柴田さんとメリーさん(3)
「先輩、今日仕事終わったら飲みに行きませんか?」
後輩の川本が人懐っこく甘えてくる。
「おう。たまにはいいな。そういやこの間お前頑張ってたし、今回は俺が出すよ」
「いいんすか? よっしゃー! どこにしよっかな」
早速スマホを取り出すと、食べログでオススメの店を探していた。俺は俺で帰宅する準備を始めていると、すぐ側を同僚の柴田が通りかかった。
「あ、柴田さんお疲れっす」
「おう。なんだ川本、お前また人に集ってんのか?」
「集るなんて人聞きが悪いっすよ。俺は上手に世渡りしてるんですって。それに今日は木内さんが言い出したことだから集りじゃないっす」
スマホで店を検索しながら器用に答える。世渡り上手というか、口が上手いというか、これくらい仕事もしてくれればなぁと俺は柴田と顔を見合わせていた。
「ところで柴田、これから飲みに行くんだけどこの後空いてるか?」
俺の誘いに柴田は少し間を空けてから「悪い。今日は予定があるんだ」と、申し訳なさそうにしていた。
「柴田さんもしかして女っすか? あー、だからか。最近付き合い悪いの」
俺との会話を横で聞いていた川本が小指を立ててニマニマと笑っていた。それに対して「お前はいちいちうるさいんだよ」と柴田が軽く川本の頭を小突いていた。
「ちょっと野良猫を拾ってな。そいつの面倒見ないといけないからさ」
んじゃ、と軽く手を上げるとサッサっと行ってしまった。
「柴田さんが猫飼うなんて、何かあったんすかね?」
「さぁな。まぁ俺だって家に帰って一人ぼっちだったら寂しいから動物でも飼いたい気持ちはわかるよ」
「それが可愛い彼女だったら尚のこといいんすけどね〜」
川本は未だ現れない運命の人とやらを夢見ているようだった。
運命の人ね……。
ふと何故か毎週末現れる金髪少女の顔が浮かんだ。
ってなに考えてんだ。
「んなわけあるか」
「どしたんすか先輩?」
俺のセルフツッコミに川本はキョトンとしていた。
「それより早く行きましょうよ。いい店見つけたんで」
いそいそと帰り支度を始める川本。俺も自分のデスクに戻って荷物をまとめる。そこへ、
「キューっちゃん」
ものすごい寒気がした。
俺が恐る恐る振り向くと、
「キューちゃんお疲れさま。あ、ここは仕事場だからキューちゃんじゃなくて木内くんね」
「でももうお仕事終わったみたいだからキューちゃんでいいと思いますよー課長。ねー、キューちゃん?」
花村課長と横尾さん二人の美女の笑顔がそこにあった。
俺はその時悟った。これは……逃げられない! と。
「キューちゃん覚えてる? この間のこと」
「この間とは?」
「んもー、キューちゃんたら忘れん坊さんなんだ・か・ら♪」
腰をくねらせながら上機嫌に俺の鼻先を形のいい指で突いてくる。正直うっとうしかった。
課長の言うこの間のこととは……まぁ昨日のことだろう。彼らを働かせるために口からでまかせでいったことだったが、ちゃんと覚えていたようだ。だが、俺はとぼけてみることにした。
「いや、なんのことでしたっけ。本当に覚えてないんですよ。あの時、結構いっぱいいっぱいだったんで、あまり覚えてなくって。すいません」
我ながら百点満点に近い営業スマイルで応える。対峙する課長もにこやかに笑っているはずなのに、背後ではものすごいオーラを放っていた。……正直怖い。
「ねぇキューちゃん。このあとお暇ー? お暇だよねー♪ だってー、わたしたちがちゃーんとお仕事頑張ったんだからー。ね?」
もう一人のうっとうしい刺客こと横尾さんが俺と課長の間に割って入ってくる。どうやら課長だけじゃ俺を倒せないと思ったらしい。今度は横尾さんが攻撃もとい口撃を仕掛けてきた。
「キューちゃんあのね。わたしお腹空いちゃったなー。なんでかって言うと一生懸命お仕事したからなんだよねきっと。だーかーらー」
「横尾さん」
「なにー?」
「横尾さんは今一生懸命と言ったが、正確には一所懸命が正しい言葉だ」
「キューちゃんざーんねーん。それは昔のお話。今はどちらでもいいことになってるけど、正確には一生懸命で間違いないんだよー。もうちょっとお勉強したほうがいいよー」
まさかの反撃にちょっと心が折れる。というより、言い方がなんか腹立つ。
「訂正してくれてありがとう。俺も一つ勉強になったよ」
「んーんー、いいんだよ。これでもキューちゃんの先輩だからね」
「勉強になります先輩」
俺が改めて『先輩』というところを強調して言うと、さらに機嫌を良くしたのか、もっと褒めてと言わんばかりにその凶悪な胸元を張っていた。
「いやー、さすが横尾さんは頼りになるなぁ。いよっ! 大先輩!」
「うんうん。キューちゃんだけだよーわたしのことをちゃーんと褒めてくれるのは」
「いやいや、なんで周りの人は横尾さんの素晴らしさわかってないんすかねー。ほーんと見る目ないっすよねー」
あははー、と太鼓持ち芸人よろしくじわりじわりと気づかれないように距離を開けていく。
このまま上手くやれば逃げ切れる!
