちが使っている勝手口があります! そこからなら出られるかと」
「逆にそこも塞がれているとおだぶつってわけね」
最後の最後に出られなくなってるってことになっていなければいいけど。
その時だった。
燃え盛る炎の中、小さな人影が揺らめいて見えた。
「どうしましたアンジェ?」
「……何か動いた気がしたの。もしかしたらまだ残ってる人がいるかもしれないから見てくる。貴女はルシエラを連れて先に出ててちょうだい。わたしもすぐに行くわ」
「わ、わかりました!」
ゴメスがしきりにわたしのことを気にしていたが、これ以上彼女たちを危険な目に遭わせたくない。それよりもだ。
「そこにいるんでしょう。出てきなさい」
わたしの声に人影が反応する。
「こんばんわですのお姉様」
炎の中から現れたのは夕焼けのような赤い髪に、同じく燃えるような色をした瞳。しかし身に纏っているドレスを見てわたしは驚きを隠せなかった。少女の纏っているそれは、ゴメスがかつてルシエラの着せ替え人形のために作ったものと同じだった。
「初めまして……じゃないわよね」
「ええ。わたくしはずっと前から姉様のいえ──お姉様方のことを存じてしましたわ」
「ということは貴女はやはりあの娘の」
「はいですの。シエルと申しますの。以後お見知り置きを」
シエルはスカートの裾を持ち上げ、慇懃にお辞儀をした。亜麻色だった髪と瞳は何故か燃えるような赤に変わっていた。これも動けるようになった変化だろうか。わたしはそんな彼女の得体の知れない気配に怖気を感じていた。
「まさかあの人形がこうなるとはね」
「それもこれもお姉様方のおかげですの。お姉様方の存在があったからこそわたくしはこうして動くことが出来るようになりましたの。感謝いたしますの」
「生憎だけど貴女に感謝される筋合いはないわ。それでも感謝したいのなら他を当たってちょうだい」
「ずいぶんつれないお言葉ですの。せっかくこうしてお会い出来たのに残念ですの。ところで姉様、もう一人のお姉様はどちらへ?」
「先に逃したわ。ルシエラも一緒よ」
「そうですの。あの女も一緒ですのね」
ルシエラの名を出した瞬間、シエルの声の中に冷たい感情が入り混じった。
「あの女? 貴女の持ち主に対して結構な言い方ね」
「持ち主? とんでもないですの。わたくしにとって人間なんてなんの価値もないですの。わたくしにとって一番価値があるのはお姉様だけですわ!」
目を輝かせるシエル。彼女の言うお姉様とはゴメスのことだろう。となると姉様とはわたしのことか。
「お姉様は素晴らしい方ですの。いつもわたくしのことを気にかけてくださって、いついかなる時もわたくしのことを大事にしてくださいましたの。なのにあの女はだんだんとわたくしを大事にしなくなりましたの。いつも一人で誰にも相手にされなくて、話し相手はわたくししかいませんでしたのに」
さっきまで恍惚とした表情で語っていたシエルの目がスッと細められる。
「あの女はいつも一人でしたの。なのにお姉様がそれを変えてしまった。お姉様が現れてからあの女は変わってしまった。でも変わったのはあの女だけじゃなかった。わたくしにも変化がありましたの。お姉様がわたくしを愛でてくれたおかげで、わたくしは意思を持ちましたの。お姉様のおかげでこうして姉様とお話をすることも出来るようになりましたの。それなのに、お姉様の隣にはいつもあの女が側にいる。お姉様が一番に気にかけているのはいつもあの女のことばかり。ルシエラ、ルシエラ、ルシエラ! お姉様の中はあの女のことばかり! わたくしという存在がありながらどうして!? ……でも気づきましたの。あの女がいなくなってしまえばお姉様はわたくしだけを気にかけてくださる、と」
シエルはくふふ、と愉快そうに笑った。わたしはそのとても上品に見える微笑みにひどく嫌悪感を抱いた。
「それでこの状況を作り出したと。貴女ずいぶんと短絡的な考えの持ち主なのね」
「なんとでも仰っていただいて構いませんの。それよりここから逃げないと姉様があの女の代わりに黒焦げになってしまいますの」
「ええそうね。本当なら久々に出会った同族としてこんなことをした貴女の頬を引っ叩いてあげたいところだけど、それはまた今度にしておいてあげるわ」
「それはそれは怖いですの。では次にお会いするときには気をつけることにしますの」
そう言い残すとシエルは炎の中へと姿を消した。彼女の気配が完全に消えたことを確認してようやく体の緊張が解けた。
わたしと同じ存在に出会ったのはこれで三人目だった。けれど、あれほど憎悪に満ちた気配は初めてだった。思い出すだけでも体が震えてくる。
「と、こんなことしてる場合じゃないわね。早く出なきゃ」
もう一度シエルがいた場所を振り返る。
「……それにしてもずいぶん厄介なのに気に入られたわねあの娘も」
