柴田さんとメリーさん(4)
一度街に出ると、週末ということもあって人で賑わっていた。どの人もこれからの夜を楽しみにしているようで、笑顔で溢れていた。
アンジェリカと柴田の側を若いカップルらしき男女が楽しげに過ぎていく。女性の方は男性の腕によりそうようにくっついていて、男性の方もまんざらではなさそうだった。
「ねぇ、わたしたちもこうしているとカップルに見えるのかしら?」
柴田の横をちょこちょこと歩くアンジェリカが言う。
「まさか。せいぜい兄と妹がいいところだ」
柴田は軽くあしらうように返した。微塵もブレない柴田にアンジェリカは少しむくれていた。
「それより今日はどんなところに連れて行ってくれるのかしら」
「さてどこにするかな。昨日はフレンチだったし、たまには和食なんかもいいかもな」
柴田はアゴに手を当てて考えていた。そんな柴田を頭二つ分ほど低いアンジェリカは見上げていた。
兄と妹。柴田はそう言った。
その言葉の中に『ある』感情が混じっているのをアンジェリカは感じ取っていた。
彼女たちメリーさんは人間の感情を糧にして動いている。だからこそ人間の考えていることを読み解くことが出来た。他のメリーさん同様、アンジェリカもこの能力を使ってメリーさんとしての仕事をこなしていた。だから柴田の心の中を、考えていることを覗いてしまえば柴田の全てを簡単に知ることができた。けれどそれは彼に対する一種の裏切り行為だと思い、その感情に興味はあったが思いとどまった。
「よし。決めた。ちょっと歩くけどいいか?」
「ええ。今日は一日寝ていたから少しは動くのも悪くないわね」
「なら決まりだな」
柴田が大きく頷く。内心、アンジェリカは柴田が自分をどこに連れて行こうとしているのか少し楽しみだった。
いつも柴田は自分で料理をしているため実は外食するのはそれほど多くない。それでも月に一、二回ほどは外で食べることがある。理由はいろんな味を知ってそれを自分のものにしたいからだった。
そんな彼はそれなりのグルメで、行くところはどこも普通なら入るのが躊躇われるような高級店ばかりだった。昨日訪れたところも星がつくレストランで、スープ一皿で何千円もするような店だった。ただアンジェリカは特別高い料理が好みなわけじゃない。もちろん料理は美味しいことに限ったことじゃないが、実際のところ美味しければなんでもいいと思っている。その証拠に、柴田が出張で留守番を負かされていた時はずっとはらぺこ弁当の弁当を食べて過ごしていた。それを見つかり咎められたが。
柴田は生活習慣について口うるさいところがあったが、それでもほどほどにいうくらいだった。けれど食事に関してはことうるさかった。その辺りのことも幼い頃に何かあったのだろう。アンジェリカはそう感じていた。
ビル街の中を風が吹くたびに、わずかに湿度を含んだ風が肌をかすめる。夏の暑さも穏やかになり、秋の気配がそこにあった。
『アンジェは人間をどう思いますか?』
ふと、“彼女”の言葉がアンジェリカの脳裏をよぎる。
アンジェリカは立ち止まる。思考の闇の中で彼女の姿を見る。
もう何十年も前、そうあれはわたしたちがパリにいた頃だ。そこで彼女に問われたことだ。
あの頃の彼女は……そうだ、まだ──だった頃だ。
あの悲しげな瞳をわたしは忘れることができない。それはもしかしたら彼女自身もそうかもしれない。
『アンジェは人間をどう思いますか?』
その問い掛けに自分はどう答えたのだったろうか。そして今の自分ならどう答えるだろうか。
「おい、大丈夫か」
頭上から声が降ってきた。アンジェリカが慌てたように見上げると、柴田が心配そうに見下ろしていた。
「悪い。ちょっと早く歩きすぎたな」
柴田はいつもの歩調で歩いてしまったから、自分より頭二つ分背の低いアンジェリカがついていけないのだと勝手に思い込んでいた。柴田のその推測はあながち間違っていなかった。実際、柴田の歩くスピードとアンジェリカの歩くスピードにはウサギとカメとまではいかないにしろ、大型犬とチワワくらいの差は確かにあった。
「ここだ」
それからまた少し歩いてから柴田が足を止めた。アンジェリカが彼の背中からその場所を覗き見る。そこは一件の小さなレストランだった。
「ここなの?」
アンジェリカが言う。
「意外か?」
