柴田さんとメリーさん(2)
一方その頃。
「この部屋に帰ってくるのも一週間ぶりか」
柴田が上着を肩にかけた姿で、大きなキャリーケースを引きずりながら、久しぶりの我が家を感慨深く見つめていた。スラックスのポケットにある家の鍵を取り出して──戻した。
おもむろにドアノブに手をかけ、開ける。鍵はやっぱりかかっていなかった。
「あいつ……あれだけ鍵かけとけって言ったのに」
悪態を吐きながらゆっくりとドアを開ける。
「帰ったぞ。ってなんだ……これ!?」
柴田はリビングに入るなり慌てふためいた。なぜならそこには草、草、草が生い茂っていて、一見するとジャングルのようになっていたからだ。
「あら、帰ったのね。おかえりなさい」
イタリア製の高級革張りソファーの上で横になりながら、読んでいる女性ファッション誌から視線を外すことなく、少女が言う。その声は鈴のような響きを持ち、聞いた者を甘くとろけさせるような響きがあった。しかし、今の柴田にとってそんなものは鈴虫の鳴き声と対して変わらない。むしろ、部屋の中をジャングルにしないだけ鈴虫のほうが可愛げがあるとさえ思っていた。
「おい、これはどういうことだ?」
「どうって、なにが?」
「なにがじゃない。いつからこの部屋は植物園になったんだと聞いてるんだ」
「植物園か。貴方にしては面白い例えね」
ソファーで寝転んで少女がゆっくりと起き上がる。少女の長い黒髪が革張りのソファーに擦れる度にサーという音を立てる。少女は改めてソファーの上に座り直すと、顔にかかった髪をそっと払い除けた。そしてゆっくりとした動作で柴田に微笑みかける。その微笑みはまるで人形のように美しかった。
「おかえりなさい。ご主人様」
少女の名はメリー・アンジェリカ。彼女は柴田の部屋に住んでいた。
柴田の家は木内が住んでるマンションのから二駅ほど離れた隣町にあり、そこはメリーさんであるアンジェリカのテリトリーでもあった。
そしてアンジェリカと柴田の出会いは約数ヶ月前に遡る。
ある日柴田が会社から帰ると、駅の構内に一人の少女がいかにもチャラそうな大学生風の男三人に絡まれていた。見れば少女の格好はゴスロリという周りからは浮いて見える格好をしていた。それに少女の見た目が人並み外れていたのもまた要因となっていた。
少女は毅然とした態度で男たちに抗っていた。しかし、男のほうは三人。人間は群れれば群れるほど妙な心理が働き、気が大きくなる習性がある。柴田は面倒事に巻き込まれるのも厄介だと思ってその脇を通り過ぎようとした。が、ふと少女の顔を見た瞬間その考えは変わった。
「おい、お前こんなところにいたのか。探したぞ」
柴田がにこやかに少女に話しかける。突然現れた柴田に、少女も男たちも唖然としていた。
「ったく、家で待ってろって言っただろ。今日は早く帰るって言ってたんだし。ほら行くぞ」
そう言うと柴田は少女の手を引いてさっさと歩き出した。少女が柴田に何か言おうとしたが「何も言うな。今は俺に合わせろ」小声でそう指示すると、男たちが見えなくなるところまで彼女の手を引いていた。
「よし、もうここまで来たら大丈夫だろ。悪かったな急に驚かせて」
柴田が少女を気遣うように言う。少女は静かに首を横に振った。
「ま、アンタもそんな格好であんまりウロウロすんなよ。ただでさえ目立つ容姿してんだから少しは気をつけたほうがいいぞ」
頭二つ分低い少女の頭をわしわしと撫でる。少女はその手から逃れるように走っていってしまった。
余計なお節介だったか。いや、それ以前に知らない女の子の頭を撫でるのはやりすぎか。まだ頭を撫でた時の感触が残る右手を見つめながら、柴田は家路についた。
夕食を適当に済ませてから、シャワーを浴びた。明日の予定を確認しようとスマートフォンを開く。そういや明日は休みだったから予定はなかった。これが学生の頃なら、適当な友人に連絡をすればあっという間に予定なんて埋まっていた。それも社会人になると各人それぞれの予定や生活があるせいで、連絡をしても断られることがほとんどだった。
それでも適当な誰かに連絡してみようかと思ったが、時刻は午前12時に迫ろうとしていた。こんな時間に連絡するのもどうかと思って諦めようとした時だった。
プルルルルル。プルルルルル。
手に持ったスマホが鳴り出した。
画面には非通知の文字が。こんな時間に……それも非通知で。柴田は気味悪さを感じた。
しばらく放っておけば鳴り止むだろう。そう思って放置していたが、呼び出し音が鳴り止むことはなく、電話の相手が早く柴田に出て欲しいと急かしているようだった。
しばしの逡巡。柴田はスマホの通話をタップした。
「もしもし……?」
柴田が相手を伺うような低いトーンで言う。すると、
「わたしメリーさん。今あなたの家の近くにいるの」
そう言うと電話が切れた。
柴田はスマホの画面を注視したまま固まっていた。
……メリーさん? まさかな。いや、そういえばこの間ウチに来た木内さんとこの会社、社長がノイローゼになったとか聞いたな。それもメリーさんが来るとかなんとか言っておかしくなったとかいう話だったか。