屋敷を覆い尽くす炎の中からわたしが飛び出してくると真っ先にゴメスが抱きついてきた。彼女も灰やらすすやらで汚れていたが、人目も憚らず泣きじゃくっていたせいでより一層酷いことになっていた。力強く抱きしめてくる彼女をどうにか落ち着かせると、ようやく我に返ったらしく、離れてくれた。
「お屋敷が……」
真っ白な屋敷も、色とりどりの花畑も、思い出のガゼボもなにもかも炎に包まれていく。燃え落ちていく屋敷を見つめながらゴメスは涙を流していた。もちろんそれはわたしもだった。
そうして夜が明ける頃には激しく燃え盛っていた炎もすっかり鎮まっていた。
太陽が頭上まで登る頃になってようやくルシエラの両親が村に戻ってきた。村からの使いである程度の事情は聞いていたみたいだが、目の前の現状を見て言葉を失くしていた。それでも村を治める立場だからかすぐに気持ちを入れ替えると、村人たちと一緒に焼失した屋敷の片付けを始めていた。
ルシエラはそれから二日後に目を覚ました。彼女はあの時何が起きたかほとんど覚えていないらしく、自分の家が焼失してしまった混乱と、軽い火傷を負っていたこともあり、しばらく休養していたが、一月経つ頃には元の状態まで快復していた。
そしてあの出来事から三ヶ月が経った。村はまた以前のような落ち着きを取り戻し、あの直後色々あったものの、村人たちの生活も安定してきた。屋敷が失くなったことで、そこで働いていた使用人たちは仕事を失うことになった。けれどルシエラの父親の伝手で次の仕事が決まるとまたそれぞれの道を歩いていった。
そしてわたしも新たな道を歩もうとする一人だった。
「ここともお別れね」
長い間過ごした店の看板を感慨深く眺める。色褪せた看板がここで過ごした歴史を物語っていた。看板を吊り下げ具から外すと、長かったその役目を終えた。
元々、一つのところに長居するつもりはなく、短くて一月ほど、長くても数年しかいない。これはわたしの正体を人々に知られてしまうことを恐れてのことだった。しかしこの村の人たちはどういうわけかわたしのことを恐れるどころか、村外れの魔女様と敬って接してくれた。そのせいでこの村に長居するつもりはなかったのに何年も居着いてしまった。いつしかこの場所でずっと住むのもいいなと思うくらいに。
外した看板を店の中に残し、最後に忘れ物がないかもう一度振り返る。この店はまた新たに商売を始める村人に譲ることが決まっていた。だからわたしがここにいられるのも今日が最後だった。まだ僅かにわたしが使っていた薬草や花の匂いが残っていたが、それもしばらくすると消えてなくなってしまうだろう。
店の戸締りを終え、次の持ち主の下へ鍵を届けた。これでわたしのこの村での役割は終わった。ただこの村から旅立つ前にもう一つ行きたいところがあった。
「ほんと……何も残っていないのね」
思い出の中にはあの広い庭にガゼボがあった。いつもそこでわたしとルシエラとゴメスの三人がいた。でも今あるのは焼け焦げた石壁が残るだけで、真っ白な屋敷も、色とりどりの花畑も、思い出のガゼボも何もない。失われてしまったものは二度と戻ってくることはない。そんなことずっと前からわかっていたはずだった。それでも最後にこの場所に別れを告げずにいられなかった。
わたしがそこから離れようとすると「ここにいらっしゃったんですね」声をかけられた。
振り向くとルシエラとゴメスの二人だった。
「どうしてここに?」
「今日ここを発たれると聞いたので、最後にご挨拶をと先ほどお店に行ったらもういらっしゃらなかったので、もしかしたらと思って」
「まったく……誰から聞いたのかしら。村人たちの噂は恐ろしいわね」
わたしは少しげんなりした様子で言った。
「ところで身体はもういいの?」
「ええおかげさまで」
「そう。ならよかった」
わたしはできるだけ二人の顔を見ないようにしていた。それは二人も同じようだった。
沈黙が訪れる。聞こえるのはわたしたちの間を吹き抜ける風の音だけ。その静寂を破ったのはルシエラだった。
ルシエラが持っていたバスケットをわたしに差し出す。
「ねえアンジェリカ様。最後に少しお話しませんか?」
わたしたちは屋敷跡から少し離れた草むらに座って風に吹かれていた。バスケットの中にはサンドイッチやスコーンや果物やらが入っていた。均整のとれたサンドイッチの中にいくつか歪な形のものが混じっていた。わたしがその中の一つを手に取ると「わたしが作ったの」どうやらこれはルシエラが作ったもののようだ。
一口食べてみると形は不格好だけど、味はちゃんとしていた。
「美味しい」
「喜んでもらえて良かった。わたしずっと勉強ばかりしてたからお料理なんてやったことなかったけど、美味しいって言ってもらえることがこんなに嬉しいなんて思わなかった」
ルシエラの笑顔を見たのなんてずいぶん久しぶりな気がした。そこでわたしはルシエラに気になっていたことを尋ねた。