アンジェリカの言葉の奥にある真意をどう汲み取ったのか、柴田は口元だけで笑っていた。
「ま、店はこんなだけど味はちゃんとしてるからさ。ガッカリはさせないつもりだ」
柴田が年季の入ったドアノブに手をかける。真鍮製らしいドアノブはこれまでどれだけの人が触れたのだろう、元の色がどんな色だったか想像できないくらい鈍い光を放っていた。
カランカランとドアベルが響く。中はサンタクロースで埋め尽くされていた。
この小さなレストランはクリスマスの夜をイメージしているらしく、いつでもクリスマスの温かい空気感を感じてもらいたいという店主の思いから作られたそうだ。
柴田は何度もこの店に来ているのか、迷うことなく店の一番奥の窓際の席に進む。アンジェリカも少し遅れて対面の席に着いた。
しばらくするとこの店の店主らしき年老いた恰幅のいい男性がやってきた。顔中に自身が生きてきた証であるシワが刻まれていた。柴田の顔を見るなり人の良さそうな笑みを浮かべると、より一層シワがふえた。
「おぉう。これはこれは坊っちゃんじゃないか。久しいなぁ」
「坊っちゃんは止めてくれよ。でも久しぶりマスター」
柴田が坊っちゃんと呼ばれて珍しく照れ臭そうにしていた。マスターと呼ばれた店主がしばらく柴田のことを懐かしむように眺めると、今度はアンジェリカの方へ声をかけた。
「ほう。こりゃあ綺麗なお嬢さんだ。こりゃあ坊っちゃんのアレかい?」
店主が古臭いポーズ、右手の小指をピンと立てる。
「余計なこと言うなよ。こいつは……その、居候だ」
柴田がわずかに言い淀む。これには流石にアンジェリカも文句を言いたくなった。
「あら、わたしが恋人じゃ何か問題でもあるのかしら」
「あのなぁ、さっきも言ったけど俺とお前じゃいくつ年が離れてると思ってんだ」
だが、柴田はそう言った後で単純に年齢だけで見るとアンジェリカの方が遥かに年上だということに気づいた。それを察したのかアンジェリカが対面の柴田の脚を蹴った。
そんな足元の事情を知るよしもない店主は「まぁなんにせよ坊っちゃんが元気そうでよかった」とシワの刻まれた頬を緩めていた。
「それで注文は決まったかい?」
「俺はいつものと、あとワインを。お前はどうする」
「そうね。じゃあオムライスをいただこうかしら。それと紅茶をもらえる?」
「ワインと紅茶だな。んじゃちょっと待っててくれな。今すぐに作ってくるからよ」
店主は大きな体を揺らしながら店の奥へと戻っていった。そんな彼の後ろ姿を柴田は片肘つきながらぼんやりと眺めていた。
「ここにはよく来るのかしら」
アンジェリカに話しかけられて、ゆっくりと姿勢を正す。
「ずいぶんと親しげに話していたみたいだから」
「ああ。ここのマスターには俺がガキん時から世話になってるからさ。俺の好きなものから嫌いなものまで全部知ってるんだよ」
「常連というものかしら。もしくは馴染みの客ね」
「そんなたいそうなもんじゃねぇよ」
柴田が珍しく照れたように笑った。
少ししてウェイトレスが頼んだワインと紅茶を持ってきた。グラスに真っ赤なワインが注がれる。
「わたしもワインにしておけばよかった」
「ワインにしておけばよかったって、お前酒に弱いだろ」
柴田の言うとおり、アンジェリカはそれほどアルコールに強くない。以前、試しにと飲んでみたところ、グラス一杯で顔を真っ赤に染めていた。そんな苦い記憶があるはずなのに、どういうわけかワイン好きという困った嗜好を持っていた。
「連れて帰るのも大変だからまた今度な」
柴田が諭すように言うと、不承不承といった様子で頷いた。
「ところで貴方の頼んだものって一体どんな料理なの?」
「気になるか?」
「そうね。気にならないと言ったら嘘になるかもしれないわね」
アンジェリカは包み隠さず正直に伝える。
「お前が俺に興味を持つなんて初めてじゃないか」
「そうかしら? わたしたちメリーさんはいつも人間という生き物に興味をもっているわよ」
それがメリーさんだから、と妖しく微笑む。それは恐ろしいなと柴田は肩をすくめた。
「俺が頼んだのはハンバーグだよ」
「ハンバーグ? 貴方にしては珍しいものを頼んだのね」
「俺だってハンバーグくらい食べるさ。むしろ好物といってもいいくらいだ」
柴田がクシャっと顔を歪ませて笑う。案外子供っぽい人なんだとアンジェリカは思った。
