9月 満月の夜
空に昇った満月が、黒い雲に隠れて見えなくなった。
俺は走り出した。あの雲が、いつまで空を覆っているのかわからない。満月が顔を出す前に、家に辿り着かなければ。
こんな日に限って、仕事が長引いてしまったのだ。会議があるのはわかっていたが、こんなにも遅くなるとは思わなかった。
「今日は満月なんですね」
同僚の女性が会議中に言った。そうだ。だから俺は帰りたかったのだ。このままだと取り返しのつかないことになる。
日が落ちて、夜が訪れ、ついに月が昇り始めた。俺にとって幸運だったのは、今日の天気が曇りだったということだ。ようやく仕事が終わった時、大きな黒い雲が空を覆い始めていた。ギラギラ輝く満月が、しだいに姿を隠されていく。俺は建物の中から様子をうかがい、雲が満月を隠した瞬間、勢い良く飛び出した。
俺は走り続けた。雲はどのくらい月を隠しているだろう。十分? 十五分? このまま全力で走り続けて、家に着くのは早くて十分だ。それまで持つだろうか。
道は暗かった。月が隠れて、明かりはほとんどない。家と家の間を伸びる狭い道に、街灯だけがポツンポツンと目印のように灯っている。どこからか虫の音が聞こえる。俺が走り抜けると虫たちは驚いて鳴くのをやめる。静寂が訪れ、聞こえてくるのは俺の足音と荒い息づかい。俺が通り過ぎると、虫たちはまるで俺のウワサをするように背後でまた鳴き始める。
もう何分走っただろう? 三分? 五分? 息が切れて、汗が噴き出す。風が出てきた。不吉な風だ。走りながら空を見た。風で雲が流されていく。闇が徐々に弱まっていく。満月がついに顔を出し始めた。
俺は走る速度をなお上げた。もう間に合わないだろう。それでも走り続ける。満月の光りがヒリヒリと顔に当たった。俺は手で顔を覆う。光りに焼かれた手の甲に、太い毛が生え始める。俺の内側から、抑えきれない衝動がわき上がってくる。野生の血が、ドクドクと脈を打ち始める。
俺はもう走るのをやめ、その場に跪いた。見ると、手はビッシリと毛で覆われ、爪はするどく伸びている。顔を触ると獣のような顔つきだ。口は前に突き出て牙が飛び出し、体も膨れあがって今にも服が破れそうだ。
俺はゆっくり立ち上がった。何かを言いかけたが、グルルルという、うなり声しか出ない。口の端からよだれが落ちて、アスファルトに染みを作った。
満月の夜、光りを浴びると、俺は獰猛な獣に変身する。狼男、そう呼ぶヤツもいる。だが名前なんてどうでもいい。今の俺は血に飢えた怪物だ。
鼻の先を一瞬、風が通り抜けた。近くに誰かいる。クンクンと俺は鼻をうごかす。この道の先、右に曲がった所。人間の男、それも少年だ。俺はベロリと舌を出し、唇を舐めた。今夜の獲物だ。
俺は走った。道を曲がり、先へ行くと、見えた。向こうの街灯の下を、少年が歩いている。後ろ姿しか見えないが、カバンを提げているから学校帰りだ。こんな時間まで寄り道するなんて、悪い子だ。
足音を消し、俺はヒタヒタ走っていく。あっという間に追いついて、背後から影のように忍び寄る。少年は何も気づいていない。爪が、牙が、獲物に飛びつく準備をしてワナワナと動く。俺は息がかかるほど近寄って、少年の肩を掴んだ。
その時、びゅうと強い風が吹き、空で、雲が大きく流されたのがわかった。一瞬にして満月は雲に隠れ、あたりはまた闇に変わった。
肩を掴まれ、少年は驚いた表情で振り返った。俺はもう人間の姿に戻っている。少年は安堵の声で言った。
「斉藤先生!」
少年は、隣のクラスの田辺マコトだった。危ないところだ。人間に戻り、理性を取り戻したから良かったものの、もしあのまま獣のままだったら。俺は動揺を隠し、自然に振る舞った。
「三組の田辺か。こんな時間まで何してるんだ」
田辺はシュンと下を向いた。俺は田辺の肩から手を離した。
「早く帰りなさい。危ないから、気をつけて」
「はい!」
そう言うと、田辺は夜の道を走っていった。月が隠れた闇の中、田辺が街灯の下を走り抜けるたび、ポツンポツンと姿が現れた。俺は遠ざかっていく背中にそっとつぶやいた。
「危ないから、気をつけて」
そう、夜の道は危険だ。特に、こんな満月の夜は。
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<↑間違って第1稿載せていました……。
↓出版されたのは第3稿(をさらにゲラで手を入れたから本とはちょっとだけちがうと思います)。どう変わったのか読み比べると面白いですよ>