この手の話をあまり信じない柴田だったが、身の回りでそんな噂がたっていて、それがたった今自分の身に起こったことでわずかでも信じざる負えなくなっていた。
それからまた、
「わたしメリーさん。今あなたのマンションの下にいるの」
「わたしメリーさん。今あなたのマンションの二階にいるの」
「わたしメリーさん、今あなたのマンションの三階にいるの」
少しずつ電話の向こうから聞こえてくる距離が近づいてくる。
このまま電源を落としてしまうか。そう思ってスマホの電源を落とそうとする。が、
「わたしメリーさん。そんなことをしても無駄よ。どんなことをしてもわたしはあなたのところまでたどり着けるから」
柴田の行動をいちいち見透かしているように告げられる。
それからしばらくして、
ピンポーン。とうとうメリーさんが部屋の前にたどり着いてしまった。ここまで来たら逃げ場なんてない。なぜならここはマンションの十階。ベランダから逃げるにしても飛び降りるくらいしかできない。そうなれば逃げるどころの騒ぎじゃなくなる。
ピンポーン。再び部屋のインターフォンが鳴る。
追い詰められた。柴田は珍しく焦っていた。これほど焦ったのは後輩の川本が取引先の部長に「部長さんってヅラだったんすね」と言ってしまった時以来かもしれない。
どうする……?
じっとりと背中に汗が流れる。こりゃあまたシャワー浴びなおさなきゃな。ま、何事もなければだが。
そんなことを考えていると、
コンコン。と、今度はインターフォンではなく、直接玄関のドアをノックする音が響いた。
「誰もいないのかしら。確かに人の気配は感じるのだけれど」
鈴の音のような柔かな声だった。確かに電話の向こうから聞こえた声だったが、スピーカー越しでない分、さっきとは少し違って聞こえた。
もう一度コンコンとノックされる。今度は少し強めだった。柴田はなんだか無性にこのドアの向こう側にいるメリーさんとやらに会ってみたくなった。そう思うと、そこからの行動は早かった。
ゆっくりとドアを開けると、そこにいたのはさっき駅の構内で会ったあの少女だった。
「ご機嫌よう。また会ったわね」
ここからまさかこの謎の少女、アンジェリカとの奇妙な同居生活が始まるとはさすがの柴田も思っていなかった。
「んで、説明してくれ。俺のいない一週間で何があった?」
「なにってハーブティーのためのハーブを育てていたのよ」
「ハーブティーねぇ。それがどうしてこうなるんだ?」
「さぁ?」
アンジェリカが欧米式に肩をすくめる。
今のアンジェリカの姿はいつものゴスロリではなく、どこから持ってきたのか上下あずき色のジャージに身を包んでいた。その姿からは普段のお嬢様然とした雰囲気は微塵も感じられない。柴田もそれを不審に思っていた。
「というよりいつものドレスはどうした」
「あぁあれね。あれはほら」
アンジェリカが指差すのはベランダのほう。そこには適当に吊るされたいつものドレスがあった。
「お前……まさかあれを洗濯したのか?」
「ええ。ご飯を食べている時にお醤油をこぼしてしまって。それが何か?」
「なにかもなにも、ああいった服はちゃんとしたクリーニング屋に持っていかないとダメだろ!」
柴田が慌てたようにアンジェリカのドレスを確認する。、見たところ大してシミにもシワになっていなかった。ちなみにこういったフリルやレースがついた服は、洗濯機などで洗ってしまうと傷みやすい。なのでちゃんとした技術のあるクリーニング屋かもしくは手洗いが基本となる。
「ところでご飯はどうしてた? ちゃんと三食食べたのか?」
「ちゃんと頂いたわよ。ほら」
アンジェリカが得意げに言う。柴田がキッチンを確認すると、そこにあったのははらぺこ弁当の空容器の山だった。
「おい、これはなんだ」
「なんだって、弁当の空き容器だけど」
「まさか、三食ずっとこれだったわけじゃないよな。それも一週間」
「だってわたしは料理なんて出来ないもの。だったらお弁当を買ってくるしかないじゃない。最近は便利ね。電話一本でここまで配達してくれるのだから」
「だからって三食同じものを食べるやつがいるか。もう少しバリエーションをだな……」
と、そこであることに気づいた。
「お前まさかゴミ出ししてなかったのか」
「ゴミ出し? 言われたとおり出しに行ったわ。でも管理人とかいう人が、燃えるゴミは月曜と木曜で、燃えないゴミは水曜。資源ゴミは火曜とか色々言われてわからなくてそのままにしてたの」
アンジェリカがこともなげに言う。うずたかく積まれたゴミ袋を前にして柴田は膝から崩れ落ちそうになった。
「ところでご飯はまだかしら? わたしお腹が空いたわ」
すまし顔で言うアンジェリカ。しかしジャージ姿では様にならない。柴田は妙な頭痛を感じていた。
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