5月 タイたん
木村カナエがタイタンのことを知ったのは、水曜日の三時間目の授業だった。
「タイタンは土星で最も大きい衛星です。地球と同じように厚い大気で覆われ、マイナス百八十度の地表にメタンの雨が降り注いでいます」
理科の時間、千田先生はまるでタイタンを見てきたかのように説明した。六年三組のみんなは、その神秘の星に思いをはせたが、カナエだけは違っていた。
タイタン。なんてかわいらしい名前なんだろう。「クマたん」みたいに愛らしい。
四時間目、算数の時間になっても、カナエの頭からタイたんは離れなかった。千田先生が妙な数式を黒板に書いてる間も、ボンヤリと宙を見つめ、あの名前を何度も思い出した。
「木村さん!」
千田先生がカナエを注意した。カナエはあわててノートにかじりつき、黒板の数式を写し始めた。だけどすぐにあの名前を思い出し、そっとノートの隅に書いた。
「タイたん」
じぃんとしびれるような感覚だった。心のすき間に何かがカチリと噛み合った。
木曜日。
次の日になっても、カナエの頭の中にタイたんはいた。気がつくとタイたんを思い出す。ノートの端には、「タイたん」という文字がいくつも書かれていた。
四時間目、理科の授業で千田先生はエウロパの話をしていた。やはりタイタンと同じくどこかの星の衛星で、タイタンとエウロパには生命がいる可能性があるらしい。
だけど、そんなことはどうでもよかった。とにかくタイたんだ。カナエはノートに書いた「タイたん」という文字の下に丸を書いた。しゅっとノートの上を鉛筆が走る心地よい音がした。その丸が衛星タイタンであるかのように思われた。ここから十四億キロ離れたタイたんが、今ノートの上にある。カナエはその丸の中に目と口をかいた。ああ、タイたんの顔だ。
四時間目が終わり、給食の時間になった。カナエはノートに完全なタイたんを描いていた。もうただの名前じゃない。丸だけでなく、目と口だけでもない。かわいらしい女の子の姿をしたタイたんが、カナエのノートの中にいた。
「タイたん」
とカナエは口に出してみた。誰かに聞かれないように、そっと、凍えるような声だったが、絵に描いたタイたんにはきっと届いたはずだと思った。
「おい」
と前から声がした。ノートから顔を上げると、佐田シンが給食のカップを手に持っていた。いつまでたっても給食を取りに行かないカナエに替わって、持ってきてくれたのだ。
もしかして「タイたん」と言ったのを聞かれたかもしれない。カナエはシンを見つめた。
シンは「なに?」と言って見つめ返してきた。
「何でもない」
そう言ってカナエは下を向いた。
カナエとシンは幼なじみで、北北西小学校に入学した当時はとても仲が良かった。
でも今は違う。
小学三年生の時だった。カナエはオシャレに気を使い始め、シンも気づいていた。シンはお母さんのネックレスを家から無断で持ってきた。帰ったらすぐ引き出しに返さなくてはいけなかったが、カナエがゴネた。白く光るネックレスは、カナエの黒髪に良く似合った。
結局、一晩だけということで、カナエはネックレスを借りた。シンは、気づかなければ大丈夫だと思ったが、お母さんは気づいてしまった。無くなった、泥棒だと騒ぎ出し、シンは真相を言えなくなった。カナエも騒ぎを知ったのだけど、ネックレスを返さなかった。カナエは貴重な物を手に入れたが、シンとの友情は失った。それから二人はなんとなく話しづらくなって遊ぶ回数も減っていき、四年生になってクラスが変わるとまったく会わなくなった。
月日は流れ。
六年生になり、二人は同じクラスになった。しかもシンはカナエの前の席。同じ班になり、二人はちょっとだけ言葉を交わすようになったが、ネックレスに触れたことは一度もなかった。五月十二日十二時四十分、シンがカナエに給食のカップを持ってきた時も。
金曜日。
カナエのノートは勉強のノートというよりもタイたんのノートになっていた。タイたんという文字が飛び交い、タイたんが描かれ、タイたんへの思いが書きつづられた。理科の授業では衛星や惑星の話は終わっていたが、カナエはかわいい少女と化したタイたんに夢中だった。