──と、そう思っていた時代が俺にもありました。
タイミングを見計らって逃げようとしたその時だった。
「せーんぱーい……」
ハッと振り向く。そこには首根っこを捕まえられている川本と背後でにっこりと笑う花村課長の姿を見て全てを悟った。
「川本……すまん」
「……いえ。いいんす。先輩だけに辛い思いはさせられませんすから」
俺が申し訳なさそうに言う。川本も節目がちに頷いていた。
「さ、行きましょう。なっていったって明日は休みなんだから♪」
「ですねー」
いつの間にか課長の横にいた横尾さんが俺と川本の肩をがっしと掴む。
「逃がさないから。ね? キューちゃん」
今夜は……長い夜になりそうだ。
柴田が家に帰ると、いつもの通り居候のメリーさんことアンジェリカが、やっぱりあずき色のジャージを身に纏ってソファーの上で丸くなっていた。
こうやっていると黒猫が寝ているようにも見える。柴田はアンジェリカを起こさないよう注意しながら来ていたスーツを払う。
すると柴田の気配を感じたのか、アンジェリカがゆっくりと起き上がった。長い髪が顔中にかかって、まるでホラー映画に出てくるお化けのようだった。
「うにゅ……。おかえりなさぁい……」
寝ぼけているのか、いつもならキリッとした口調で話しかけてくるのに、いつも起きてすぐはこんな調子だった。
「起こしたか。悪いな」
「うぅん……。だぁいじょおぶぅ……」
アンジェリカは顔にかかった髪もそのままに、大きく伸びをしていた。上げた両腕からサラサラと彼女の長い黒髪が滝のように流れる。
「飯は? って寝てたからまだだよな」
言ってから気づく。今の今まで寝てたところを見ると、朝からずっと眠りこけていたんだろう。
柴田は冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを二本取り出すと、一本をアンジェリカに差し出す。
「飲むか?」
アンジェリカは寝ぼけモードでうつらうつらしながらそのボトルを受け取った。
「……かたぁい」
ボトルのキャップが開けられなかったようで、ん、と柴田に向けて突きつける。一瞬、戸惑ったものの、仕方ないと受け取るとボトルのキャップを開けてあげた。
アンジェリカがゆっくりとボトルの水を飲むのを確認すると、柴田は今日の夜ご飯の支度をしにキッチンへ立った。が、炊飯器のスイッチが入っていなかった。
そういえば、朝の準備に追われていてスイッチを入れ忘れていたようだ。ならメインをパスタにするかと思ったが、冷蔵庫の中にはめぼしい食材はなかった。昨日出張から帰ってきてからジャングルになっている部屋の片付けをしていて、ご飯を作る気が起きず、外食したせいで食材の買い出しもすっかり忘れていた。
かといって今からご飯を炊くとなると時間がかかる。
さてどうするか。
一人思案していると、
「帰ってたのね。おかえりなさい」
ようやくスイッチが入ったのか、本来のキリッとしたアンジェリカがいた。ただし、あずきジャージはそのままに。
「ようやく起きたか」
「ええ。この場合はおはようと言うべきかしら? それとも今晩は?」
「どっちでもいい。そんなことより出かけるぞ。準備しろ」
「あら、どうしたのかしら?」
「買い物し忘れたんだよ。だから今日も外食だ」
柴田は着ているワイシャツはそのままに、適当なジャケットを羽織っていた。
「貴方にしては珍しいこともあるのね」
「まぁな。俺だって普通の人間だ。ミスだってするさ」
「そう。それよりいつまでそこに立っているつもりかしら? 貴方がそこにいるとわたしが着替えられないのだけれど。それともわたしの着替えを見たいのかしら?」
アンジェリカの皮肉に柴田はやれやれと肩をすくめながら「外で待ってる」と言い残して、部屋を出た。しばらくしていつものドレス姿で現れると、いつも通りの彼女がそこにいた。
「なにかしら?」
ジッと自分を訝しむように見つめる柴田にアンジェリカが髪を払って言う。
「ん、いや。なんか久しぶりにその姿見た気がしたから、ちょっとな」
「ちょっと、なに?」
「やっぱりそっちの方がいいなと思ってな」
柴田の言葉に珍しくアンジェリカが言葉を詰まらせた。
「い、行くわよ」
スタスタと行ってしまうアンジェリカの後ろ姿を見ながら柴田はまたやれやれと肩をすくめていた。
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