ノワールとにらめっこ

 木曜日、それは週末まであと一歩という一週間の中でもっとも気だるい日だ。月曜日や火曜日はまだ週の初めということで頑張れるし、金曜日はその一日を乗り越えれば休みが待っている。しかし木曜日はまだ金曜日が控えていて、その前に月、火、水と三日間ある。


 頑張って一週間を乗り切ろうと思うが、やはり木曜日で疲れが見えてくる。と、そんなことを考察しているけど、前まで曜日関係なしに働いていた身としては、そんなことを考える余裕が出来た事に感謝しないといけない。


 ……のだが。


 俺はずっと嫌な予感がしていた。なんていうか、ここしばらく面倒なことが立て続けだった。二度あることは三度あるという。考えすぎだと笑いたければ笑ってくれ。でも俺の予感ってのはやたらよく当たる。それも悪い方向全般でな。


 そんな風に戦々恐々としていると……。


 ピンポーン。


 呼び鈴が鳴った。


 俺は一つ深呼吸。ドアチェーンはかかってるな。携帯はポケットに忍ばせておこう。それからまだ準備するものは……。


 ピンポーン。再び呼び鈴が鳴る。ドアの向こうのお客様はずいぶんせっかちさんだ。


 へいへーいとドアノブに手をかける。そういえば鍵閉めてたんだった。ロック解除、と。


 恐る恐るドアを開けその隙間から覗き見る。が、ドアの向こう側にいるはずのお客人の姿は見当たらなかった。


 なんだったんだ? 俺はそっとドアを閉める。


 まぁ質の悪いイタズラかなんかだろ。そう思って部屋の中に戻ると、


 ──ベランダにメイドがいた。


「何やってんの!?」


 俺が声を荒らげて窓越しに話しかける。しかしながら窓を閉め切ってるせいでベランダにいるメイドさんが何言ってんのかさっぱりわからない。


 仕方なくベランダの窓を少しだけ開ける。


「こんばんは木内様。わたくし参上です」

「見りゃわかるよ。んなことよりそこでなにやってんだよ」

「たまには違った登場の仕方もまた一興かと。いわゆるサプライズです。いえ、この場合サプラーイズですね」

「どっちでもいいよ! あといらんわそんなサプライズ!」


 いいから玄関に回ってくれとピシャーン! と窓を閉める。


 やれやれと思いつつ、もう一度ベランダを振り返ると、既にそこにいたはずのメイドさんはいなくなっていた。


 次の瞬間。


 ガンッ!


 ドアチェーンが大きな音を立てて唸る。しかしビィーンと限界まで張り詰めたチェーンはまだその限界を突破しようと頑張っていた。


「こんばんは木内様。わたくし参上です(二回目)」


 ドアの隙間からニョキッとこんにちわ(今は夜だが)してきたのはまぁ大方予想はしてたけど、みんな大好きメイドさんの格好をしたメリーさんことノワールだった。


「やっぱりアンタか」

「はい、わたくしでございます」


 礼儀正しくお辞儀をするノワール。理想的な45°のお辞儀でも頭の上に飾られたヘッドドレスは少しも乱れない。


「アンジェ、クオーレと来たから次はアンタが来ると思ってたよ」


 まさかベランダから侵入しようとしてたとは夢にも思わなかったが。


「それで今日ここに来たってことはノワールも俺とにらめっこ勝負しに来たのか?」

「にらめっこ? ああ、メリーさんがお話しておられたことですね。なんでも木内様と勝負して勝つことが出来たらどんな願いでも一つだけ叶うとか」

「俺にそんな力ねぇよ!」


 にらめっこ勝負はメリーさんが言い出したことだったが、話に尾ひれに背びれだけじゃなく胸びれまでついて、既に原型をとどめていない。


「本当ならば木内様を完膚なきまでに叩きのめして、その悔しがる表情を見ながら勝利の美酒に酔いしれ、あまつさえどのような願いをお願いしようか考えるだけで胸が高鳴りますが、残念ながら今日お尋ねしたのはまた別の用件です」

