木内さんとノワール

 ある日の昼下がりのことだった。


 その日は会社が休みで、予定も何にもない日だった。外は晴れ渡り、澄み切った青空がどこまでも広がっていた。


 天気が良かったから朝から溜まっていた洗濯物を片付け、部屋の掃除をした。窓を開け放って部屋の換気をすると、初夏の風が部屋の中を駆け巡る。その中に夏草の香りがした。


 久しぶりに料理にも挑戦してみた。今日のメニューは豚の角煮だ。それほど難しくないものだけどやっぱり手間がかかる。


 ちょっと前まではこんなふうにのんびりと過ごすことなんて夢のまた夢だった。毎日終わりの見えない仕事に追われ、朝早くから夜遅くまで仕事仕事仕事。休みなんてもちろんない。家に帰ってきてもシャワーを浴びて寝るだけ。けれど眠れない日も多く、ぐったりした調子で会社に向かう。そんな毎日を過ごしていた。それがいろいろあったおかげで、こんな風に何にも考えずに過ごすことが出来ていた。


 あー、幸せ。


 何にもないことが退屈だという人はいるが、何にもない退屈な時間っていうのは実はなにより貴重だ。


 ──ただな、そういう時に限って災難ってのはやってくるもんなんだよな。


 ピンポーン。部屋のインターホンが鳴った。思いもよらなかったことに身を竦ませる。いやまて、これがいつもの夜ならアイツらあたりが来たと思うところだが、今は昼だ。宅配便でも来たんだろう。


 俺はゆっくりと玄関の方まで歩いていくと、ドアノブに手をかけて──踏みとどまった。


 やっぱり嫌な予感がする。ここしばらく本当にいろんなことがあったせいか少しのことが気になって仕方ない。


 でも気にしすぎか? うーん、と悩んでいるとまたピンポーンと鳴った。


 念のためドアチェーンをかけてからドアを開けた。するとそこには──なぜかメイドさんがいた。


 メイドさんといってもメイド喫茶にいるような今時のミニスカメイドじゃない。昔ながらのヴィクトリアンスタイルのメイドさんだ。黒字のワンピースに白色のエプロンを身に付け、栗色の髪をエプロンと同じ真っ白なシニョンキャップにまとめた大人の女性。おおよそ漫画やアニメでしか見ることのないようなオールドスタイルのメイドさんが今俺の目の前にいた。


「ここは木内様のご自宅でよろしいでしょうか」


 メイドさんが口を開いた。見た目通りの凛としたハリのある声だった。そんな彼女は俺をジッと見据えていた。ちょっと怖かった。


「そ、そうだけどアンタは?」

「申し遅れました。わたくしの名はメリー・ノワールと申します。クオーレお嬢様に仕えるメイドでございます」


 ノワールと名乗ったメイドさんは深々と綺麗なお辞儀でご挨拶。俺もそれに倣ってご挨拶。しかしクオーレに仕えてるということは……これはまーた面倒なことになりそうだ。


「ん? ところでアンタ、メリー・ノワールって名乗ってたけどアンタももしかしてメリーさんなのか?」

「はい。わたくしもメリーさんの一人にございます。基本的にメリーさんと認められた人形のみが名前にメリーと付けて名乗ることを許されております」


 丁寧な口調で淡々と教えてくれるメイドさんとは対照的に、へぇーと納得してしまった。にしてもメリーさんってのはちっこいのばかりだと思ってたけど、大人バージョンのメリーさんもいるんだな。


「それでノワールさんはなんでまたこんなところに」

「ノワールと呼んでいただいて構いません。本日お伺いしたのは先日クオーレお嬢様が木内様に大変なご迷惑をおかけしたようで、その謝罪をと思いこちらに寄らせていただきました」


 これをどうぞと超高級カステラとして有名な海風堂の一個二万円するカステラが入った紙袋を渡された。中身が軽いカステラのはずなのに、値段がとんでもないせいか、すごく重く感じる。


