第8話 これから選ぶべき道は
まず感じたのは振動だった。
狼からの強烈な一撃によって気絶した佳月は、その沈んだ意識の中で、細かな揺れと音を、なんとなくではあったが感じていた。それは佳月を目覚めへと押し進め、意識が浮上するにつれて次第に明確な形を得ていった。
目を開けた佳月が最初に見たのは、抜けるような青空だった。
ゴトゴトという規則的な音に合わせて、振動が仰向けの身体に与えられ視界が僅かに揺れている。寝ていた場所は石のような硬い質感ではないが、クッション性はほとんど無く、寝心地が悪かった。
「
身体を起こそうとして、佳月は顔をしかめる。
打ち身の鈍く深い痛みに佳月は苛まれていた。大蛇と狼の両方から同じ場所に攻撃を食らわされたのが原因だった。
「ここ、は……?」
未だはっきりとしない意識で、佳月は周囲を見回してみる。どうやら佳月は荷馬車に乗せられているようだった。一頭立てで、鹿毛の馬がのんびりと引いている。身体の下になっていた硬いものの正体は麻袋で、それなりの量が積まれていた。
木製の荷車は長く使われているためか所々が傷んでいた。しかし踏み固められた地面から伝わる振動の他には不自然な揺れなども無く、くたびれた見た目とは裏腹に未だ頑健さを保っていた。
「フォルテ。彼、起きた」
馬車の座席に座っていた少女が振り返り、佳月のことを見ていた。歳は佳月と同じくらいの十五、六あたりだろうか、無邪気さや親しみ易さなどは微塵も感じられない無機質な表情を向けていた。目鼻立ちは作り物のように整っており、吊り上がり気味のパッチリとした大きな目に、ぽっかりと浮かぶ深い黒色の瞳が特に印象的で、例えではなく本当に吸い込まれそうだと感じた。黒い髪を背中辺りまで伸ばしており、くたびれた紺のワンピースからは新雪のように白く透き通る美しい肌が覗いている。服飾に疎い佳月でも、『服が負けている』と思うほどの可憐さだった。
「ん? おぉ! どうだ、気分は!」
少女の右隣で手綱を握っていたフォルテと呼ばれた男は、無表情な少女とは対照的に、朗らかな様子で佳月に笑いかけた。
茶色みがかったブロンドの髪は短く刈り上げられてツンと尖っており、綺麗に髭が剃られた日に焼けた肌が眩しい、正に好青年という出で立ちだった。歳は幾らか佳月よりも上に見えたが、濃緑のくたびれたズボンに使い古した白シャツ、そして色落ちか元々そういう色だったのか判断に困る濃い灰色のベストという、言い方は悪いがどこかとぼけた印象のおかげで、そこも含めて少女とは対照的に親しみ易く思えた。
「思ったよりかは、元気そうだな!」
そう言ってフォルテはカラカラと笑うと再び荷馬車の進路に視線を戻した。
「あの、あなたは?」
未だ痛みの残る佳月は、なんとか絞り出すように声を出してフォルテに問い掛けた。走る荷車や馬の足音にかき消されて聞こえないかもしれないと思ったが、「おお!」と気安い返事が返ってきたため、杞憂に終わった。
「そういや名乗って無かったな! 俺はフォルテ! 見ての通りケチな運び屋だ! こっちのはグロリア!」
グロリアと呼ばれた先程の黒髪の少女はフォルテの隣で所在なく遠くを眺めており、紹介を受けたにも関わらず会釈する様子も無く、ピクリとも動こうとしなかった。
「こいつ、愛想なくってさぁ!」
「はあ……」
「で? お前さん名前は!?」
「ぼ、僕は佳月と言います!」
背中越しでも分かるフォルテの威勢の良さに釣られ、つい佳月も声を張り上げるが傷んだ身体に響き、痛みに顔をしかめてしまう。そんな佳月の様子も露知らず、進路に目を向けたままフォルテは続けた。
「カヅキか、よろしくな! にしても驚いたよ! あんな所に人がいるなんてさ!」
「あんな、所?」
「まさか行き倒れに出くわすとは! 通りがかったのが俺でなけりゃ、今頃身ぐるみはがされてたぜ!」
物騒な冗談を口にし、フォルテは一人高らかに笑った。しかし、何気ないフォルテの言葉が、佳月には引っかかった。
「行き倒れ……。僕は、確か……」
佳月は未だぼんやりとている頭で状況を整理していく。
気を失って、目覚める。その体験に既視感を覚えた佳月は疑問を少しづつ掘り下げ、そしてようやく意識が覚醒した。心臓を鷲掴みにされるような、耐え難いほどの悪寒と共に。
「陽香っ!」
現状を把握するやいなや、即座に佳月は荷台から飛び降りた。
「ぐうっ……!」
しかし、身体に残るダメージは思ったよりも深刻で、着地の衝撃だけで激しい痛みが走った。佳月は痛む鳩尾に手を当てると、その場にしゃがみこんで動けなくなってしまった。
「おいおいおい!?」
馬車をすぐに止めて、フォルテは佳月の元へ急いだ。
「どうしたんだよ急に!?」
「早く、行かないと……!」
「はあっ!?」
「僕が、僕が陽香を助けないと……!」
佳月はうわごとのように呟きながら、嫌な汗が噴き出す痛む身体を奮い立たせて立ち上がった。それはまるで、それ以外に選択肢は無いと自分自身に言い聞かせているようだった。
「絶対に、僕が、絶対っ!」
「いや無茶すんなって!?」
あまりにも異常な佳月の様子にフォルテも戸惑い、思わず組み付いて佳月の動きを止める。自身より大柄なフォルテに組み付かれては、傷を負って弱っている今の佳月では振りほどけなかった。