「むしろ俺としては別の用件でよかったよ!」


 相変わらずの無表情でとんでもないことを言ってのけるノワールに恐怖すら感じた。


「それより俺に用件ってなに?」

「はい。そうでした。今回お伺いしたのは先日お嬢様が夕食をご馳走になったとかでそのお礼に参りました。これをどうぞ」


 ノワールが差し出したのは朝から並ばないと変えないと有名なたつ屋の羊羹だった。確かこれもかなりいい値段のするものだったはずだけど……。


「いいよ。夕食をご馳走したっていってもカレー食べさせただけだし」

「そうは言いましてもお嬢様が施しを受けたのであればちゃんとお礼をするのがメイドの勤め。では早速」


 そう言いながらノワールは来ていたドレスを脱ぎ始めた。


「ちょ、なにやってんだよ!」

「何とは? 今からご奉仕をしようと」

「しなくていいから! ほら、服着て!」

「そう遠慮なさなくても構いません。見られて減るものでもありませんし、むしろ見られれば見られるほどわたくしのやる気が増えます」

「無駄なやる気を増やさんでいいから、メイドならメイドらしく恥じらいを持ちなさい!」


 すでに脱ぎ捨てられていた真っ白なエプロンを拾い上げると、極力ノワールの方を見ないようにしながら手渡す。一瞬だけ視界に入ったが真っ黒なワンピースの隙間から色白のたわわな二つの双丘がチラリと見えて……。


「見たいのでしたらいくらでもお見せしますが? あ、木内様はモロ見せよりもチラリズムに欲情を感じる方でしたか」

「うるせぇよ! 早く黙って服着ろや!」


 この一週間の内で一番疲れる瞬間だった。


「着替え終わりました」


 その声に恐る恐る振り向く。よかった。ちゃんと服着ていた。


「その割には少し残念そうにも見えますが」

「見えないから。そんなことないから!」


 そうは言いつつ少し残念な気もしないではない。


「ところで」

「なんだよまだなんか用か?」

「先ほどお話しておられたにらめっこというものは一体どのようなものでしょうか」

「ん? にらめっこ知らないのか」

「はい。話には聞いたことはあるのですが、実際やったことはございません」

「意外だな。なんでも知ってるかと思っていたのに」

「買いかぶり過ぎです木内様。わたくしにも知らないことくらいございます。あ、でも男性の喜ぶポイントは熟知しております」

「そんなもん熟知せんでいい!」


 自信満々に言いながら軽くサムズアップ。余計な知識だけは豊富にあるようだ。


「……ったく、アンタはもう少し慎みをもてんのか」

「これでもわたくしは淑女としての嗜みは心得ているつもりですが」

「本当の淑女は堂々と下ネタなんて言いません!」


 本人の言うとおり見た目だけなら淑女だと思う。しかしながら人は見た目によらないとはよく言ったものだ。


「それはそうと先ほどのお話ですが」

「ああにらめっこだっけか。メリーさんとかクオーレと一緒にいたらにらめっこの一回や二回くらいやってそうだけど」


 そういや俺も子供のころ妹と一緒ににらめっこしてたっけか。俺が変顔するたびにケラケラ笑ってた。今じゃそんなことしようもんなら「うわ、キモ……」って言われて終わりだろう。