ケンジはいつも、帰りが遅くなるのを嫌がった。私はずっとケンジと遊んでいたかったけど、日が暮れ始めると、ケンジはさっさと帰ってしまう。だから今日は、遅くまでケンジを引き止めた。
六年三組の仲のいい子たちと、学校のグラウンドで遊んでいると、日が暮れてきた。一人また一人と帰っていき、田辺マコトがいなくなると、私とケンジの二人だけになった。ケンジも「ミチコ、僕も帰るから」と言ったけど、私はあわててケンジの手を掴んだ。
「ねえ、あっちに野球のボールが落ちてるよ」
私はグラウンドの端まで行ってボール拾い、ケンジの方へ投げた。ボールは力なく点々と転がったけど、ケンジは見向きもしない。暮れゆく西の空を眺め、何か太陽に未練でもあるような、そんな表情をしていた。
私は、花が咲いてるとか虫の音が聞こえるとか言って、ケンジをグラウンド中、連れ回した。ケンジは引っ張られるがままだったけど、しだいに抵抗するようになり、最後には私の手を引きはがした。
「痛い!」
「ごめん」とケンジは謝ったけど、ソワソワして西の空ばかり気にしている。見ると、太陽はもう姿を消して、夜になろうとしていた。
「僕、もう本当に帰るよ」
そう言うとケンジは歩き出した。私は一人残され、ケンジの後ろ姿をじっと見つめた。寂しい気持ちで心が押しつぶされそうだ。
グラウンドから出ようとしたところで、ケンジが立ち止まって振り返った。私は何か言おうとしたけど、ダメだった。ノドの奥に悲しみがいっぱい詰まって、言葉が出てこない。すると、ケンジがこっちに駆けてきて、素早く私の手を掴んだ。
「早く帰ろう」
私は嬉しくなって、ケンジと一緒に走った。グラウンドを出て、学校を後にする。道はあっという間に暗くなり、街灯に明かりがついた。家と家の間を、狭い道がずうっと伸びている。
どうしてこんなに急いでいるんだろう。走りながら疑問がよぎる。ケンジは何度も空を見上げ、何かを気にしているみたいだ。今日は曇り空で、月は見えない。雲の端から月明かりが漏れて、街をうっすら照らしている。
どれだけ走ったんだろう。私は息が切れて、走る速度が落ちてきた。ケンジがグイグイ引っ張るので、掴まれた手が痛い。
「ケンジ、もう走れない!」
私は走るのをやめ、しゃがみ込んだ。
「ダメだよ、早くしないと」
「どうしてそんなに急ぐの、ゆっくり帰ろうよ」
ケンジは空を見上げた。雲が、風に流されていく。
「もう時間がないんだ」
ケンジは強引に私を立たせ、また走り出した。だけど、さっきまでのようにはいかない。私は走るというより歩いていたし、ケンジは私を引っ張って、ギクシャクした動きになっていた。
私はまたへたり込んだ。風がゆっくり吹いたのがわかった。顔に流れた汗が、九月の風に当たってひんやりする。空の上でも風は吹いてるみたいだ。雲の流れが速くなって、月が徐々に顔を見せ始める。ケンジは私の手を離そうとした。一人で帰るつもりだ。
「ダメ!」
私は両手でケンジの手を掴んだ。一緒にいたいという気持ちがなお強くなった。
「ミチコ、本当にもう――」
とケンジが言った時、まわりが急に明るくなった。雲が流れ、空に月が現れた。こんなに明るいなんて。そう思って見上げると、今日は満月だ。大きな月がお化けみたいに浮かんでいる。
その時、手の甲に柔らかい感触があった。昔飼っていた犬のジョンが、こんな毛並みだったと一瞬思い出した。空から視線を落とし、掴んだケンジの手を見た。ハッと思わず手を離した。ケンジの手の甲から、太い毛が何本も伸びている。驚いて顔を見ると、ケンジはもう人間じゃなかった。顔中、毛で覆われ、口が前に盛り上がり、牙が何本も飛び出している。
獣はグルルルと声にならない唸りをあげた。私は恐怖で言葉も出ない。地面に座ったまま怯えていると、獣が近寄ってきた。私は逃げようとして後ずさる。爪の生えた凶暴な手が、私の方へ伸びてくる。捕まえられる! そう思って手を払うと、硬い爪が私の手に当たった。グルルルル。ノドの奥から悲しい唸り声が聞こえた。獣の目が、じっと私を見つめている。
「ケンジ……」
私は手を伸ばし、体に触れようとした。だけど、獣は素早く体をひねり、背を向けたかと思うと影の中を走り抜け、あっという間に姿を消した。
私は地面に座ったまま震えていた。何が起こったのかわからない。立ち上がってあたりを見ても、月に照らされた道には誰もいなかった。ゆっくり歩き始めると、しだいに悲しみがこみ上げてきた。涙が流れ、地面に落ちた。満月はいつまでも輝き続け、どこか遠くで、月に吠える動物の鳴き声が聞こえた。
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