しばらくするとマスターが二人の頼んだ料理を運んできた。
「お待たせ。こちらがオムライスでこっちがハンバーグだ」
ジュウジュウと鉄板の上で美味しそうな音を立てるハンバーグからは出来たての湯気が立ち上っていて、アンジェリカの頼んだオムライスもトロトロとした半熟卵がのっていて、自家製らしいデミグラスソースがたっぷりとかかっていた。
「さ、温かいうちに食ってくれ」
はっはっはと豪快に笑いながら促すマスター。アンジェリカはさっそくスプーンを片手にオムライスを崩しにかかる。
見た目通りすっとスプーンが半熟オムレツに吸い込まれていく。ひとすくいすると、チキンライスの上にのったオムレツがプルッと揺れる。
一口食べると今まで食べたことのない美味しさがそこにあった。
「美味いだろ」
柴田がアンジェリカの心を見透かしたように言う。チラっと柴田の方を見ると、手馴れたようにハンバーグを切り分けていた。
目があった。
「食うか?」
どうやら物欲しそうに見えたらしい。実際、食べてみたい気持ちはあったが、アンジェリカのメリーさんとしてのプライドがそれを許さなかった。それを気取られないようにアンジェリカは「別に」とそっけなく返す。
「そうか」
柴田は一言そう言うと、切り分けたハンバーグを食べ始めた。
……食べたい。
アンジェリカは思った。食べなくてもわかる。あれは絶対に美味しいものだ、と。そう思えば思うほど、ますます食べたくなる。
すると、
「ほれ」
柴田がハンバーグの一切れをアンジェリカのオムライスの上にのっけてきた。
「なんのつもりかしら」
「こうやって食うと美味いんだよ。ここのハンバーグはオムライスと一緒に食っても美味いぞ」
食べてみろよ。柴田が目だけで訴えてくる。そこまでされては食べないわけにもいかず、アンジェリカは持っていたスプーンでハンバーグを食べた。
「──!」
言葉が出なかった。もしここがお店ではなく、柴田の部屋だったらテーブルをどんどんと叩いていただろう。つまりそれくらい美味しいということだった。
目を見開いているアンジェリカに満足したのか、柴田は「だろ?」といいたげにハンバーグを食べ進めた。
そうしてひと時の至福を堪能すると、柴田はワインをアンジェリカはハーブティーで落ち着いていた。
「どうだった?」
「ん、まあまあね」
「そりゃよかった」
アンジェリカがこう言う時は大変に満足してもらえたということを知っている柴田は、嬉しそうにワインを飲んでいた。
「ここはさ、妹とよく来てたんだよ」
妹という言葉にアンジェリカは重みを感じていた柴田の心の奥に見えた感情の正体、それは彼の妹を想う気持ちだった。そしてそれはアンジェリカが柴田と初めて出会った時に見たものとも重なり合う。
『お兄ちゃん』
柴田と初めて目があった瞬間に流れてきたイメージだった。柴田の心の中にいる妹の存在。柴田はアンジェリカを自分の妹に重ねて見ていた。
「妹がここに来るといつもハンバーグ食べててさ、なんかそれ見てたら俺までハンバーグ食べたくなって、気づいたら俺の好物になってた」
「そうだったの」
アンジェリカはそっとカップを手に取る。普段は高級なお店だったり、自分で料理を作るときも凝ったものを作る柴田が、どうして子供っぽい料理が好きなのか、ようやくわかった気がした。
「妹はさ、昔っから体が良くなくてたまに元気な時にここに来てたんだよ。別にたいしたところでもないのにさ、あいつすごいはしゃいでて、見ているこっちがハラハラしたよ」
苦笑を混じえながら続ける。
「あいつさ、いつも同じメニュー頼んでた。俺がたまには違うの食えよって言っても同じメニュー頼んでた。俺それがずっと疑問に思ってて、なんで違うの食べないんだ? って聞いたんだ。そしたらなんて答えたと思う?」
「それが好きだから? かしら」
「……あいつあと何回食べられるかわからないからって答えたんだ。妹は──梨花は自分の体が良くないことをわかってた。きっとそれほど長くないって悟ってたんだろうな。それなのに、それだからか、ここに来るのを楽しみにしてた」
アンジェリカの中にまたイメージが流れ込んでくる。テーブルをはさんで向かい、小さな女の子が笑っていた。お世辞にも柴田に似ているとは思えないくらい可愛い子だった。唯一似ているとすれば目元くらいなものだ。正確には目元というより瞳の奥に見える優しさというか雰囲気が似ていた。