「別にこんなもの用意しなくても良かったのに」

「いえ、そういうわけにはいきません。お嬢様が迷惑をかけたのであればメイドである私がその後始末をする。それがお嬢様に仕えるメイドの仕事でございます」


 キッパリと言われてしまったらそれ以上何も言い返すことが出来ない。


「じゃあありがたく受け取っておくよ。なんか申し訳ないな」

「いえお気になさらず」


 ……。


 …………。


 ………………。


「あの、まだなにか」


 そっとドアを閉めようとするとドアが閉まらない。よく見るとノワールが足で抑えていた。


「なにか困りごとはございませんか」

「いや、今は特に……」

「そうですか」


 何に困ってるかと聞かれたら、足でドアを抑えられていることに困ってます! とはさすがに言えなかった。


「しかし、もしかしたらわたくしのお役に立てるようなことがまだ何かあると思いますが」

「例えば?」

「お部屋の掃除などいかがでしょう。成人男性のお部屋は掃除のしがいがあるとお聞きしました」

「部屋の掃除は午前中にやってしまったんだよ。最近片付けてなかったから今日こそちゃんとやろうと思ってさ」

「それでは洗濯などいかがでしょう。成人男性は洗濯物を溜め込むとお聞きしました」

「洗濯ももう終わった。今日晴れてるから溜まってるもの全部洗ってしまおうと思ってさ」

「ではお料理はいかがでしょう。成人男性の食事はコンビニ弁当かインスタントと相場が決まっているとお聞きしました」

「あー……それも大丈夫かな。ちょうど今豚の角煮を仕込んでるところだから」

「そうですか」


 ノワールは無表情でショボーンとしていた。ことごとくノワールの提案を潰してしまうと申し訳ない気分になってくる。


「それではご奉仕はいかがでしょう。それならばまだお役に立てるかと思いますが」

「ご奉仕って?」

「もちろんピー(不適切な表現のため削除されました)でございます。成人男性は毎日ピー(不適切な表現のため削除されました)をしないといけないとお聞きしました」

「誰にだよ!」


 さっきから偏った知識ばかりだと思ってたけど、さすがにそれはマズイ。というよりこの人にその偏った知識を教えたやつ誰だ!? 


「木内様どうかここを開けてください。でないとご奉仕が出来ません」


 ノワールがガチャガチャとチェーンロックを引っ張る。


「しなくていいから! もう気持ちはわかったから今日のところはお引取りを!」

「いいえ、ご奉仕しなければわたくしがここに来た理由がなくなってしまいます。むしろそれが目的です」

「言い切ったよこの人!」


 まともそうに見えたけど、この人が一番やばい! なんでメリーさんってのはこう一癖も二癖もあるやつばっかりなんだよ!


「今日はもういいからまた後日! な?」

「いえそういうわけにはいきません。ご奉仕するのはメイドとしての勤め。それを果たさなければ立派なメイドとはいえません」

「普通のメイドはそんなことしません!」


 俺はドアを閉めようとするがびくともしない。このメイドさんのどこにそんな力があるのか……。


「さあ、大人しくこのドアを開けてください。そうすればわたくしも優しくご奉仕出来ると思いますので」


 相変わらず無表情のままとんでもないことを言ってのけるノワール。命の危機どころか、貞操の危機まで訪れて俺自身色んなことを諦めようかと思ったその時だった。


「ちょっとアンタなにしとんがけ!」


 どこかで聞いたことのあるお国言葉が聞こえた。


 背後からクオーレが現れるとノワールをドアから引き剥がしてくれた。


「これはこれはクオーレお嬢様。ご機嫌よう」

「ご機嫌ようじゃないわよ。アンタ急にいなくなるからどこ行ったのか探していたらこんなところでなにやってんのよ」

「お嬢様が木内様にご迷惑をかけましたのでその後始末をと思いまして」

「後始末ってなによ。わたしよりもたった今アンタがしでかそうとしてたじゃない」

「そんなことはございません。なぜならわたくしはメイドですので」

「なにわたし失敗しませんので、みたいに言い切ってんのよ」


 クオーレがやれやれと肩を竦めていた。なんだろう。こうやってみるとクオーレのほうがまともに見える、


「それより、また会ったわね人間。ご機嫌いかがかしら?」

「ご機嫌もなにもお前らのせいで貴重な休日がたった今終りを迎えたよ」

「あらそう。それはよかったわね」

「よかないわい!」


 午前中はあれだけゆったりとした休日だったのに、たった数分で騒がしい休日に早変わり。俺なんか悪いことしたかな……。


「ところでノワールとなにを揉めていたのかしら」

「いや、さ、このメイドさんがお前が俺に迷惑かけたからいろいろしてくれようとしてくれたんだけど、申し訳ないから断ってたんだよ」

「そうなのノワール?」

「はい。ですが木内様はなかなか強情な方で簡単には首を縦に振ってくださいませんでした」

「貴方ねぇ、せっかくノワールがやってくれるって言ってるんだから素直に受け取っておけばいいのよ」

「いやまあ、掃除とか洗濯全部終わってたし……」

「ノワールはそれだけじゃないのよ。料理だってすごいんだから」

「それも終わってて……」

「そうなの? 貴方、人間の男の割にしっかりしてるのね」


 なぜかクオーレに褒められた。


「それじゃあ一体なんで揉めていたのかしら」

「……」


 言えねぇ。まさかそこのメイドさんが夜のご奉仕(今は昼だが)をしてくれようとしてしていたなんて言ったら、それこそなに言われるか……。


「どうしたの? 顔色が悪いけど。もし体の具合が悪いならノワールに看病させるけど」

「い、いやいやいや、それは大丈夫! それはだいじょーぶ!」

「……なんで二回言うのよ」


 ジト目で訝しがるクオーレ。その背後でノワールがじゅるりと舌なめずりしていた。もうさっさと帰ってくれないかな? かなぁ!?


「なんだか本当に調子が悪そうね。ノワール、今日はこの辺りで失礼しましょう。これ以上はご迷惑になるわ。それではご機嫌よう人間」


 クオーレは水色のドレスを翻すとすたすたとエレベーターに向かって歩いて行った。ノワールもそれに続く。


 これでようやく開放された。そう思っていたら、ノワールがピタリと立ち止まり振り返る。相変わらずの無表情で。そして──、


「また来ますから」


 そう口元だけを動かして言った。


「なにやってるのノワール。行くわよ」

「はいお嬢様」


 エレベーターに二人の姿が消えると、ようやく俺は落ち着くことが出来た。


 なんかどっと疲れた……。また面倒な奴が増えたな。これから先のことを思うと眠れない夜がまた復活しそうな気がした。

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