休み時間、カナエがムフフとノートのタイたんを見つめていると、カナエの机に黒い影が伸びた。
カナエは突っ伏していた体を起こして前を見た。シンがカナエのノートを見ていた。きっと熱心に書いたり見つめたり話しかけたりしているのに気づいたんだ。カナエはあわててノートを腕で隠した。
「なにそれ?」
とシンが聞いた。
「ノート」
とカナエは答えた。
土日は学校に行かなくていい。カナエは一日中タイたんのことを想い、タイたんを描いて過ごした。紙の中に存在するタイたんを、カナエはたまらなく愛おしいと思った。
月曜日。
カナエはイライラしていた。結局、紙の上だけなんだ。「タイたんタイたん」と呼びかけてみても、タイたんはいつもノートの上で微笑んでいるだけ。動くことはないし、話しかけても返事をしない。タイたん……タイたんに会いたい。
朝、シンが教室に入ってくると、カナエが言った。
「ねえ、覚えてる?」
シンは話しかけられるとは思っていなかったので、ギョッとしてカナエを見た。
「なに?」
「昔、私とシンで、夢の中でも遊べたらいいねって……」
「う、うん、まあ」
シンはそんなことを話していたことを恥ずかしく思った。でもカナエは気にせず、ズケズケと話を進めた。
「夢の中に入る方法ってあったでしょ? そこで、会いたい人と会えるっていう」
「夜、寝る時に、枕の下に絵を入れるんだ。その絵が夢の中に出てくるって千田先生が言ってたんだけど、結局成功しなかったよな」
「そうだった! 会いたい人を絵に描けば、その人が夢の中に出てくるかもしれないんだよね!」
カナエは思い出して嬉しくなった。
シンは、カナエが自分と夢の中で会いたがってるかも、と勘違いしてますます恥ずかしくなったが、シンが夢の中に登場するのはまだ先の話だった。
その日の夜、カナエはこれぞ、というできのタイたんの絵を描いた。その絵は今までで一番タイたんだった。
午後九時。いつもより早くカナエはパジャマに着替え、枕の下にタイたんの絵を入れた。さあこれで。
ベッドに入っても興奮してしばらく眠れなかった。寝る時間が早かったせいもある。目を閉じてタイたんのことを思った。かわいいタイたんが目に浮かんだ。飛び跳ねる姿が愛らしい。上下に髪が揺れていた。そうだ、リボンを描けば良かったんだ。そう思いながらカナエは眠りに落ちた。
まさか成功するとは思わなかった。小三の春にシンと二人で試した時は失敗した。でも今度は、確かに夢の中にタイたんが現れた。カナエと同じくらいの身長で、年齢も同じくらい。ピョンピョン飛び跳ねながらこっちにやってくる。そのたびにかわいい黒髪がサラサラと揺れた。
「カナエ!」
タイたんはカナエに抱きついた。一人っ子のカナエにとって、ようやくできた双子の姉妹のように思われた。夢の中で二人は夢中になって遊んだ。
火曜日。
目が覚めると自分の部屋にいた。楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。枕の下に手を入れてタイたんの絵を取り出した。心なしか、タイたんは笑っているように見えた。
それから一日は長かった。カナエは早く学校が終わってほしかった。早く家に帰って早く寝て、早くタイたんに会いたかった。
ようやく最後の授業が終わって、教室を飛び出そうとした時、シンが何か言いたげだったけど、カナエは無視した。それよりもタイたんだ。
カナエは午後七時にベッドに入ったが、さすがに眠れなかった。タイたんのことを思いながら時間だけが過ぎていった。あっと、気がついてベッドから出たのは八時で、枕の下に入れたタイたんの絵にオレンジ色のリボンを描き足し終えたのが八時十五分だった。
八時三七分、夢の中でタイたんにまた会えた。タイたんはオレンジ色のリボンをしていた。かわいらしくて良く似合う。