「ま、口で説明するより実際にやってみたほうがいいだろ」


 一度ドアを閉めていつもの掛け声。


「にーらめっこしましょ、笑うと負けよあっぷっぷ!」


 ドアを開けると同時に俺渾身の変顔を繰り出す。ウチの妹はこれで一撃だった。いつも無表情なノワールだって笑わずにはいられないはずだ。


 しかし、


 ノワールの氷のような表情は一ミリたりとも緩むことはなく、それどころかますます冷たさが増した気がした。


 あまりにもいたたまれなくなって俺はそっとドアを閉めた。


「木内様どうかなさいましたか?」


 鉄の壁の向こうから優しい言葉がかけられる。けれど今の俺には、傷ついた心に何よりもよく刺さるナイフでしかなかった。


 しばらくしてからドアを開けると、相変わらず無表情なノワールがずっと変わないう姿勢で立っていた。


「大丈夫ですか木内様。どこかお加減でも悪いのでしょうか」

「……いえ、大丈夫です」

「ところで先ほど見せていただいたのがにらめっこというものでよろしいのでしょうか」

「……はい、そうです」

「なるほど。あれがにらめっこというものだったのですね。ところであれは一体どうすれば良かったのでしょうか」

「どうすればとは?」

「木内様が面白い顔をなさっていたのですが、それに対してわたくしは見ていることしか出来なかったので、作法を間違えてしまったのではないかと思いまして」

「にらめっこに作法なんてないよ。あんなのただの遊びだから、面白けりゃ笑って面白くなかったら相手よりもっと面白いことするだけでいいんだよ」

「そういうものなのですか」

「そういうものだよ」

「ではわたくしもやってみてよろしいでしょうか。そのにらめっことやらを」

「え、やるの」

「はい。何事も経験だと思いますので」


 そう言うと「少しお待ちください」と告げ背を見せた。普段から眉一つ動かさない彼女がどんな顔をするのかちょっと楽しみだった。


「それではいきます。にーらめっこしましょ、笑うと負けよあっぷっぷ」


 パッとノワールが振り返る。その振り返った顔を見た瞬間、俺の心のダムは一瞬にして限界を超えた。


「な、なんだよその顔」


 もうお腹がよじれるとかそんなレベルじゃない。息が出来なくて苦しくなるほど笑い転げていた気がする。ずっと笑っていると流石に気を悪くしたのか、珍しくムッとしていた。


「笑いすぎです木内様」

「悪い悪い。ただまさかアンタがそんな顔するとは思ってなかったんだよ」

「それでも笑いすぎです」


 気がつけばさっきまで見せていた変顔から、すっかりいつもの無表情のメイドに戻っていた。


「あー、よく笑った。でもさアンタそんな顔もするんだな」

「これは褒められているのでしょうか」


 ノワールが無表情ながらもやや呆れた様子で言う。


「笑いすぎたのは謝るよ。なんつーか、意外な一面っていうのかな。なんかそんな姿を見られてちょっと嬉しかった」

「嬉しい……ですか」


 俺の言葉に少し戸惑っている様子だった。


「わたくしにはその感情の意味がわかりません」

「嬉しいとか思ったことないのか?」

「嬉しいというよりも、何かに対して感情を抱くことがないのです」

「それじゃあ怒ったことも泣いたこともないのか?」


 俺の問いかけにノワールは静かに「はい」と頷いた。


「もともと我々人形には感情が存在しません。人形の役割というのは人間が自身の人格や感情を人形に演じさせることにより果たされるものです。ですので器としての人形に余計なものが混じっていてはいけない。そのため人形が感情を抱くことはほとんどありません」

「その割にメリーさんたちは感情表現豊かに見えるけど」

「そうですね。もしかしたら木内様もご存知かもしれませんが、わたくしたちメリーさんとは人から受けた『心』で動いています。持ち主である人間からどれだけ『心』を注がれたか、それによりメリーさんとしての素質が決まります。もちろんその後の行動でどのようなメリーさんへと変化していくか、それはそれぞれの個体によって違いますが」

「なるほどね」

「しかしながら、最近の彼女たちを見ていると、少しばかり変わったような気がします」

「というと?」

「わたくしたちメリーさんは基本的に人々から恐れられている存在です。もちろんそれはわたくしたちが人間に対してなんらかの行動を起こすからでありますが、それにしても人間にそれほど深入りするような真似はほとんどしません。ですが、クオーレお嬢様を含め、アンジェリカ様、メリーさんどなたも以前とは少しばかり違った様子に見えます。もしかしたら──」


 と、そこまで話したところでおしゃべりが過ぎたと言いたげにノワールが話を区切る。


「もしかしたら……なんだよ」

「いえ、お気になさらないでください。ただの思いすごしでしょうから」


 問いただそうとしてみるも、さすが鉄壁のメイド。一ミリたりとも腹の中を探らせる気はないようだった。


「ま、話したくないなら無理に聞くつもりはないよ」

「ええ。ですが、いずれそのうちお話することが出来ればその時には必ず」

「おう」

「それでは今日はこの辺りで失礼いたします」


 そう言うとノワールは静かな所作でエレベーターへと向かっていく。が、その途中で肩ごしに振り向く。


「そういえば、木内様との勝負に勝つことが出来ればお願い事を一つ聞いていただける、でしたよね?」

「へ? 勝負?」

「ええ。確か勝負の内容はにらめっこで相手を笑わせること。そして先ほどのにらめっこで木内様を笑わせることが出来ました。ということはわたくしの勝ちということでよろしいでしょうか?」

「え、だってあれは」

「よろしいでしょうか?」


 ノワールの初めて見る満面の笑みがそこにあった。


 なんだよ……そんな顔されたらなんにも言えないじゃないか。


 なので、


「わーったよ。もうどんな願い事でもどんとこいだ」

「そうですか。ではお願いの内容はまた後日。それでは改めて失礼いたします」


 そう言うとさっきまで見せてくれていた笑顔はいつもの真顔へと戻り、その痕跡すら残っていなかった。エレベーターへと消えていくノワールを見送ると、一人残された俺は、一体どんなお願いをされるのかと気が気でない反面、


「ノワール、アンタも十分感情表現豊かだよ」


 と、悪態をついてやるのだった。

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