10月 動物園

 十月になって、気温はどんどん下がった。涼しさの中に寒さが混じり始めている。僕は風を感じながら学校へ急いだ。道具が一式入った絵の具セットを肩からさげ、手には絵の具バケツ。今日は年に一度の写生会だ。


 学校に着くとバスが何台も止まっていた。写生会は、学年ごとにいろんな場所に行き、絵を描く。その中から優秀な絵を選んで表彰するんだ。僕はもちろん一位を狙っていた。一昨年は三位、去年は二位、今年こそは、どんなことがあっても一位を取ろうと張り切っていた。


 僕たち六年生が向かうのは動物園だった。でも三組のバスだけ、いつまでたっても出発しない。一人遅れてるヤツがいた。田辺マコトだ。一組も二組もとっくに出発していて、今ごろはもう着いてるかもしれない。このままだと、ゾウやライオンの前の、一番いい場所がとられてしまう。



 結局、バスは三十分も遅れて動物園に着いた。僕はみんなを押しのけ、ゾウのオリを目指して走った。肩からさげた絵の具セットや画板が体に当たる。すごく邪魔だ。


 ゾウのオリは、人でいっぱいだった。先に来た一組と二組に囲まれ、近くで描ける場所はどこにもない。ゾウを諦め、ライオンのオリに行っても同じだった。何重にも囲まれ、入るすき間もない。遅れてきた三組は、申し訳なさそうに輪の一番外に加わるしかなかった。


 でも、僕は気づいた。みんな熱心に筆を走らせているけど、描かれているのは人気のある動物ばかりだ。ゾウ、ライオン、トラ、クマ、ペンギン。ちょっと変わった動物でも、鳥とかサルくらいだ。みんなと同じ動物を描いても意味がない。変わった動物を描いて、みんなと違うところを見せれば、一位になれるんじゃないか?


 僕はライオンのオリから離れ、グングン歩き出した。サイのオリを通り過ぎ、ダチョウを無視してラクダなんか気づきもしなかった。先へ進むほど動物はマイナーになり、動物園の奥へ行くごとに、あたりの景色も変わっていった。



 その道はシーンと静まりかえっていた。ずいぶん奥まで来てしまった。左側は土手で高い木が何本も生え、右側は長細いオリがずっと続いている。見ると、シカが三匹、草を食べていた。オリの前にある柵に、「エゾシカ」と書かれたプレートがあった。


 シカじゃダメだ。そう思って先へ進もうとした時、女子が見えた。薄暗い中からフラフラ歩いてくる。あれは一組の佐藤マイだ。


 佐藤マイは去年の写生会で特別賞になった、いわば僕のライバルだ。だけど様子がおかしい。画板と絵の具セットを引きずりながら歩いてくる。だんだん近づいてきてわかった。佐藤マイは泣いていた。ゆっくり歩きながら僕の横を通り過ぎる。


 どうしたんだろう? 佐藤マイが歩いてきた道を見た。薄暗い道だ。この先に何かあるんだろうか。進みづらくなったけど、引き返すのは嫌だった。泣いてる佐藤マイについていけば、僕が泣かしたみたいに思われる。年に一度の大事な写生会をそんなトラブルで台無しにしたくない。



 薄暗い道を先へ進むと、ポツンと一つだけオリがあった。動物園の奥の奥だ。オリから先へ行けば、左に大きく曲がって引き返し、ゾウやトラのいる場所に戻ってしまう。ここはみんなから忘れられた、動物園のすき間のような場所だった。


 オリの前に、ピンク色の小さなバケツが寂しそうに転がっていた。きっと佐藤マイのだ。オリの中には何の動物がいるんだろう? 暗くて中は見えない。オリから一メートルほど前に、手すりのような柵がある。そこにも動物を説明するプレートはない。


 きっと動物はいないんだ。そう思って通り過ぎようとした時、気配がした。オリの中を見ると、二つの白く光る目がこっちをじっと見ている。大きな目だ。人間の倍はあるかもしれない。こんな動物を描いたらきっとすごいだろう。


「一番になれるぜ」


 どこからか声がした。僕はギョッとしてあたりを見回した。誰もいない。遠くからシカの鳴く声がうっすらと聞こえる。きっと気のせいだ。そう思ってオリを見ると、大きな目の下に大きな口があった。赤紫色の唇が左右に広がって、すごく不気味だ。