「ねぇルシエラ。貴女はこれからどうするつもりなの?」
「わたしはここに残ります。本当なら都会の学校でたくさん勉強して村の発展をと思っていましたけど、今は家を再建することの方が大事だと思うので。それに今までは一人だったけど、今はお父さんもお母さんも一緒だから」
大丈夫。ルシエラはそう言って笑った。
「……そうね。一日も早く元の姿に戻るといいわね」
「その時にはまた遊びに来てください。美味しいお茶とお菓子を用意して待ってます」
「ええ。楽しみにしてるわ」
それからあの頃のようにいろんな話をした。思わず時間を忘れてしまうほど話した。でも、バスケットの中身が無くなる頃には、二人に別れを告げなければいけなかった。
「最後に楽しい時間を過ごせたわ。それじゃあルシエラ、ゴメス、元気でね」
わたしは二人に背を向けて歩き出す。
そこへ、
「あ、あの!」
わたしは振り返る。下をうつむいたゴメスと彼女の背を押すルシエラ。まだなにか言いたいことがあるのだろうか。
わたしがゴメスの言葉を待っていると、ようやく顔を上げたゴメスが意を決したように言う。
「あの! 今わたし無職なんです!」
「……はい?」
「お嬢様のお屋敷がなくなってしまって、使用人としての役割もなくなってしまいました。このままではわたしは行くところもなく飢え死にしてしまいます。なのでアンジェ、わたしを使用人として一緒に連れて行ってくれませんか?」
突然の告白にわたしは理解が追いつかなかった。どういうことかとルシエラの方へ視線を向ける。
「実はお金がなくてもう使用人を雇う余裕がないの。だからアンジェリカ様が良ければこの子を一緒に連れていってあげて欲しいの」
「ダメ……でしょうか?」
ゴメスが窺うように言う。わたしの答えは決まっていた。
「ええダメね」
わたしの返答にルシエラは驚き、ゴメスは泣き出しそうになっていた。そんな二人の様子を見てわたしは続ける。
「だってわたしは貴女のことを使用人とは思っていないもの。だから使用人として連れて行くことは出来ない。でも──」
わたしの友人としてなら一緒に来て欲しい。
自分で言いながら顔から火が出そうなくらいドギマギしていた。素直に一緒に来て欲しいと言えばいいのに、どうしていつもこう回りくどい言い方になってしまうのか。面倒な性格に生まれた自分を呪いたくなる。
「も、もちろん嫌なら断ってくれていいし、貴女がどうしても使用人でいいと言うなら認めないでもあげないけど」
そこまで言うか言わないかのところでわたしはゴメスに抱きつかれた。
「ありがとうございますアンジェ!」
「ちょっと! 抱きつかないでよ! 暑苦しい!」
あの時もそうだったけどどうやらこの娘には抱きつき癖があるようだ。わたしたちを覆うようにルシエラにも抱きしめられる。
「わたしからもお礼を言わせてください。ありがとうアンジェ」
「……まったく。貴女たちには負けるわ」
わたしはされるがまま二人に抱きしめられていた。
「本当に良かったの?」
村からかなり歩いたところでわたしはゴメスに尋ねた。
「何がですかアンジェ?」
「あの子あんな風に言ってたけど、本当は貴女と離れるの辛かったと思うの。それに貴女も」
ゴメスがわたしと共に発つ際、ルシエラはわたしにこう言った。「どうかわたしの大事な家族を、わたしの大好きなお姉ちゃんをよろしくお願いします」と。
「……お嬢様、いえ、ルシエラと離れるのが寂しくないと言ったら嘘になります。でも、ルシエラはあの出来事をきっかけに一人で歩き出すことを決めました。だからわたしも一人で歩くことを決めたんです」
真っ直ぐわたしを見つめるその瞳は初めて出会った頃と同じようにどこまでも深い蒼を湛えていた。なるほど。彼女もこの数年でずいぶん成長したらしい。
「ところでわたしたちはどこへ行くのでしょう?」
「さぁね。そんなこと一つも考えてなかったわ」
「えぇ!? なんで何も考えていないんですか!?」
「だって生きていたらどうにでもなるでしょ。実際そうやって生きてきたんだし」
「……ルシエラ。わたしの選んだ道は間違っていたのでしょうか」
「あーもう! つべこべ言わないの。ほら、いつまでも使用人の格好してるわけにはいかないでしょ。とりあえず着る物を用意しないとね」
ほら、行くわよ! わたしはゴメスの手を引いて走り出す。ゴメスはまだ戸惑っていたが、やがて覚悟を決めたのかわたしのペースに合わせて走り出した。
「ところでお腹空きませんかー!?」
「さっきサンドイッチ食べたばかりじゃない! じゃあ次の町でとりあえず腹ごしらえ、それから貴女の服を探すわよ!」
やれやれと呆れながらもわたしの胸は自然と高鳴っていた。
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