「カナエ、ありがとう」
タイたんはニコッと笑った。
「どういたしまして。タイたん、他に欲しい物ある?」
リボンが成功したのでカナエはもっとタイたんにあげたくなった。
「うーん……」
タイたんは顔を上げて言った。
「ネックレス!」
次の日の晩。カナエはタイたんの絵にネックレスを描いた。
「違うよー、こんなの違うー」
夢の中、タイたんは自分の首に下がるネックレスを見てゴネた。カナエは困った顔をしたが、タイたんの気持ちは良くわかった。確かにこのネックレスはタイたんには似合わない。似合うとしたらあの白いネックレスだ。
次の日の晩。それは木曜日だった。
カナエは机の引き出しから木の箱を取り出して、三年ぶりにあのネックレスを手に取った。シンのお母さんが大事にしていた白いネックレスは、三年前と同じように美しく輝いていた。カナエは枕の下にタイたんの絵とネックレスを入れた。
夢の中でタイたんは座り込んでいた。カナエは手に持っていたネックレスをタイたんの首にかけた。タイたんはネックレスを見てぱぁっと明るくなった。
「カナエありがとー!」
タイたんは飛びついてきて、グイグイと顔を押しつけた。これでいいんだとカナエは思った。
だけど起きた時、枕の下からネックレスは消えていた。タイたんの絵はあったが、ネックレスだけ消えていた。もしかしてと思ったそのとおりに、絵の中のタイたんの首には白いネックレスが下がっていた。
金曜日。
カナエは給食のパンを一つもらって帰った。それは休んだ田辺マコトの分だったので、誰も文句を言わなかった。
夢の中で給食のパンをあげると、タイたんはすごく喜んだ。でもすぐに、もっと欲しいと言い出した。
次の日、学校がなかった。
カナエはおやつのプリンを部屋に持っていき、食べないまま夜を迎えた。
夢の中でタイたんは不満を漏らした。
「スプーンは?」
忘れていた。プリンだけ枕の下に入れたのだ。プラスチックの容器に入って密閉されているから、枕の下に入れても大丈夫だと、それだけが頭にあってスプーンを忘れた。
「スプーンはー? カナエ、スプーンはー?」
「ゴメンねタイたん。スプーン忘れちゃった」
「もう! お腹空いたー!」
そう言ってタイたんは、プラスチックの容器ごとプリンを口に入れた。ゴリゴリと音がして、プラスチックが噛み砕かれた。ゴクリ、とタイたんはプリンと容器を飲み込んだ。カナエはあっけにとられて見つめるしかなかった。
「もっと食べたーい! もっとー!」
日曜日はおやつを倍にしてもらった。エクレアを二つ。そんなに食べたら太るでしょ、とママは言ったが、カナエは「いいから二つ!」とゴネた。
だけどタイたんのお腹はエクレア二つ程度では満たされなかった。
「もっと食べ物が欲しい! 甘い物、美味しい物、温かい物、冷たい物!」
と、とにかく何でも要求して、手足をバタバタさせた。
「タイたん、少しずつ持ってくるから、がまんして」
カナエは泣きそうになった。もっといい子だと思っていたのに。
「じゃあ、カナエの人形をちょうだーい!」
要求が変わった。カナエの人形セットは全十二体。十二ヶ月に合わせて十二人の少女が綺麗な服を着てポーズを決めている。去年の誕生日、十二月生まれのカナエがクリスマスのプレゼントと合わせて買ってもらった、お気に入りの人形だった。
「ダメだよ。あれは大事なんだから」
「ちょうだーい! 食べないからー」
食べられたら大変だった。
結局、十二体の人形はタイたんのものになった。食べないと約束していたのに、五月の人形「メイ」は足が美味しそうだという理由で食べられてしまった。
カナエは、他の人形を食べないという約束でお気に入りのワンピースをあげることにした。タイたんは親戚のお姉さんに買ってもらった赤い靴や、いい匂いのする消しゴムも要求した。カナエはすべて、受け入れるしかなかった。
「腕時計が欲しい」
とタイたんが言い出した時には、カナエの大事な物はすべてなくなっていた。枕の下に絵を入れなくても、タイたんは夢の中に現れた。