「離して下さ――ぅぐっ!」
抑えているフォルテの手が、たまたま佳月の鳩尾に当たってしまい、呻き声を上げて佳月は膝をついた。息は絶え絶えになり、痛む鳩尾を押さえてその場に
「ったく……」
そう言いながら、フォルテは
「そんなボロボロで、無茶するなよな」
「大丈夫、です。こんなの……!」
「その、痛んでるとこに当たっちまったのは悪いと思ってるぜ? でも、それだけでこんなになっちまうのを大丈夫とは言わねえぞ?」
「僕が、僕が行かないと、陽香が、妹が危ないんです……!」
あらん限りの熱を込めた視線で、言葉で、佳月はフォルテに訴えた。それはまるで、自らに課せられた絶対の命令に全てを捧げようとしているようであった。
「だから行かないと、僕が、行かないと!」
しかしそんな熱を帯びた佳月の姿を見て、フォルテは困ったように目を泳がせていた。何度か視線を彷徨わせた後、乱暴に頭をガシガシと掻いた後、ようやく佳月に視線を戻して、フォルテは重々しく口を開いた。
「やめておけ」
「えっ……?」
「お前さん、盗賊か何かに襲われて命からがら逃げてきたんだろ?」
フォルテは今度こそはっきり分かる哀れみを込めて、佳月に言った。
「誰もお前さんを責めたりしない。だからもう、そういうのは忘れた方がいい」
瞬間、佳月は何を言われたのか理解できなかった。一切の音が姿を消した、耳鳴りがするほどの静寂の中に佳月は放り込まれていた。
僕が……逃げ、た?
「……ちが、うっ……!」
ようやく言葉を飲み込んだ佳月は、かすれた声を漏らした次の瞬間、炎が再び燃え盛るように声を荒げてフォルテに掴みかかった。
「僕は逃げてなんかいないっ! 僕はっ! 僕は陽香を見捨てて逃げたりしないっ! たとえ死んでも、相手が怪物でもっ! 見捨てて逃げたりなんてしないっ!」
「お、おいっ!?」
佳月はフォルテの胸ぐらを掴みながら、あらん限りの声で叫びたてた。しかしその叫びはどこか悲痛であり、空しく響いて溶けていった。
「僕はっ! 僕はっ——げほっ! ごほっ!」
叫びたてたせいか、佳月はむせ込むと膝をつく。ようやく胸ぐらを解放されたフォルテは未だ呼吸の整わない佳月の背中を再びさすりながら、殊更優しく声をかけた。
「どこではぐれたかは知らねえが、俺が見た時にはお前さんしかいなかった。ボロボロの恰好で、無防備で身一つで、放っておいたら死ぬと思った。そいつは寝覚めが悪いから、こうして拾って来たんだ」
「ぁ……」
「お前を拾ってから、もう結構な時間が経つ。その前も含めるなら、相当だろう。もし仮に生きていたとしても、会えるとは、俺には思えない」
佳月の口からは、呻き声が漏れるばかりだった。
この人は知らない。
僕たちは盗賊に襲われたわけじゃない。陽香はあの極寒の大地にいるかもしれない。助けに行かなければならない。
でも。
そんなに時間が経っていたのか? あの大蛇をなんとか出来るのか? あの大樹はなんの反応も示さなかったじゃないか?
何か言い返さなければ。そう思ってはいるのだが。現実が、自分の中に確固として存在していた使命感にひびを入れる。現状を盾にした言い訳が自分の中に反響して、まるで声を出す能力を失ったかのように、言葉が出てこなかった。
「また、僕は……」
陽香の死。それは考えないようにしていた最悪の事態だった。それがチラついて、佳月は目の前が真っ暗になった錯覚に陥った。
「守れ、なかった……?」
力無く項垂れ、佳月は呟く。もはや、それで精一杯だった。
失意に沈む佳月を見て、フォルテはバツが悪そうに目をつぶると、少しばかり険しい表情を作る。そして、諭すように再び語り掛けた。
「なんにせよ。今お前がやるべきことは、自分自身をキチンと守ることだ。傷を癒して、金を稼いで、ちゃんと毎日食うに困らねえ生活をすることだ」
「……いや……」
弱々しく、佳月は俯いたまま地面を見ながら呟く。
「奇跡が起きて、会える、ことだって……」
「奇跡、だって?」
妄言としか思えない佳月の言い分を、フォルテは突き刺すように制する。
「……そもそも起こらないことに縋ってどうするんだよ」
フォルテは佳月の未練を断つべく畳み掛けるように言葉を続ける。
「現実を見ろ。第一、俺に拾われたこと自体が、お前にとっては奇跡みたいなもんだ。これ以上の奇跡、起きるわけがない」
「ぁ……っ……!」
フォルテに言い切られ、佳月は言い返そうと口を開くが、発する言葉が見つからない。絶望に打ちひしがれる佳月の姿にフォルテは目を伏せる。そして立ち上がると馬車の方へと歩き出した。
「行くぞ。今ならまだ日暮れ前に街に入れる。……自分の命を、あんまり粗末に扱うな」
僕の、命……?
「――嫌だ」
「お前……!?」
未だに道理を理解しようとしない佳月に若干のいら立ちを覚えながらフォルテは振り向き、息を呑んだ。
そこには地面に縫い付けられていた顔を上げて一心にフォルテを見つめる佳月の姿があった。涙に濡れた瞳は、打ちひしがれて皺くちゃになった顔の中にあっても、鈍く、強く輝いてた。
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