「こんな口、見たことないだろ?」


 また声がした。それがどこから聞こえてくるかわかった。声と同時に、オリの中の大きな口が動いていた。こんなことってあるんだろうか。


「あるんだよそれが。動物だって時々しゃべるんだぜ」


 動物が、人間の言葉をしゃべってる。


「わかってくれたか?」


 だんだん怖くなってきた。だって、よく考えてみたら、この動物は僕が心の中で思ったことに返事をしてくる。ということは……。


「お前の心が読めるんだよ」

 オリの中の動物が言った。大変だ、こんなことがあるわけがない。


「いや、あるんだそれが。現に今こうやって俺が――」

「うわぁ!」


 怖くなって逃げ出した。


「待てよノリカツ」

 驚いて立ち止まった。この動物、僕の名前も知ってるんだ。


「ノリカツ、お前一番になりたいんだろ? だったら俺を描けよ。誰も俺を描くヤツなんていないぜ。こんな珍しい動物を描いたら、お前は絶対に一番だぜ!」


 ニタッと大きな口が笑った。そうだ、一番になるんだ。オリの前に戻ってドスンと座った。オリの真ん前、特等席。誰にも邪魔されず、僕だけがこの動物を描くんだ。


「もっと近くに来いよ」

 中から声がした。


「近くで観察しないと、正確な絵は描けないだろ?」

 動物が優しくささやいた。オリの中はどこまでも暗く、目と口しか見えない。


「ノリカツ、一番になろうぜ」

「うん、わかった」


 僕は立ち上がった。画板を置いて、手すりのような柵に手をかけた。柵からオリまでは一メートルくらいだ。オリの鉄格子からさらに五十センチほど先にあの動物がいる。僕は柵に手をかけ、顔だけ前につきだした。暗闇の中を見つめると、オリの中の目も僕を見返した。


「いいぜノリカツ、もっと近くに来いよ」

「うん、もっと見せて」


 手で柵を掴み、体を全部乗せた。足は地面を離れ、バランスを取りながら顔を近づけた。


「も、もっとよく見せて!」

 これ以上ないほど顔を寄せた。


「いいぜ、全部見せてやるよ」


 暗闇から姿を現したのは、全身を毛で覆われた見たこともない生き物だった。こんなに近づいちゃダメだったんだ。鉄格子のすき間から毛むくじゃらの手が伸びて、僕の顔を掴んだ。痛い! すさまじい力で引っ張られる。必死に柵を掴んだ。それでも動物は僕の顔をグイグイ引き寄せる。


「見せてやるよぉ。もっと近くに来いよぉ」

 動物の声はそれまでと違い、ベトベトした嫌な声に変わった。


「一番になりたいんだろぉ? もっとよく見ろよぉ」

 首が、もげそうなくらい引っ張られた。

「嫌だよ! 嫌だよ!」


 一番になんかならなくていい。とにかくここから逃げたい。動物の力はとどまるところを知らず、さらに強く引き寄せる。僕の力は限界で、ついに柵から手が離れた。

その時、僕は見た。暗闇の中、開かれた真っ赤な口、凶暴に突き出たギザギザの歯。僕の頭がすっぽり入り、口が閉じられようとした時、背後から声がした。


「ノリカツ君!」

 千田先生の声だ。


「先生!」


 思いっきり叫ぶと、掴んでいた力が消えた。僕は力なくオリと柵の間に落ちた。

 何してるの? 柵の中に入っちゃダメでしょ」


 千田先生はオリの前までやって来た。僕はフラフラ立ち上がり、あわてて柵の向こうに戻った。先生の後ろに佐藤マイが隠れるように立っていた。手にピンク色のバケツを持っている。先生とバケツを取りに来たんだ。


「何もないオリで遊んでないで、みんなと絵を描きなさい」


 どういうことだろう? 僕はオリを見た。中は空で動物はいない。壊れた木の箱と干からびた草が少し落ちてるだけだ。見ると、オリの右隅にプレートがかかっている。


「この動物舎では動物を飼育していません」


 足音が二つ、遠ざかっていくのが聞こえた。千田先生と佐藤マイがシカのオリの前を通って帰っていく。僕は画板と絵の具セットを拾って二人を追いかけた。もうこんな所で一人になるのは嫌だった。


 涼しさの中に寒さの混じった十月の風が吹いた。木の枝たちがザワザワと音を立て

て揺れる。気配がして後ろを振り返った。暗いオリの中から、大きな目が僕を見つめていた。その下で、あの口がパクパク動いた。


「また来いよ」


 そう言っていた。

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