『お兄ちゃん、あーん』
女の子が自分の兄に自分の食べている料理を差し出していた。柴田は少し戸惑いつつも、それを口にする。
『おいしい?』
『うん。美味しいよ』
そんな二人のやりとりを微笑ましく見ている男女。これが柴田の両親だろう。男性の方は確かに柴田に似ていた。女性の方は梨花と呼ばれる妹に似ていた。そして二人とも優しい瞳をしていた。
暖かい空気がそこにはあった。
しかしそのイメージがプツリと途切れる。
アンジェリカが意識を目の前の柴田に向ける。柴田はアンジェリカが今まで何を見ていたのか、それを知っているかのように目を伏せる。
「妹は最後まで笑ってた」
柴田が椅子に背を預け天を仰ぐ。彼の心の中はどこまでも真っ暗で、さっきまで見えていた暖かいイメージはどこにもなかった。
「あいつがいなくなる前にさ、どうしてもここのハンバーグが食べたいって珍しくわがまま言ったんだ。それが無理だってあいつだってわかってた。だから俺が頑張ってあいつのためにハンバーグを作ったんだよ」
料理なんて一度もしたことなかったのにな、そう付け加えて。
「初めて作ったハンバーグは真っ黒焦げでとても食べられたもんじゃなかった。それでも梨花は美味しいって言ってくれた。それからかな、俺が料理するようになったのは」
柴田がひと呼吸おいた。
「何度作ってみてもうまく作れないんだよなここのハンバーグ。何十回も食べてんのにさ。どうしてもこの味にならない」
「そりゃあそう簡単に作られちゃ俺の商売も上がったりだ」
気がついたらマスターが二人のそばに立っていた。けれど別に怒っているとかではなかった。
「いきなり坊ちゃんが俺んところきてハンバーグの作り方教えてくれってきたときゃあ驚いたな。妹にハンバーグ食べさせたいって、走ってきたのか息切らしてよ」
「昔の話だよ」
「んで、ハンバーグは作れるようになったのかい?」
「まだまだ勉強させてもらわないと難しそうだ」
ふふっと口元を緩める。もうそこに暗い色はなかった。
「てことは、まだウチに来てこのハンバーグ食べてくれるってことかい。そりゃあ嬉しいねぇ」
「そうなったらわたしも今度はハンバーグを注文させてもらうわ」
「おいおいお前を連れてくるなんて俺は一言も言ってないぞ」
「あらいいじゃない。こんな美味しいものを独り占めするより二人で食べたほうが美味しいと思うけど?」
「おう。嬢ちゃんの言うとおりだ。ぜひまた来てくれよ。こんなべっぴんさんだったらいつで歓迎だ」
「勝手に決めんなよ……」
でも──ま、いいか。
柴田は聞こえないフリを決めると、グラスに入ったワインを一気にあおっていた。
一方その頃。
「メリーちゃーん! こっちー! 早くこっちおいでー」
「メリーちゃん、このからあげ美味しいねー! あ、キューちゃんご飯超特盛追加で」
「せ~んぱ~い。俺もメリーちゃんみたいな可愛い女の子と知り合いになりたいっす!」
会社で俺たち二人を捕まえた課長と横尾さんは途中でメリーさんのバイト先に突撃すると、仕事終わりのメリーさんを拉致し、そして居酒屋へと流れ込んだというわけだ。
「木内さんこれはどういうことですか? なんでこんなことになってるんですか!? わたしは説明を求めます! ちょ、課長さんどこ触ってんですか!?」
「うっふふ~、メリーちゃんやわらかーい。ふわふわで暖かくってーこりゃあ辛抱たまりませんな!」
「あー、課長いいなー。じゃあわたしもむぎゅー」
花村課長とたまちゃんの二人の美女に挟まれて、メリーさんはなんかもみくちゃにされていた。傍らで川本は「いいなぁ……」とつぶやいていた。
「それより。川本! お酌お酌~! 上司の盃が空になってるわよ」
「うーん、メリーちゃんを愛でたらまたお腹すいちゃった。キューちゃんご飯まだー?」
「先輩……。どうして俺は男に生まれてしまったんでしょう。俺が女の子に生まれてたらあの中に混じってても誰も文句言わないっすよね……」
「だぁー! お前ら全員ちょっと黙ってろ!」
こうして木内の騒がしい夜は過ぎていったのであった。
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