「腕時計なんてないよ」
カナエは下を向いた。
「ルイさんのところにあるでしょー! 欲しいー!」
ルイさんというのは商店街で時計店を営むおばあちゃんのことだった。ルイさんのお店のショーウインドーにはかわいらしい腕時計が飾ってあって、カナエはその前を通るたびに欲しくなっていた。
「ねえお願いー! ルイさんのお店にあるピンクの腕時計!」
まさにそれこそカナエが欲しかったものだった。
「でも腕時計を買うお金なんてないよ……」
「盗めばいいでしょー! ちょうだいー!」
タイたんはグイグイ迫ってきて、カナエは押し倒された。
「できないよ、盗むなんて」
「盗めよー! 盗んでこいよー!」
タイたんの顔が目の前にあった。もう以前のようなかわいい顔ではなくなっていた。目がギラギラ光ってカナエをにらみつけている。
「やめてよお願い!」
叫んだところで目が覚めた。火曜日の朝だった。
救われたという気がした。
その日は一日中憂鬱だった。学校に行ってもタイたんのことを考えないようにした。だけどノートを開くとびっしり「タイたん」という文字が書かれている。ページをめくると、ひときわ大きなタイたんの絵がこっちを見て笑っていた。
家に帰って時間が過ぎていくと、寝るのが怖くなった。寝てしまうとタイたんが現れる。カナエはキッチンに行って、棚の奥にあるインスタントコーヒーのビンを出した。お湯を沸かしていると、ママが何をしているのか聞いてきた。
「ホットミルクを飲むの」と言い訳したが、ホットミルクはお湯を沸かす必要がないことくらい、カナエにもわかっていた。だけど言い訳が通じたのだろうか、ママはそれ以上何も言わなず、いなくなった。
カナエはインスタントコーヒーを作り、自分の部屋にソッと持っていった。初めてのコーヒーは苦すぎて二口しか飲めなかったが、苦さのせいで起きていられるような気がした。
その時、部屋のドアがノックされた。ママだ!
カナエはあわててコーヒーを机の下に隠し、ベッドに飛び込んだ。寝ていることにしよう。
二度三度ドアがノックされ、ママが入ってきた。電気をつけっぱなしで寝るなんて、と文句を言いつつ、しばらくママは部屋にいた。さっきキッチンでお湯を沸かしていたことを怪しんでいるんだ。カナエは早くママに出ていって欲しかった。
時間はもう十一時を過ぎていた。そんな時間にベッドに入ったせいで、うつらうつらしてくる。ふんわり体を包み込む布団が、夢の中にカナエを誘う。眠りたくないのに肌触りのいいタオルケットが、フカフカの枕が……。
「腕時計よこせよ!」
タイたんが顔を真っ赤にしてカナエの上に乗っていた。
「よこせよ!」
カナエの体を何度も揺さぶる。
「やめて!」
カナエはタイたんをどかせようとするが、タイたんの体はずっしり重くてつぶされそうだ。
「腕時計くれないと、お前を殺すぞ」
そう言ってタイたんはカナエの首を締め始めた。
「お前を殺して食べてやる。食べてやる」
ギュウギュウと首が絞められていく。カナエは必死にタイたんの手を離そうとするが、力の差は歴然としていた。
「タイたん……やめ……て……」
のどの奥からなんとか絞り出した。
「じゃあ腕時計盗ってこいよ。欲しいんだよ!」
「盗ってくるから! 盗ってくるから!」
朝起きた時、カナエは疲れ果てていた。まるで夜の間もずっと起きていたみたいだ。今日が何曜日かもわからない。考えたくなかった。とりあえずカバンに教科書とノートを詰め込んで学校へ行った。
ボンヤリと一日が過ぎていった。たぶん何度も千田先生に怒られた。
学校が終わって、気がつくとカナエは商店街を歩いていた。いつもの下校の道とは違う。商店街のルイさんの店の前まで来ると、ピンク色の小さな腕時計が今日もショーウインドーに飾られていた。これだ。
お店に入ると、「いらっしゃい」というしゃがれた声がした。
ルイさんは中年の男性と店の奥で話していた。
カナエは狭い店内をぐるっと回って、最後にショーウインドーに飾ってあるピンク色の腕時計の前まできた。
後ろを振り返ると、ルイさんは熱心に男性と話し込んでいる。
ドキドキと胸が鳴った。こんなことしていいのか。ダメに決まってる。見つかったらどうしよう。でも今ならバレないで盗れる。
もう一度後ろを見た。ルイさんはまだ話してる。
今だ。
ピンク色の腕時計を取って、上着のポケットに入れた。
胸のドキドキが激しくなった。
空気が重い。息ができない。
カナエはそのまま店を出た。
外に出ると五月の太陽が照っていた。まるでカナエを空から監視しているみたいだ。
カナエは走り出した。早くここから逃げ出したかった。
太陽が沈み、夜になって月が出た。
腕時計を渡すとタイたんは喜んだ。さっそく細い左腕につけて「どう、似合う?」とカナエに聞いてきた。
「うん、似合うと思うよ」
タイたんの機嫌が直ったのはいいけれど、とんでもないことをしてしまった。
「タイたん、もうわがまま言わないでね。なんでも欲しい物が手に入るわけじゃないんだから」
「手に入ってるじゃん、ホラ」
タイたんは腕時計をカナエに見せた。
「だってそれは、私が持ってきたから!」
「盗ってきた、でしょ? カナエは悪い子ね」
タイたんはニヤニヤ笑った。
「タイたんが言うからでしょ!」
思わず声を張った。何のためにこんな、盗みまでしたのか。
「ゴメンねカナエ。でも、欲しい物はなんでも欲しいの! 今度は男の子を連れてきて! そうだ、佐田シンを連れてきて! シンが欲しい!」
「タイたん、それは無理! 男の子なんて!」
「できるでしょー! シンを連れてきて!」
タイたんがカナエの肩をつかんだ。もの凄い力で爪がカナエの肩に刺った。
「痛いよ」
「連れてきてよ! お腹減ったー! シンを食べたいー!」
「無理だって!」
肩からタイたんの手を離そうとするが、逆にグイグイ爪が刺さってくる。
「昔やってたでしょ! お互いの顔を描いて、枕の下に入れてたでしょ!」
タイたんは何でも知っている。
「でも絶対来ないよ! どうやって夢の中に呼ぶの!」
「シンが来ないなら、代わりにお前を食べてやる!」
タイたんはカナエの鼻の先で大きく口を開いた。ギザギザの歯がカナエの鼻を食いちぎろうとした。
カナエは悲鳴を上げた。
「カナエ! 起きてカナエ!」
何度も体を揺さぶられて、ようやくカナエは起きた。
自分の部屋だった。ベッドの横にパパとママがいた。
ママは泣きながらカナエを揺さぶっていた。
「ママ? どうしたの?」
午前四時。異常なほどうなされているのを聞いて、パパとママが起こしに来たのだ。
それからカナエは、パパとママと、リビングのソファーで夜明けを迎えた。でも、カナエはタイたんのことを言えなかった。カナエはタイたんのためにルイさんのお店から腕時計を盗んだ。そんなことを言えば、絶対に怒られる。
パパもママも、今日は休んだ方がいいと言ったが、カナエはあえて学校へ行った。家にいて、自分の部屋に一人でいると、寝てしまうかもしれない。
木曜日の四時間目は理科のテストだった。
「地球と同じように厚い大気に覆われ、マイナス百八十度の地表にメタンの雨が降り注ぐ、土星で最も大きい衛星の名前を答えよ」
カナエは答えがわかっているのに書けなかった。あんなにたくさんノートに書いた言葉が書けなかった。
給食の時間になり、一口も手をつけないカナエをシンが心配した。
「カナエ、どうしたんだ?」
「シン」
「なに?」
「助けて……」
カナエの涙が、給食の中華風春雨スープに落ちて波紋を広げた。
「な、泣くなよ。どうしたんだよ?」
「眠れないの。寝たら、夢の中で殺される」
カナエはシンにすべてを話した。だけどシンには信じられない話だった。夢の中でタイたんという女の子がカナエを支配しているなんて。
「シンは信じないかも知れないけど、今日、シンを夢の中に連れていかなかったら、代わりに私が食べられるの」
「でも、俺が夢の中に入っても、俺が食べられるんだろ?」
カナエはうなずいた。
「それに、もし俺が枕の下にカナエの絵を入れても、本物のカナエが夢の中に現れるとは限らないだろ。別のカナエの夢を見るかもしれないだろ?」
確かにそうだ。それに同じ夢を見るなんて、二人が仲の良かった頃に何度も試したのに、一度も成功したことがなかった。
給食の時間が終わろうとしていた。みんなが食器を片づけ始めた。カナエは最後に一口だけ、中華風春雨スープを口に入れた。いつもより塩辛く、涙の味がした。
その晩、カナエはシンの顔を絵に描いて、枕の下に入れた。シンも同じことをしてくれるだろうか。五月二六日十時十三分五十六秒。覚悟を決めて、カナエは眠りに落ちた。
気がつくと夢の中だった。タイたんはいたがシンはいなかった。カナエの話を信じてくれなかったのか、それとも一緒の夢を見ることに失敗したのか。
「シンは?」
タイたんがモグモグしながら聞いてきた。口の端から人形の手足が何本か見えた。結局全部食べられたんだ。
「シンは来ない」
カナエはタイたんの目を見ていった。
タイたんがゆっくり近づいてきた。
カナエは動けなかった。逃げようにも夢の中をどう逃げたらいいのか。
タイたんがカナエの前まで来てニコッと笑った。ありし日のタイたんの笑顔だ。ずっとこの笑顔だったら良かったのに。
「じゃあ、お前を食べるから」
タイたんの顔は醜く歪んで、開いた口から人形のビニールの臭いがした。
夢の中で食べられたら現実の私はどうなってしまうんだろう。疑問が頭をよぎった。
タイたんの歯が頭に刺さった。ギリギリと突き刺さり、皮と肉をえぐった。
「痛い……」
と言った時、ゴン! と音がしてタイたん経由で振動が伝わった。タイたんが誰かに殴られたんだ。タイたんはグズグズと倒れていった。
タイたんの背後に、金属バットを持ったシンがいた。
「どっちか迷ったけど、食べられてる方がカナエだと思って」
シンはワケのわからないことを言っている。
「どういうこと?」
「だってホラ」
と、シンはタイたんを指さした。カナエは倒れているタイたんを見た。カナエそっくりの女の子だった。
朝、目を覚ました時、カナエは夢のことをほとんど忘れていた。夢はいつだってそうだ。見ている時は鮮明でも、起きるとすぐに忘れてしまう。枕の下にシンの似顔絵とネックレスを見つけても、どうしてこんな所にあるのかわからなかった。
朝ご飯を食べながら、カナエはズキズキした頭の痛みに気がついた。指でソッと触ると、点々としたヘコみがあった。まるで歯形みたいだ。それで少し思い出した。そういえば昨晩、夢の中でシンに助けてもらったような。
学校へ行くとシンは首に湿布を貼っていた。寝違えたらしい。昨日の夜、枕の下にバットを入れて寝たからだと、男子同士で話している。
千田先生が教室に入ってきて、みんなあわてて席についた。シンがカナエの前の席に座っても、カナエはなんだか話しかけづらかった。昨晩、夢に出てきたのは本物のシンなのだろうか。
学校が終わっても、カナエはシンに夢のことを言えなかった。
放課後、カナエは教室に一人残っていた。カバンの中には白いネックレスが入っている。今日こそ返そうと決意したのに。
教室の窓辺に立って空を見ると、夕方だというのに五月の太陽はまだしっかり照り続けていた。が、空の片隅に一つ、輝く星のような物が見えた。一番星?
カナエにはそれが、土星を回るタイタンのように思われた。もちろん地球から十四億キロ離れた衛星が、こんな時間に、しかも肉眼で見られるはずがない。だけど。
空から視線を落とすと、帰っていくシンの後ろ姿が見えた。校門を出て歩いていく。
もう一度空を見た。星は見えなかった。
カナエはカバンを持って教室を飛び出した。今ならまだ間に合うだろう。
階段を下りて、玄関から外に出た。
「シン!」
大きな声で叫んだ。
シンが振り向いた。
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